HOME
HOMEのトップ
牧師と話す
牧師の紹介
人間関係を語る
人生を語る
牧師室の縁側
教会を見る
信仰告白
教会の特徴
教会Q&A
リンク集
聖書を読む
元気の出る言葉集
ショートメッセージ
礼拝説教要約集
参考図書
活動を知る
一般の活動
国際NGO活動
心の相談室
カルチャークラス
これまでの礼拝説教要約(2006年度)
2006年01月
2006年02月
2006年03月
2006年04月
2006年05月
2006年06月
2006年07月
2006年08月
2006年09月
2006年10月
2006年11月
2006年12月
2006年01月
2006年01月01日
「この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが、約束されたものは得ませんでした。神は私たちのために、さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられたので、彼らが私たちと別にまっとうされるということはなかったのです(ヘブル11:39,40)」
一般にクリスチャンはどのように世間の人々に見られているのでしょうか。中には誤解と思える見かたもあったりするのですが、たとえば、クリスチャンは優しくて受容的ということがありますけれども、イエスには対決的な部分もありました。また、信仰のあるクリスチャンは迷わないし、失望しない、と思われているようなところもあるかもしれませんが、現実はそうではありません。疑いがあればこそ、信仰の成熟もありえるのです。また救われたクリスチャンは決して罪を犯さないし過つこともない。そんなことはありません。パウロのローマ書7章における肉と霊の相克の苦悶はクリスチャンの現実をよく言い表しています。クリスチャンは絶えず霊に生きようとして試み、神様に助けていただいている存在と言えるでしょう。さらにクリスチャンは神様が味方なので、守られているし災いに遭うことがない。これも誤解です。雨が良い人にも悪い人にも注がれるように、災いも平等です。クリスチャンになったから祝福づくめ、何でも物事がうまくいくというわけではない。
ただそこで聖書は、クリスチャンに忍耐を働かせるように勧めています。ヘブル10章の主張はそうです。11章はその忍耐を働かせた具体的な例が列挙されたものです。10:33-35は、信仰を働かせてこの世的に勝利した人々の例。10:36-38は、同じように信仰を働かせたもののこの世的には報われなかったというか悲劇に遭遇した例です。このように点に注目させことで著者は、私たちにこの世的な成功・不成功、あるいは幸・不幸など、とは違う祝福に目を向けさせようとしています。
私たちは目に見える目先の祝福で一喜一憂するものですが、聖書は目に見えない神の与えられる祝福にこそ目を留めていくようにと促します。そしてそのためにこそ信仰をもって忍耐を働かせた人々の例をあげていくのです。今年も私たちが、目に見えないものをはっきり見、そこに喜びを見出していくことができるように、主の格別の哀れみを祈ることとしましょう。また世の事柄においては、いかなる状況に置かれようとも、そこに神の計り知れないご計画と私たちへの最善への配慮もまたあることを覚えて、よき証しを立てる生活へと導いていただきましょう。
2006年01月08日
「私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」(ヘブル12:1)
クリスチャンの人生は競技にたとえられることがしばしばです。Tコリント9:24-27、Uテモテ2:5、そして今日のヘブル12:1-3に描かれているようにです。クリスチャンになるということは、プレッシャーと緊張と、圧力に直面する競技に参加することと同様であるといえるでしょう。もし、私たちがこの競技において勝利しようとするならば、私たちには忍耐と勇気が必要です。
まず1節。「いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて」とあります。競技に参加するには、競技、つまり私たちの信仰の成長のペースを妨げるようなものは一切捨て去る覚悟が必要です。「罪」を捨て去らなければなりません。ここで言う罪とは、ヘブル10章からの流れから見ていけば、神を信じないことであることがわかります。いわゆる不信仰の罪です。
次に「忍耐をもって走り続けよう」と呼びかけられています。それはただ我慢して走り続ける、ということではありません。それは勝利を確信して粘り強さを発揮するということです。勝利を与える神が伴走してくださるのに、勝利を信じない、それも罪と言えるでしょう。
2節に入ります。こうあります。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」最初の瞬間だけではなく、苦闘の最中で絶えずイエスを見続けるということです。どんな競技にも勝利のための秘訣というものがあるでしょう。信仰の勝利の秘訣は第一にイエスから目を離さないでいることです。走行の最中に他の走者を気にしたりしてはなりません。あるいは道路わきの声援に気を取られたりしてはならないのです。ただひたすらゴールであるイエスに目を注いで走るのです。3節には考えなさい。とあります。ギリシャ語の意味には幅があります。それは比較する、熟考する、そんな意味があります。勝利の第二の秘訣はイエスと自分をよく比較する、イエスをとおして自分を熟考する、です。そうすれば、自分がどんな走りをすればよいのかが見えてくるはずです。
そして最後に、神の恵みを祈りもとめる、これを秘訣として考えて生きましょう。信仰の出発点は恵みです。恵みに始まったものはめぐみによって完成されていきます。私たちの信仰が守られるのも、信仰が勝利に導かれるのも、神の恵みによるものです。もっと恵みを!神の祝福を互いに祈り求めていきましょう。そして私たちは決して一人で競技を戦っているのではないことを覚えましょう。主イエスがともにおられます。主イエスとともに勝利してまいりましょう。
2006年01月15日
「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。」(ヘブル12:5)
人は様々な思いを持って教会に来るものです。礼拝に出るような気分ではない、そんなことだってあるものです。で、今日の箇所はそんな人への励ましのために、それだけのために書かれた箇所であると言えるでしょう。
で、聖書は苦しみは、神の懲らしめである、神のご計画の内にあるものであると教える。えっ?これが主の懲らしめ?そうは思えないことがあるでしょう。神様が自分に意地悪をしているとは思えなくても、そこに神様が働いてくださっているとは思えないことがある。これは神様とは関係がないこと、災いだと思ってしまうことがある。けれども、ここで素直になって、聖書に耳を傾けてみることにしましょう。
まず、神の懲らしめには、私たちが神の本当の子であることを知らせるための意義がある。人間にとって一番悲しいことは無関心であることです。神の懲らしめは神の関心のあらわれ。実際、人間のしつけというのは時間のかかること。本当に子どもを愛し育てるとしたら、そこには子どもへのかかわりが出てきますし、かかわろうとする心があるものです。
また、神の懲らしめは、神の子の人生が豊かになるために計画されたものです。今の親は一生懸命子どもを育てています。それは子どもの能力を育てることに偏りすぎている面もある。英会話、ピアノ、スイミング、学習塾と、そこには子どものよい将来を夢見る親の願いがあります。しかし心を育てる注意深さがなくて、困難を克服できない子、悪い誘惑にすぐ乗ってしまう子を育ててしまっていることもある。人間の親の愚かな一面もありますが、神は人の霊性が豊かにされることをそれこそ考えて、私たちを懲らしめに導かれることがある。
つまり、神の懲らしめは、神の子が人間として完成されていくためのものです。神の聖と神の義が完成されていく。キリストの義が形作られていくためのもの。それはただいい子に育てられるということではない。ある信仰的な教理をしっかり守られるように育てられるということでもない。パウロがローマ書の最後で教えたことはしなやかな信仰ということです。人間的成熟ということです。
ある聖書学者が言いました。最後の節はコーチが選手を励ますような言い方をしているところである。あともう一分張り、頑張ろう!とうわけです。私たちは様々な凝らし感じるものですが、そこで弱り果ててはいけない。ファイトを出しましょう。それは、あなたが最後まで勝ち抜くため。そして勝ち抜くことで、助けられる人がいる、ということも覚えなくてはならないことなのです。
2006年01月22日
「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。 」(ヘブル12:14)
前回は、神の懲らしめが、神の聖さに与らせ(10節)、平安な義の実を結ばせる、そんな働きをするものであるが故に、大切に受け止めるべきことを話しました。ヘブルの著者は、この二つに人生の目標があることを再度明確にしようとしています。つまり、すべての人との平和を保つこと、そして主の前にある聖さを求めていくことです。 実にこの対極として世俗的であるということがあるでしょう。世俗性というのは服装や嗜好といった外的なことではありません。また都会が世俗的で地方は純粋といった土地柄のことでもない。それは「主なるキリストを否定し、軽んじる考え方」のことです。ですから聖書的な聖さというのは、主の前で純粋でかつ偽りのない心を持つということに他なりません。
次にヘブルの著者は、私たちに、二つの積極的な命令と三つの否定的な警告を発します。第一に弱肉強食の世界で平和を求めて生きるということです。食うか食われるか、そんな世界で「求める者には与えなさい、打ちたたく者には別の頬も向けなさい」などということはできない相談です。ただ主の最善を信じるからこそ、蛇のような敏さを持ちながら、鳩のように生きていくこともできる。 またこの世は思うがままに、目先の肉欲の目指すがままに生きることをよしとするものですが、私たちはそういう世界で、人格的に変えられることを求めて生きているわけです。キリストに近づけられることを求めて生きている。これも天の祝福があることを考えてこそ成り立つ、生き方です。
ヘブルの著者は、神の恵みにより頼みなさい。と勧める。誰も神の恵みから落ちることがないように、と。神の恵みによってスタートした私たちの信仰生活は、恵みによって完成されるものです。恵みにしがみつきなさい。そして絶えず霊的な書物による瞑想と祈りにより耕し、苦い根が出て悩まされることのないようにしなさい。何よりも永遠よりも今を生きようとするエサウのような俗物にならないように警戒しなさい、と。
ですから私たちは世俗的な考えと積極的に戦っていくことが大切です。自分が専心していることの結末をよく考える。それによって今のあり方を修正すべきです。そしてもし、自分がエサウのような俗物になってしまっていたとしたらどうするか。ヘブルの著者は、エサウは許されなかったと述べています。それで皆さんもあきらめますか?神様を信じて救われたけど、大変な失敗をした。永遠の事柄よりも今を良しとしたエサウと自分は同じ、あきらめますか?私たちが恵みによって救われたことを思い起こしましょう。詩篇88を読み返しましょう。恵みから落ちることがないように。主の十字架の恵みにどこまでもすがって、主の祝福の中に入れさせていただきましょう。
up
2006年02月
2006年02月05日
「しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです」(ヘブル12:22)
まず用語の整理から。シナイ山、シオンの山。少し具体的なイメージをつかんでみましょう。シナイ山(またはホレブ山)は、奴隷であったイスラエルが指導者モーセに引きつられてエジプトを脱出した際、荒野を40年間さ迷いましたが、その時に神がモーセに律法を与え、民と契約を結んだ場所です。具体的に現在のスエズ運河とアカバ湾に囲まれたシナイ半島にある山のことです。そこはイスラエルにとっては神と出会う聖なる場所であったわけです。
一方、シオンの山は、大雑把に言ってしまえば現在のエルサレムのことです。もともとはエブス人の要塞でキデロンの谷とチロペオンの谷の間を走る尾根の南端に急傾斜を作っている岩山を指していました。ダビデ王が治世の7年目に攻め取り王都とし、神の箱を据えて、王国の宗教的中心としたわけです。以来シオンの山は、地上における神の臨在の場とされていきます。
またソロモンがシオンの北側の丘(一般にモリヤの山と呼ばれる)に神殿を建て、聖なる箱を据えた時に、シオンの名はこのより広い範囲を含む拡大された意味で用いられるようになり、その後はエルサレムの同義語となっていきます。ともあれ、シナイもシオンの山も神の臨在の場であり、聖なる地でしたが、意味づけが少し違っていました。前者は恐怖のイメージ。後者は故郷、憩いの場、恵みのイメージでした
こうしたイメージに照らして著者は、私たちは、日々神様にお会いする日に近づいているがそれは恐怖ではなく恵みの時である。シナイ山ではなくシオンへ行く感覚であると語ります。そしてそこには、「無数のみ使いたちの大祝会」「天に登録されている長子たちの教会」「まっとうされた義人たちの霊」があるとされる。つまりこれまでに召された信仰の先輩たちがすでに再会を待っている、ということでしょう。そしてさらに「アベルの血よりも優れたことを語る注ぎかけの血」があると言う。アベルの血は、地から神に叫んで、兄カイン殺人に抗議し、正当な審判を求めるものでした。それは呪い、批判、怒りの叫びでした。キリストの血は、彼を信ずるすべての人に対して、天から聖めと赦しを宣言し、そして神との和解と平和をもたらすのです。アベルの血は、カインを罪意識に追いやり、失望に追い詰めました。しかしキリストの血は私たちを罪意識から解放し、神の御前に立つことを許すのです。神は私たちに大きく心を開き、恵みを持って迎えてくださる、というのです。このように神は私たちに素晴らしい未来を用意していてくださる。これは信仰によって受け止めるべきことです。
そこで著者は言います。25節。「ですから語っておられる方を拒まないように」と。心を開いて、キリストの罪の赦しをいただいてください。また、26節。すべての物質世界は揺り動かされ粉々にされる。そして揺り動かされないものだけが残るとされる。揺り動かされないものというのは、神の愛です。そのことを感謝しましょう。そして、感謝をもって奉仕へと出させていただきましょう。英訳では、「礼拝」となっているものもあります。しかしここでは「仕える」という意味の方が適切です。キリストにある救いの恵みを持って、神様にお仕えしていく。今週もそのように導いていただくこととしましょう。
2006年02月12日
「あなたがたが手を差し伸べて祈っても、わたしはあなたがたから目をそらす。どんなに祈りを増し加えても、聞くことはない。あなたがたの手は血まみれだ。洗え。身をきよめよ。わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。悪事を働くのをやめよ。善をなすことを習い、公正を求め、しいたげる者を正し、みなしごのために正しいさばきをなし、やもめのために弁護せよ。」(イザヤ1:15-17)
2月11日は、「建国記念日」として覚えられる日ですが、キリスト教界では「信教の自由を守る日」として覚えられるところがあります。そこで今日は、信教の自由を守る日にちなんだ説教をしてゆきます。
まず信教の自由と言った場合、それは何を意味するのか。憲法では、第20条にあたるもの「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」(第一項前段)、「何人も宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強調されない」(第二項)という部分ですが、三つの点が大事です。一つは、内なる信仰の自由。つまり、人は心の内においてどんな宗教を信仰することも自由。どんな宗教を信じないのも自由ということです。ですから国家が特定の宗教を国民に対して信仰するように強制したり、勧めたりすることは許されないし、国家が国教を樹立することを禁止されていることも当然なことです。二つ目に、宗教的行為の自由があります。人は誰であっても自分が信仰している信仰によって、自由に、礼拝、祈祷、宗教上の儀式や式典などを行うことはもちろん、宗教上の行為、祝典、儀式、行事などに無理に参加を強制されることはないわけです。ただこれは、内心の自由そのものとは異なり無制約ではありません。その行為が何らかの法規に触れる場合、その責任は免れることはできません。宗教を信じたからといって非常識になることは許されない。常識感覚があることは大切なことです。そして三つ目に結社の自由が意味されている。信仰を同じくする者が宗教団体を設立し、自由に活動することが保障されているということです。
で、このような信教の自由はどんな背景に由来するものなのか。二つの背景が重要でしょう。一つは、敗戦の出来事に伴う戦後処理の問題。ポツダム宣言受諾(1945年7月26日)による、ポツダム宣言の条項(第10項)を遵守する責任が生じたということ。それから戦中のキリスト教を初めとした諸宗教への弾圧の歴史からの反省がそうです。 そこで、信教の自由の現在の課題についてまとめましょう。第一に国家の動きについて私たちは考えていかなくてはならないところがある。最近話題になったことと言えば「君が代日の丸の問題」があります。どうもこれはクリスチャンの音楽教師だけの問題とされてしまい、もう誰も知らぬふりを決め込んでいるところがある。けれども、やはりキリスト教界全体の問題でしょう。実際には、教会全体で取り組むというよりは、個人の責任で考え、小さな声を上げていく必要があろうかと思います。また、為政者たちのために真に正しい政治が行われるようにそれぞれがきちんと祈っていく必要がある。第二に、考えるべき課題はカルトの動きです。エホバの証人や統一教会など非社会的カルトの動きにどう対応するか。無関心であってはなりません。ただこの点について聖書が勧めていることは、そのようなカルトと対決することではなく、むしろ正しい福音的教理を明確にして、宣教をさらに推し進めることにあるようです。悪を善をもって駆逐するといったらよいでしょうか。そして第三に他国の問題を考えていく必要がある。旧共産諸国、イスラム教国内での人権侵害の問題です。信教の自由を奪われている国がある。そういう国々に無関心である、というのはどうもクリスチャンとして足りない部分がある。彼らの救いと守り、そして宣教師たちの安全を祈ること、少なくとも努力したいところです。
そして最後に考えたいことは、私たちに信教の自由が守られているというのであれば、私たちはより信仰の純粋性を深めていくことを考えていく必要がある。習慣的な信仰から脱皮したいものです。ただ日曜日通うだけの信仰、会員に名を連ねているだけの信仰、クリスチャン信仰はこういうもんだと聖書も読まず自己流にやり放題の信仰は考え直したい。何のために信仰を持っているのか。神を恐れているならば、それらしいあり方を追求したいものです。本当に神を知る生活を歩ませていただきたいものです。
そしてまた、より信教の自由の機会を生かすことを考えたい。それはより熱心に奉仕し、より熱心にとりなし、より熱心に仕えていくことに他なりません。一層宣教を推進し、教会を建て上げるために、自身をささげつくしていくことなのです。
2006年02月19日
「兄弟愛をいつも持っていなさい。旅人をもてなすことを忘れてはいけません。こうして、ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました。牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやり、また、自分も肉体を持っているのですから、苦しめられている人々を思いやりなさい。」(ヘブル13:1-3)
ヘブル13章の1-3節は、人との愛の関係について教えるものですが、それぞれ対象が違います。まず1節は他のクリスチャンとの関係、2節は旅人(見知らぬ人)との関係、3節は、囚人との関係について語っている。
最初に一節から。ヘブルの著者は、「兄弟愛を持ちなさい」と勧める。 教会にとって大切なことは、二つの気風を建て上げることです。第一に霊性、生活化された霊性。つまり内実の伴った信仰的な態度生活が教会の中に建て上げられていくこと。次に、兄弟愛です。兄弟愛と訳されたギリシャ語は、フィラデルフィア。CSルイスの次のことばを引用しましょう。「恋人は常に自分たちの愛について語る。友達は その関係について語ることはしない。恋人はいつも顔と顔をつき合わせて互いを求め合う。友達は、互いに並んで、共通の関心を追求する。」教会に必要なのは、互いに並んで共通の関心を追求する愛です。共通の関心、それはもちろん、キリストの福音の拡大であり、神の栄光ではないでしょうか。
次に二節。「旅人をもてなしなさい」と勧められている。これは教会外の人々に愛が向けられていくことを語っている。教会の仲間のみならずそれ以外の人にも開かれ た心を持っていかなくては、教会というのは成長していくことがない。内輪受けする教会というのは、居心地がいいでしょうが、それだけで終わりです。何の発展性もない。そういう意味で、私たちは外に開かれた心をもっていく、そしていつでも色々な人を受け入れていく。神様が送ってくださった方に気づいて、その必要に応えていくという心が必要でしょう。そのように神様が送ってくださった方に気づいていくためには、ちゃんと神様のみこころにそう努力、つまり祈りの生活も大事なのです。
さて、第三に3節。「牢につながれている人々を、思いやりなさい」とあります。牢につながれている人々を思いやるというのは、私たちの日常性を越えた思いやりを持つということではないでしょうか。私たちというのはどうしても自己中心になりやすい。他人のことを考えていても目に見えない人のことまでは考えられないものじゃないでしょうか。普通は。人間的な深さがないと、世界の各地で信仰の自由を奪われ捕らえられている人のことなんかは考えないものでしょう。私たちはそういう関心を失わないことが大切です。というのも、私たちには何かができるからです。私たちが人を愛する心を持ち、それを実践するならば、教会の中で用いられることがあるでしょう。あるいは教会の外で用いられることもある。そして思いもしない、人間関係に導かれて用いられる、ということもあるのです。愛の歩みへと導いていただきましょう。
2006年02月26日
「結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。寝床を汚してはいけません。なぜなら、神は不品行な者と姦淫を行なう者とをさばかれるからです。 金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」(ヘブル13:4,5)
私たちの家庭に必要とされるのは愛です。逆にどのようにして家庭が壊れていくかを考えれば、愛が不可欠であることは歴然としています。しかもその愛は漠然としたものではありません。具体的なものです。聖書は家庭における愛の実践について、二つのことを教えています。
第一に、結婚関係を守っていくこと。パートナーとの性的な関係を守っていくこと。第二に、物欲から解放されていくこと。物にとらわれた生活に巻き込まれないことです。 「寝床を汚してはならない」このことばはギリシャ語では「汚染させない」という意味があります。パートナー以外との性的交渉は、肉体に終わるものではありません。心も感情も深くかかわる、全人的なものです。神はこういうものを裁かれるという。どのようにか。ダビデの苦悩(詩篇32:3-4)がそれを教えてくれます。神は良心を目覚めさせ、魂の責め苦として裁きをもたらすのです。ダビデは真実さを失った苦悩を日照りで魂が乾ききる様に表現しました。一人では負えきれない苦悩として。そして誰一人この苦悩を共に負うことのできる者もいません。それを明かされた人は皆負いきれない苦しみを味わうようになる。そして家庭が崩壊するのです。
聖書はそんな苦悩の結末を見越した視野から今の夫婦関係を大事にするように勧めます。愛を働かせるように勧めるのです。 ただこんなことが語られるのは、教会内にすでにこういう問題があったからなのでしょう。ダビデは主の赦しの中に新しい歩みを始めました。十字架のある教会で求められることは悔い改めを促すこと、主にあって新しい歩みを勧めていくことです。
家庭が破壊していく第二の原因としてお金の問題、貪欲さへの警戒が語られています。皆さんは今の自分の生活に満足しているでしょうか。もし、もっと会社は給料を出すべきだと考えていたり、もっといいところに住みたいと考えていたり、いつも何かのカタログを引っ張り出したりしていることがあれば、それは満足していない証拠です。また、税金にしても献金にしても、義務としてなすべきことをきちんとできず、どこかで誤魔化し、惜しむ心が働いているならば、それもお金に囚われている証拠でしょう。生活の満足感というのは、物を所有することにあるわけではありません。実際、貪欲さは、今以上に何かを所有したいという思いであって、物を持っているか否かには関係がないのです。 で、私たちが神様を忘れていく時に、こういうところで狂いが出てくる。本当に大切なものがわからなくなってくる。何を優先とすべきかわからなくなるものです。そして目に見えない価値あるものよりも、目先の今という時に囚われてゆくようになる。
人間にとって大切なのは愛の関係です。この関係が大事にされるために、夫婦もお金のあり方も考えられていかなくてはいけない。私たちの罪に曇らされた目がはっきりと天の価値の素晴らしさを見て、優先すべきものを第一とすることができるように祈りましょう。
up
2006年03月
2006年03月2日
「神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。」(ヘブル13:7)
信仰には一種の思慮深さが必要です。日本人の信仰は客観的というよりも主観的になりやすい気が致します。ここで言う指導者は、これまで歴史上に現れた殉教者のことですが、彼らの生活の結末を「よく見て」つまり、「調べる、精査する、精密に観察する」中で、その信仰に倣うということが勧められています。
そこでたとえば、日本にはどんな人たちがいたのか。殉教者ではありませんが、津田仙を例にとりあげてみましょう。彼は津田塾大学の創設者である津田梅子の父ですが、彼もまた日本の近代化に大変な貢献をした人物。農業の分野で貢献した人。日本に新しい農業を発展させる夢を持って、同志と共に農学校をつくることを計画、自宅に、慶應義塾、同志社、共立学社と共に、四大私立学校に数えられた「学農社農学校」をつくっている。しかも、仙は、「立派な農学者は、心も立派でなくてはならない」とキリスト教の精神を取り入れた教育を実施、キリスト教の集会も開いていたわけです。「農業こそ最も健全で、最も尊く最も有益な職業である」との信念により、仙は農業専門雑誌を発行全国的に広め、園芸家、農業指導者としての地位を確立します。 また仙は、信仰を持つがゆえに、世の中の色々な必要に協力を惜しまない人物となり、さまざまなよい働きをいたしました。たとえば明治9年仙は、日本人の盲人の教育が進むことを願って、筑波大学付属盲学校の前身となる「楽善会訓盲院」を設立しています。また明治23年には全国的な禁酒運動を展開、さらに、栃木県足尾銅山の鉱毒問題において、被害地救援運動のためにも帆走したことが知られています。
クリスチャンになって仙の生活には幅が広がりました。それもそのはず、天地創造の神と全人類への愛を持った神に対する信仰に生きるクリスチャンの心の幅は広がっていくものなのです。
さてさらに大切にすべき、目に留めるべき模範はキリストの模範そのものです。私たちは注意深くイエスの生活の結末に目を留めていく必要があります。イエスがなした働きというのは人々の罪が癒されるために、神と人を結びつける働きを担うために、苦しみを受けられたというもの。そしてヘブルの著者は、同じようにしようではないか、といっているわけです。 神の言葉をしっかり語り神のことばに結び付けていく、そんな働きに倣う、というあり方が大事。いつも、永遠の神に人を結びつける、そして神に結びついて確かな歩みをする結末、実を残していく、そんな指導者たちの足跡にならうものとさせていただきましょう。
2006年3月12日
「私たちのために祈ってください。私たちは、正しい良心を持っていると確信しており、何事についても正しく行動しようと願っているからです。また、もっと祈ってくださるよう特にお願いします。それだけ、私があなたがたのところに早く帰れるようになるからです。」(ヘブル13:18,19)
私たちは、クリスチャンの人生において三つの敵に直面するものです。この世、肉、そして悪魔です。 この世というのは、神に敵対する世の中のあり方そのもの。神を認めず、目に見えるものが大事、今が大事というそういうあり方のことです。また肉というのは、目の欲、暮らし向きの自慢(Tヨハネ2:15-17)と呼ばれるもの。こういうものに深く絡め取られて私たちは生きている。さらに悪魔。悪魔は、告発する者(黙示録12:7-11)、誘惑者(マタイ4:3)、人を殺す者(ヨハネ8:44)、など色々な言われ方をしていますが、これら三つを見て私たちがわからねばならないのは、私たちの戦いは血肉に対するもので、人間に対するものではないということです。つまり、人間は敵ではない。あなたの夫も、あなたの子どもも、あなたの友人も、あなたの上司も敵ではない。敵は目に見えない力。敵にさせてしまう自分の内なる肉。私たちに罪を犯させるサタンの働きである、というわけです。 ですから私たちは人と争うことを止めなくてはいけない。子育てがうまくいかないというので、子どもを責めるのではなく、子どもを取り巻く世の力、子どもの内にある肉の力、子どもに罪を犯させるサタンの力というものに目を留めていく必要があるわけです。夫婦間の問題も会社の人間関係も同じです。この世、肉、サタンの働きと目に見えないものとの戦いというものを意識できるかということが大切です。
で、こういうものに対して、私たちはどう戦っていけるのか。エペソ人の手紙の中では、霊的な武装が必要である、ということが言われています。それは@真理の帯(何が間違っていて、何が正しいか、こういうことをわかっていないと戦えません。だからできるだけ聖書に親しむ時を作る。集まりあって学びあうということが大切なのです)A義のむねあて(お前も同じ穴の狢じゃないか、とサタンに痛い胸をつかれる、そんな時にはどうしたらよいか。自分は失敗している、弱さがある、じゃあもう正しいことは言えないのか。そうではない。キリストの義によって語るのです。キリストの義を示すのです)。B福音の備え(罪の赦しと十字架を語る者となるということ)C信仰の大盾(疑う心が出てきたら人間もうぐらぐらでしょ。神を信頼して戦うということは大切ですね。D救いのかぶと(救われていなくても神を呼び求めるということがあります。けれども、そんな自己流じゃなくて、神様と呼びながら自分が神様になっているのは駄目で、ちゃんと十字架によって神と和解して神に味方になってもらっていることは大切なのです)Eみことばの武器(人を変えるは人間の説得力ではありません。聖書のことばです。御言葉の力です) こうした様々な武装によって、目に見えない力と戦っていく。こう考えていくと、私たちにできる具体的な戦いうのは祈りなのだなあと思います。
実際ヘブルの著者は、祈ってくださいと読者に勧めています。これを繰り返していますね。祈りの力を信じるヘブルの著者。私たちの思いを超えた祈りの力を思うヘブルの著者。私たちもそうでありたい。そして互いに集まりあって祈るものでありたいものです。 事実本当に祈られる、ということは大切です。自分が成功したのは母の切なる祈りのおかげだ、ということを言うような牧師もいますけれども、だれでもそんなに祈りに恵まれているわけではない。それで、自分のために祈ってくれるのは教会の牧師だけというのもなんとも寂しい限りです。お互いに主にある兄弟姉妹として、神の家族としてお互いのために祈りあう。私のためにあの人もこの人も祈ってくれている、そんな祈りの雰囲気が教会の中で出来て欲しいものです。祈祷会が盛んになって欲しいものです。祈りましょう
2006年3月19日
「永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から導き出された平和の神が、イエス・キリストにより、御前でみこころにかなうことを私たちのうちに行ない、あなたがたがみこころを行なうことができるために、すべての良いことについて、あなたがたを完全な者としてくださいますように。どうか、キリストに栄光が世々限りなくありますように。アーメン。」(ヘブル13:20,21)
教会にはいくつか定められた儀式がありますが、それら一つ一つの意味をしっかり受け止めて臨むことが大切です。バプテスマは救いの確証、いつも言うことですが入学式、結婚式、卒業式という意味がありました。聖餐式は救いの確認です。で、礼拝にも流れがあってそれぞれの要素に意味がある。今日考えたいのは祝祷です。 祝祷はいくつかのパターンがあります。民数6:24-26Uコリント13:13、ユダ24-25、ヘブル13:20-21、少なくとも四つの種類がありますが、ヘブルの祝祷の意味を考えてみたい。
まず、祝祷が語られた背景について。ヘブル人の手紙の読者は当時、信仰のためにそしりと苦しみを受け、自分の財産を奪われても喜んで忍んだ(10:33-34)そんな状況の中におかれていたようです。そこである人たちは、教会に幻滅を感じたのか教会の集会から離れて別個のグループを形成する、また現在の信仰生活が沈滞し、無気力となり、逆戻りをするそんな事態に陥っていました。そんな人々に向かってヘブルの著者は祝祷を語る。 この祝祷を味わいながら信仰を奮い起こされます。まずは「平和の神」。「平和」というのは私たちの心がパニックに陥らず、私たちの心の中に穏やかさがあることです。あるいは神が支配しておられるという安心感と内なる確信があることです(詩篇46)。そういうことを望む神がおられる。そういう状況に導かれる神がいる。私たちは何かと窮状にあって、あれこれ動き回ってしまう。何とかしなくてはと動き回る。ああでもない、こうでもないと立ち回る。しかしどんどん状況は悪くなる。そこで神が語っておられることはもう何もするな、武器を捨てよ!です。私たちがいつまでも動きまわっていたら神様の働く余地はありません。
次に、イエスを死者の中から導き出された神、つまり復活せしめる力を持つ神の存在。平和のみならず力の神です。イエスを死人からよみがえらせた力を持つお方。いのちなきところに命あらしめるのは神です。力といえば、普通は軍事力、つまり破壊力をイメージするものですが、神の力は破壊力ではなく、敗れた者を息づかせる力。闇に輝く光の力。死に命をもたらす力です。
平和がどのようにして生まれるか考えてみればこの力のすばらしさがよくわかります。国際平和は調印や条約の力で訪れるものではありません。人間の心が変えられてこそ起こるものです。家庭の争い、夫婦間の争いを考えてもそれがよくわかります。調停で話し合いをすればするほどに、お互いに傷つけあっていくだけということがあります。取り決め事項を作成する間にぼろぼろになっていく。調停が終わるころには、完全に心が冷え切って、お互いに関係を持ちたくないという意味での平和が訪れることがあるでしょう。そういうのは平和ではありません。大切なのは人間の心が根本から変えられていくことで、それは神のみがなせる力です。イエスを死人からよみがえらせた力のみがなせることです。神は平和の神であり、力の神である。その神の祝福を受けていくのが祝祷です。 またこの祝祷において私たちが味わい知るのは羊飼いとしての神、私たちをケアーしてくださる神です。詩篇23篇を読んでみましょう。神がすべてを養ってくださるとあります(2-3)。神が私たちを守ってくださるとあります(5節)。
たとえば気になる人が陰でいろいろと動いていると人間というのは不安になるものです。自分が不利になるのではないか、足元をすくわれるのでは、そんなことを考えます。けれども聖書はなんと言っていますか?5節。神が守ってくださるというのです。人の悪巧みを打ち砕く神の元に憩いましょう。 また私たちは羊のように迷いやすい(イザヤ53:6)。自分の道を行きやすい。しかし幸いなことに羊飼いはそういう私たちの弱さを知って正しい方向に導いてくださいます(23:3)。
また私たちは羊のように無防備です。鋭い歯を持っているわけではない。俊敏な足も。とがった角も。戦いのすべをもたない者です。しかし、主は、「みこころにかなうことを私たちのうちに行う」ということで私たちを守ってくださる。すべて必要なものを備えてくださる、ということで守ってくださるのです。神が働いていてくださいます。この神様を喜んで生きていくということに徹したいものです。
2006年03月26日
「恵みが、あなたがたすべてとともにありますように。」(ヘブル13:25)
ヘブル書最終回です。ヘブルの著者が最後に私たちに勧めること、三つあります。第一にそれは神の勧めのことばを受け入れることです。受け入れるにはまず聞かねばなりません。ローマ書10:17にこうあります「信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストについてのみことばによる」多くの人は聞いているようで聞いていない。意外と人は自分の聞きたいことを選択的に聞いていて、相手が伝えたいことをしっかり聞いていないものです。そういうことを意識せずに何年も何十年も生活している。で、まずよく聞くことを大切にしたい。
聖書は聞き方に四つの態度がある、と語る。第一に道端に落ちた種のような聞き方。道端というのは通り道のことで、ある人の心はいつもそういう状態。激しい往来のように心があらゆる思想の通り道になって、決して一つの思想が根付くことがない(使徒17:20)。第二に、岩地に落ちた種のような聞き方。信仰の芽は出すけど、長続きできない。信仰が後回しになってしまうような聞き方。いつまでも信仰に入ることができない、信仰に入っても一向に成長しない聞き方です(使徒24:24,25)。第三に茨の中の種のような聞き方。根ははるけど実を結ぶ十分なスペースのない受け止め方。つまり、信仰的になりたい思いもあるけど、信仰以外の事柄でもっと心が一杯担っている人。そういう人も決して実を結びません(マルコ6:19,20)。第四に受け入れて、みことばに自分を従わせ、訓練し、耐えてよく実を結ぶ人です。(1テモテ4:14-1,1テサ2:13)。 ヘブルの著者は私たちが、イエスの種まきのたとえで言えば最後の聞き方をする、神のことばをよく受け入れるように勧めます。いくつか著者の強調点があります。第一、しっかり心に留めて押し流されないでいること(2:1-4)、第二、生ける神から離れないでいること(3:12-14)、第三、霊的な成長を目指しなさいということ(5:11-14)、第四、御子に留まりなさいということ。(10:26-31)、第五、神を拒まないようにということです(12:25-29)。
さて第二に、ヘブルの著者は、献身者への配慮を示すように語りかける。実際牧師、伝道師を支えるのはその教会の信徒さんだけです。神様は、牧師、伝道師を神様の御用のためにお用いになりますが、同時にそれらの働き人の牧会伝道に捧げられた生涯を支えるためにその教会の信徒さんを用いられるのです。牧師、伝道師が教会や教会以外の働きのために心を使うのみならず、みことばや祈りという本来の職務以外のことや自分の生活のことまで、様々に心を配らなければならないとしたらそれは大変なことでしょう。まずはよく祈り支えていただきたいものです。 最後に、ヘブルの著者は、読者が神の恵みにより頼むことを勧める。ヘブルの著者がこの書の中で明らかにしてきたことは、キリストの卓越性、そしてそのキリストを受け入れた実際的な信仰、信仰の霊的成熟です。これらはすべて神の恵みのもとでのみ完成されていくものです。神の恵みがあってこそ私たちの信仰生活の歩みがある。自分の力で信仰を建てあげるなんてことはまず出来ない相談です。しかしそこが意外とわかられているようでわかられていない。一生懸命努力して、背伸びして、いい子になって信仰生活を建て上げ、散々苦しい思いをして気づく人がいます。ルターがそうでした。神の恵みにより頼みましょう。神の恵みによって強くされ成長させられることとしましょう。
up
2006年04月
2006年04月2日
キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。
教会建設第二期一年目、目標は教会を建てあげるということです。第一期の目標は、「信仰」を建てあげることにありました。いわゆるイエスキリストの弟子となる人々によって集められた人たちの核を作ることが目的でした。福音を語り、福音に応答する人たちが集められていく。教会というのはどういう人が来てもよいところですが、そこでは福音が語られる。そして福音という価値にすりあった人が中核をなしていく、ということが大切なわけです。
第二期は「教会」を建てあげることが目標となる。すでに教会に集まった人を指して教会というのでは。けれども、集まっただけでは不十分です。問題はなぜ集められたかです。教会というのはギリシャ語でエクレシア。呼び出された者たちの集まりです。呼び出される以上には目的がある。皆が寄り集まって力を結集して何事かをなす、神のご計画に沿って生きていく、ということが大切にされるわけです。
で、その計画というのは、宣教である。「宣教」は第三期のテーマですが、第三期の事柄を可能にさせるために、より効果的になさせるために、第二期の「教会」形成がある。実際アンテオケの教会が世界宣教へと乗り出したのは、人が集まる程度の段階ではなく、教会と呼ばれうる組織体となってからです。確かにそれほどの力をつけずにして、私たちに何ができようか、ということがあります。使徒13章以降は、パウロの伝道旅行と言いますが、実際には、パウロを派遣したアンテオケ教会の物語です。同様に、私たちが果敢に神の宣教の業を推し進める働きに参画できるのは、ある程度私たちに力がないとだめである。
ではなぜそれほど宣教を最終目標として考えるかというと、それは意外と小さなしかし大切な動機付けの故です。皆さんがどのようにして救われたのかを考えてほしい。皆さんを受け入れる教会があった、その教会の交わりを通して救われた。同様に、救いを求めているもう一人の自分が、この地上にたくさんいることを忘れてはいけません。ですから、私たちはこの二子玉川のみにへばりついているわけには行かないのです。出て行って御国の福音を宣べ伝えるという気持ちにさせられる。
それで、宣教を生み出す教会形成をどのようにして進めていくか。第一に聖書を読むことです。聖書のことばが当たり前の感覚になるまでに私たちが読む。そして分かち合っていく。またみことばを心に蓄えていくことと霊的になることは同義です。霊性の深まりはみことばの生活化の深まりそのものです。その自然な雰囲気の中に人々が招かれると御ことばの奇跡が起こるのです。みことばに親しむそういう人が集まることで、教会らしさが出てくる。そして教会が教会として立てあがっていくのです。奉仕分担を決めて犠牲を払って頑張ることが教会を建てあげるわけではありません。
この新年度主のみことばに深く親しむことによって教会形成の歩みを導いていただくこととしましょう。
2006年04月09日
信仰の試練は、火を通して精錬されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。(Tペテロ1:7)」
今日からペテロの手紙に入ります。この手紙は、パレスチナ以外に住んでいるユダヤ人に書き送られたものです。おおよそAD63年ごろ。パウロの3回の伝道旅行が既に終わっていた後のこと、AD64年のローマ大火を引き金とするキリスト教徒の本格的な迫害が始まる前の時期のことです。
しかし当時のクリスチャンは、すでに様々な試練の中に置かれ(1:6)、中傷され(3:16)、火の試練に置かれようとしていました(4:12)。背景にはクリスチャンの苦難がありました。当時のクリスチャンが味わった苦難は、私たちが普段味わっているものとは性質が違うものでしょう。しかし、彼らがどのようにそうした苦難を乗り越えたか、それは、私たちへの霊的なメッセージにもなるわけです。
ペテロは5つの根拠を示しながら、私たちに苦難の中にありながら喜びを抱くようにと語ります。第一に、クリスチャンは、生ける望みを抱いている者です。クリスチャンというのは、神によって今までとは違う新しい人生に入れられている存在です。人間には自分を徹底的に否定するようなことがあるでしょう。そういう人間を救うのは神の力以外にはないものです。クリスチャンは無から有を生み出すイエスの復活の力への望みを抱いている。
第二に、クリスチャンは天に蓄えられた資産に生きている。朽ちることも、汚れることも、消えていくこともない資産。それは神ご自身という資産です(詩篇73:23-28)。それがそんなに素晴らしいものですか?と言うでしょうか。でも考えてみてください。私たちが信じる神は天地創造の神です。天地万物を創造し、所有し、支配しておられる、あなたのわけのわからない上司も、教師も支配しておられるお方です。第三に、ペテロは言います、その神に私たちは守られている。ギリシャ語はフルーレイン、軍事用語で、神が一日中歩哨として立って、私たちを守ってくださる、そんなイメージのあることばです。
第四に、試練によって信仰の成長がある。試練というのはありがたくないもの。喜べないものでしょう。試練がありながら喜べるなんて、そんなに簡単にいえるものじゃありません。自分が潰されると感じるような時に、喜びなんてまずありえないことです。喜べるようになるには、試練の終わりを予測し、意義を理解すればこそです。私たちは試練によって、もっと深い生き方をさせられる。人間として尊い生き方へと導かれる。神のご計画に基づく試練であると考えればこそ、悲しみにあって静かな平安を抱くことができるものです。
そして第五に、いまだ見ぬ救い主に対する望みを抱く。否、十字架のイエスを覚え、本来死ぬべきは私たちであった、と裂かれた肉、流された血、そのぼろぼろの苦痛を覚える時に、イエスの愛の深さと同時に、自分がどれほどの苦難に甘んじなくてはならないかを思わされるはずです。それこそパウロが述べたように、この苦しみなどたいしたこともない、私はもっと卑しめられよう、という声を発するに至るでしょう。
もし、皆さんの中で悲しい、苦しいと思うようなことに直面しているならば、私たちは聖書に向かわなくてはなりません。落ち着きを取り戻すため、ただ音楽を聴く、映画を見に行く、スポーツをするなど、気晴らしをしていてもだめです。あるいは、閉じこもって塞ぎ込み、逆に暴力的に鬱憤晴らししても、ますます自分を傷つけるだけでしょう。本当の解決は、まず神のよみがえりの力を思い起こすこと。第二にその神を所有していることを自覚すること。第三に神の守りの約束を覚えること。第四に試練そのものが神様のご計画の中で起こっており、イエスご自身の苦しみを思いつつ、私たちが苦しむべき分も苦しんでいないことを思うところにあるのです。 皆さん一人一人が、主の平安を得られるように祈りましょう。
2006年04月16日
あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現れのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい」(Tペテロ1:13)
「心を引き締め、身を慎み、恵みをひたすら待ち望みなさい」「心を引き締め」ということばには「考えをまとめる」「整えられた心を持つ」そんな意味があります。人間が誘惑に陥りやすいのは、思慮が足りない時でしょう。よく考えて、大切なことをちゃんとわきまえていく。そのことを軸に自分の生活を整えていくという作業がどこかで必要なのです。
そして恵みをひたすらに待ち望みなさい、とあります。クリスチャンにとって大切なのはこの価値です。神の恵みに基づいて生活をしていく。この世の祝福ではありません。こうしたことがはっきりわかる例がアブラハムとロトの例です。共同生活をし、住む場所が狭くなり、何かとぶつかり合うようになったアブラハムとロトは別れて住むようになる、そんなお話が創世記にあります。アブラハムはロトに好きな場所に引越しするよう勧めましたら、ロトはできるだけよい土地に住もうと物色し、ソドムの町を選んで住むようになります。一方アブラハムはこの世の富や繁栄など興味のなかった人です。神がともにいればそれでよしとする人。神の恵みをいつも仰いで、そこを一番大事にして生きている、そんな者でありたい。進学、就職、引越し、昇進、そういうところで、私たちが本当に何を大事にして生きているかというところが出てくるものでしょう。
次に「欲望に従わず」とあります。「聖なる」ということばの語源は「異なる」です。この人は違う、という生き方をしている。違いを意識し過ぎて変人になってはどうしようもない。けれども、世の中の人とは違いがある、そういう生き方はして欲しい。実際、子どもには親譲りの性質があるものでしょう。クリスチャンは神の子ですから神譲りの性格を持つ、違いがあって当然です。で、神の子としての違いは何かというと、神への従順さ、神のご計画を意識した生活設計、肉の欲するままではなく思慮深さを持った生き方です。こういう生き方へと神は召されている。ペテロも、マタイも、ザアカイも皆呼び出されました。そして応答して彼らの人生は変えられていったわけです。クリスチャンになるというのはいい子になることではありません。違いのある人生を生きないかという神の召しに応じて、その違いを生きていく人のことです。
最後に「畏れかしこんで過ごしなさい」とあります。神を畏れる生き方をする。やがて神の前に立つことを覚えれば当然です。
ペテロはこれらの勧めに、キリストの愛を思い起こさせる文章を続けます。なぜでしょうか。主が示すゴールに到達するには、恵みが必要だからです。私たちの救いのスタートは主の恵みを覚えるところから始まりました。信仰生活の歩みが継続していくのも同じです。私たちの人生が変えられていくとしたらそれは神の恵みです。最初から最後まで神の恵みが私たちを導くのです。そう考えるからこそ、クリスチャン生活というのは、やさしいくびきでもあり、楽しくもあるのではないでしょうか。
2006年04月23日
「あなたがたは、真理に従うことによって、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい」(Tペテロ1:22)
互いに愛し合うことが勧められています。しかし教会の現実というのは、複雑なものです。なかなか愛を実践するというのとは程遠い現実があったりする。それは、ペテロの時代も同じであり、今日も変わらないものです。
そこでペテロは、私たちが互いに愛し合うことを実現するために、いくつか大切な教えを述べていきます。
第一に、同じ父なる神の子となっていくこと。教会の集まりというのは、キリスト趣味者の集まりではないわけです。キリストにある新生者の集まりである。神の子が集まっている。古い自分に死んで、キリストにあって新しく生まれている、そういう人が集まっている、ということが第一前提なわけです。ですから互いに愛し合うといっても、キリストに与えられた愛で愛し合う、ということが大切で、キリストに与えられた愛という事実を持つことなくして、愛し合うということは、ペテロの意図とはまったく違うことをしているのだ、という認識が必要です。
第二に、同じ聖書から学んでいくこと。なぜなら聖書には、私たちの魂をきよめ変えていく力があるでしょう。新生の経験をしていない人は、聖書から新生の経験を受けていくことになる。キリストに新しい愛を与えていただくことも、聖書に触れる中で起こってくることである。聖書に根ざしている、ということは、互いに愛し合う源でもあるわけです。
第三に同じ罪を脱ぎ捨てていく。人間は聖書を読むときに、何が神に喜ばれないことか、何が神に喜ばれることなのかを知っていく。だから魂がきよめかえられていくということが起こっていく。で、神に喜ばれないことは捨て去っていくことが大切です。ことに私たちが互いに愛し合うことにおいて大きな障害となるのは、次の五つのこと、悪、ごまかし、偽善、ねたみ、悪口です。こういうものを脱ぎ捨てていく。ぬくぬく古いシャツにくるまっていないで、脱ぎ捨てていく、そして新しいキリストの衣を着ていく、ということが大切であるわけです。
第四に同じ目標をめざしていく。本当に愛し合うために必要なのは、同じ目標を見つめてそこに向かっていくこと。目標はキリストの似姿にあります。
で、皆さんに勧めたいことは、まず聖書を熱心に読もうということです。ペテロも純粋なみことばの乳を慕い求めなさい、と言う。聖書に私たちの魂を救う力がある。聖書に私達のうちに偽りのない愛を実現する力がある。今週も聖書に向かい、聖書から教えられてまいりましょう。
up
2006年05月
2006年5月21日
同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。」(Tペテロ3:1)
妻と夫に対する教えが語られています。当時の背景を少し押さえておきましょう。当時キリスト教が不可避的に生み出した問題がありました。当時のユダヤ人社会では女性は物と同様に扱われていたところがありました。妻は夫の所有物であって、殆ど気まぐれに離婚できるものだったわけです。そういう女性が夫の理解もなしにクリスチャンになったとしたらどうなるか。こうしてキリスト教会は大量のやもめを抱えたとすら言われます。
もし夫がクリスチャンでないならば妻はどうあるべきか、逆に妻がクリスチャンでないならば夫はどうあるべきか。ペテロが勧めていることは、夫のもとを去るということではありません。あるいは、夫に説教をし、説得してキリスト教徒にしなさい、というのでもありません。むしろ単純なことを言っている。よい妻であること、よい夫であることを勧めています。
まず第一によい妻の特徴は従順であること。神の目にかなわぬ夫に対して、妻はしばしば口やかましくなるものでしょう。しかし口やかましくなるというのは、子育ても同じことですが、自分で何とかしようというそういう気持ちが働いている時です。これはもうどうにもならないと思ったらまず口を閉ざしてしまうものです。けれどもクリスチャンは、もっと積極的な意味で口を閉ざす。神が働く機会とするために。実際人の心を変えるのは神であるとしたら、私たちはもっと神に委ねる必要があることでしょう。第二の特徴は、外面的な飾りではなく、内面的な飾りを大事にすることです。体は私たちの入れ物のようなものです。入れ物を奇麗にするならば、その中身もふさわしく整えることが大切です。そして第三に、夫を主と呼んで従う。これは、色々な人間関係の中で夫を第一としていく、ということです。夫は妻の同居人ではありません、夫の支え手なのです。ならばまず夫を第一として祈り支えていくことは妻として大切なつとめと言えるでしょう。
次に夫について。第一に妻とともに生活することが勧められています。現代の若い夫は仕事で忙しくなり妻とすれ違うことが多くなります。しかしそこであえて共に過ごす時間を持つ。共にあることで見えてくることがある。夫の重要な役割は、妻の心の隅々まで知るように努め、妻のよい支え手となることです。そして妻が弱い器であることを覚えて、理解と思いやりを示すことです。そして最後に尊敬していく。それはあらゆる優先順位の中で第一としていくことでもあります。私たちが自分が大事にされていない、と感じる時というのは、後回しにされる時、二の次にされる時ではないでしょうか。
こうして夫が、妻がそれぞれに神のみことばに忠実である時に、彼らの祈りは妨げられないと聖書は約束しています。もし、未信者の夫、または妻を主のもとに導きたいというのであれば、まずこのような御言葉が勧めることに心を砕いて参りたいものです
2006年05月30日
最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く謙遜でありなさい」(Tペテロ3:8)
本日は、大阪の枚方教会とのインターネット合同礼拝です。インターネットというつながりではありますが、お互いの教会に対する祈りを深めるためにも、このような時を今後、いくつか設けていきたいところです。
さて、今回の説教のテーマは「愛」です。ペテロは人に対する愛、敵に対する愛、いのちに対する愛という三つのことを語る。
まず第一に人に対する愛というのは、「心の一致」ということで表されていく。一致というのはどれもこれも同じになるということではなくて、違いがありながらも、一つの目的のためにお互いの協力しあうということが大切なわけです。で、教会の目的と言うのは何か、それはまず十字架にある救い、癒しを実現させるということでしょう。そして一人一人の魂の中に救いが実現し、癒しが起こるとそれは外に向かって伝播していくものです。それが伝道です。
また人に対する愛というのは、「同情」と言うことで表される。他の人々の必要を深く感じ取る力です。私たちは意外と自分はそんなに鈍感ではないと思っているものですが、人の必要を深く感じ取る力に乏しい。第三に「兄弟愛」夫婦愛とは別の家族としての愛です。身内の愛で愛し合うという気持ち。教会は家族になっていくというところをどこかで達成していく必要があるわけです。また第四に「哀れみ深さ」それは他人に対する優しさや思いやりのことです。そういう意味では私たちは聖書の中からもっと神の思いやりの深さというものを知る必要がある。また最期に「謙虚」ということが大切になる。人を見比べての謙虚さではなくて、神の前に謙る心の態度です。そういう態度がないと、本当に人の心を深く理解し包み込むような発想は出てこないものなのです。
で、次にペテロは敵に対する愛ということを語る。本当に深い愛は、ギブアンドテイクのレベルで終わるわけではありません。与え尽くすという部分がある。自分に歯向かう敵すらをも包含してしまうほどの深さがある。
そして最後にペテロは命を愛するということを語る。命と言うのは何か、永遠の命、現在のいのち、色々な解釈がある。大切なのは神様の賜物としての命を愛すること。神様に与えられたものを愛するということです。しかし人間にはそういうことができないことがある。ヨブがそうでしょう。ヨブは不幸の中にあって自分の命を呪うわけです。ペテロが引用したのは詩篇34:12-15。ダビデがサウルに命を狙われ追跡され、敵の王のもとに逃げ込む。ところがそこでも忠誠を疑われ、自らキチガイを装って敵陣を脱出した惨めさのどん底にいた時に歌った歌です。不幸の故に、自分の命を粗末にするばかりか、自分の生き方を台無しにしていく、ということが人間にはあるわけです。自分をますます惨めにしてしまう。自分を大事に出来ないということがあるわけです。そういう一人一人に命を愛せよとペテロは語る。そして命を愛する三つのことを語る。第一に舌を押さえること、第二に悪から遠ざかって善を行う、そして平和を追い求める。
私たちがペテロの勧めるこの三つの愛、人に対する愛、敵に対する愛、命に対する愛というものを大切にし、教会にその愛が満ち溢れるようにしてまいりたいものです。
up
2006年06月
2006年06月04日
「たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです」(Tペテロ3:14)
昔話には、善玉と悪玉がいて、最後には善玉が勝利する、めでたしめでたし、というストーリーがよくあるものです。ところが、現実はそんなに簡単なものではない。何ともやるせない結末、貧乏くじを引いて、泣き寝入りするような結末があるものです。
私たちはそれをどのように考えたらよいのか。まず二つの視点があることに注意したい。人間的な視点と神的な視点。人間的な視点というのは、世の中はそもそも不公平なもの、食うか食われるかの世界。自ら救う以外に自らが生き延びる道はない。やられたらやり返せという物の見方です。一方神的なものの見方というのは、3章12節にあるように、神様がすべて最善の計画を用意しておられる、私たちの間で起こっている悪について神がこれを見過ごしにされることはない。必ずきっちり清算してくださる。神の時を待とうというものです。
こで私たちが覚えておくべき大切なことは、ちょうど昔月給制がいいか年俸制がいいか、そんな議論がありました。皆さんは月ごとに給与が支払われる方がよいか、年ごとがよいか、考え方は色々とあるでしょうが、私たちの人生における不正に対しても、神様が20日締めできっちり清算してくれると随分助かるのだが、と思う人は多いでしょう。ところが年俸制ということがある。しかも、肝心なことは、終末給制というものもあるわけです。ここを私たちは忘れやすい。終末時にすべてを清算されるということをなさることがある。月給制か、年俸制か終末給制か、神様はいずれを取られるかわからないのですが、神様が清算なさることは確かなのです。しかし終末給制を受け入れる心が欲しいものですね。
さて、ペテロはここでイザヤ8:13-14を引用している。それはアハズ王が緊急事態において、イザヤの勧めに従わず、短絡的に敵のアッシリヤの王に援助を求めた話です。結果的にアハズは、一時の難は逃れるものの、後々大変な損失を追っていくことになる。実はペテロもそういうことを経験しているわけです。ペテロは、人前でこんな説教を語るには相応しくない大失態をしでかしている。けれども説教を語るという立場に立たせられる。ペテロはそういう大きな損失を考慮させながら、苦難の時にあっても、神の時をひたすら待ち望み、神の救いに信頼するように語るわけです。
で、私たちは、神の報いは終末給制という気の長いことがあると思っても、また神の報いに信頼しない損失の大きさを思っても、信頼出来ないでペテロのように失敗してしまうものですね。でも、そういう中で、あえて信頼する決断をしていく。できないではなく決断することが大切。そして決断すると同時に、苦難の中を乗り越えるすべを身につけることも大切なわけです。
第一に弁明する容易をしていく。危機に取りうる行動を予測して、自分のよりよい行動をシミュレーションしていく。苦難にあって根をあげてしまうのではなく、むしろ希望を持ち、その希望ある姿の秘訣を聞かれたら答えられる用意をしていく。用意があるのとないのとでは大きな違いでしょう。
またよい良心を持つようにしていく。良心は神の心理の光を通らせる窓ガラスのようなものです。良心の窓が暗くなれば神の真理の光は閉ざされ、ますます混迷に落ちていく。しかし良心の窓が明るければ、神の真理の光は心の隅々まで照らし、私たちは勇気を持って固く立つことができますし、平安を持ち、恐れを締め出すことができます。よい良心を持つにはどうしたらよいのか。いつも言うことですが、聖書をよく読むことです。自分で聖書を読む力のない人は、教会が提供するあらゆる機会を活用しなさい。互いに聖書を読み、互いに励まし勧め合い、苦難においても動じることなく固く立ちうる歩みをしたいものです。
HOME
HOMEのトップ
牧師と話す
牧師の紹介
人間関係を語る
人生を語る
牧師室の窓
教会を見る
信仰告白
教会の特徴
教会Q&A
リンク集
聖書を読む
元気の出る言葉集
ショートメッセージ
礼拝説教要約集
参考図書
活動を知る
一般の活動
国際NGO活動
心の相談室
カルチャークラス