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これまでの礼拝説教要約(2005度)


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    2005年01月02日

    「 行って、ヒゼキヤに告げよ。あなたの父ダビデの神、主は、こう仰せられます。『わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたの寿命にもう十五年を加えよう(イザヤ38:1-20)」



    ヒゼキヤは、BC700年頃の南ユダ王国の王様です。彼の時代に北イスラエル王国が滅亡しています。北のアッシリヤと南のエジプトの二大勢力の圧力を受けながら、弱小国である南ユダ王国は、生き延びていくのですが、ヒゼキヤの父アハズは、彼らの異教的習慣、偶像を取り入れるという形で、妥協の道を歩みます。ところが25歳で即位したヒゼキヤは、そのような父のあり方と一線を画し、徹底的な宗教改革を行うのです。聖書はヒゼキヤが「主の目の前に、良いこと、正しいこと、誠実なことを行った」と証言します。目に見える現実の脅かしの中で、

    ヒゼキヤはあくまでも目に見えない神を頼んでいく、彼の正しさは、「主に堅くすがって離れることなく、主がモーセに命じられた命令を守った」と証言されるとおり、神のみことばへの従順にありました。こうしてヒゼキヤは、イスラエルの王の中で、誰よりも際立って敬虔な王であった、とすら言われるわけです。

     ところが、それほど神に熱心に従い、また神の祝福をも受けていたヒゼキヤは、ある日病に罹り、死を宣告されるのです。何でこうした不幸が、と彼も思いました。しかし、いかに卓越した敬虔な人であれ、信仰の人であれ、災いを免れ得ない、というのが現実ではないでしょうか。信仰者は、幸せづくめ、成功づくめ、祝福尽くめ、ということはありえないのです。確かに神のしもべヨブも「私たちは神から祝福を受けるのだから、災いをも受けなければならない」と語ったではありませんか。しかし、神は、そのように不幸の中にある私たちを見過ごされて

    いるわけではありません。神はヒゼキヤの「祈りを聴いた、涙を見た」と語っているように。私たちは不幸と思える中にあっても、そこに神の深いご計画と導きがあることを覚えなくてはなりません。

    そこで、私たちはこの新しい年、ヒゼキヤのように一層主を愛し、主とともに歩む決意を新たにしてまいりたいと思います。ヒゼキヤが徹底して神のみことばを学び、みことばに従うことに心を砕いたように、一切の自己流のあり方から脱皮していきたいのです。対人関係にしろ、教会生活にしろ、聖書に従って人生を刷新してまいりましょう。そしてヒゼキヤに学ぶように、何でも神に信頼し打ち明けることにしましょう。病気や失敗、また恥と思われるようなことも何でも。神は私たちの祈りを聴き、涙を見てくださっているのですから。そして神は救ってくださる方なのですから。ヒゼキヤは告白しました。「私たちの生きている日々の間、主の宮で琴をかなでよう」主のみことばに従う喜びを味合う一年といたしましょう。



    2005年01月09日

    「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。(出エジプト19:8)」



     安息日について聖書は、いくつかの要点を示しています。第一にそれは神が人間に与えられた特別な日です。人間が休息を取り、新しい一週へと整えられる、大切な時です。また、人道的な意味を持った時でもある。部下を休ませるために率先して上司が休みを取る。配慮と心遣いを持つ日です。そして最後に、主のために聖別された日、天地万物を創造し、私たちを祝福して存在させてくださった、主ご自身を覚え、主に礼拝をささげるために聖別された日です。旧約時代においては、安息日は、週の最後の日、それは創造の記念としてもたれたものです。

     一方、新約の時代になると、クリスチャンはそれを主の日、いわば週の初めに、復活のキリストを覚える大切な日として、代えて守っていくことになるのです。そこで、新約においては、主の日を以下に守るかではなく、いかに過ごすかが問題になってまいります。

     第一に、私たちは旧約時代同様、休息のためにその日を過ごしていくことが大切です。それはじっとして何もしない、ということではありません。肉体労働が主であった旧約時代はそうでしょうが、ディスクワークが中心の現代においては、スポーツやハイキングなどもそれに値することでしょう。つまり新しい一週に向けて回復の時を持つことが大切なのです。そういう意味では第二に家族の時をもつ。豊かな絆を育む時を持つ、ということも大切です。そして初代のクリスチャンたちは、やはりキリストの恵を覚える日としてみことばを聴きに集まりましたし、キリストの恵を実践する、祈り、交わり、奉仕、礼拝をする日として集まりあったことも忘れてはなりません。教会の祝福の日、教会で恵まれる日、ということです。

     日本の歴史を振り返ると、日本はなかなかこの週の初めの日をお休みとすることができないでおりました。しかし今日、日本は週休二日制を導入、私たちは以前にもまして、教会に集うことが容易になっています。このように、私たちが教会を愛し、教会で恵まれることを可能にしてくださった神様のみ業を覚えながら、感謝して、互いに集まりあい、復活のキリストを覚え、主にある喜びを奉仕の形であらわしていくことも大切なのではないでしょうか。



    2005年01月16日

    「あなたの父と母を敬え。(出エジプト20:14)」



    親を敬う、と言うことの中には、感謝、従順、援助という三つの要素があります。私たちが色々と面倒をみてもらったことへの感謝。人生経験から与えられる指導への従順、年をとって弱ってくることについて、生活に困らないようにしていく、さみしい思いをしないように配慮していくという援助、こういうことが親を敬う、ということになるわけです。

     ところが現実的には、感謝できないことがあります。色々とあれこれしてきたことを恩言せがましく言われてしまう、あるいは協力的に指導するのではなく、独裁者的に、まるで自分の道具であるかのように支配するということがあります。さらに親は年老いることで難しい問題を抱えます。子供の心が冷たい、というわけではなく、やはり老いは耐え難い問題を引き起こし、援助を難しくさせることもあるわけです。

     しかしそれでも親を敬っていく、つまり感謝、従順、援助をしていくことが大切。もし問題があれば、主の聖霊の働き信頼しながら、時間をかけて取り組むことです。色々と困難で苦しいことの中に、私たちは人間として価値ある生き方をした、と後で振り返ることもあるはずです。また神様が助けを与えてもくださることでしょう。

    ところで親についての教えに、旧約と新約では少し視点がちがいます。旧約は一方的な戒めとして教えられる。新約では、コロサイ3:20,21に見られるように、相互義務として語られるのです。そこで親を敬うと同時に親の責任を最後にまとめましょう。第一に親は養育、世話の責任があります。第二に規律、訓練を与える責任。責任ある市民にし、社会性を身につけさせるのは親の責任です。第三に励ましを与える、そして最後に何よりも理解し共感し、愛する ということが大切です。愛情をもって育てていく。ことに大きくなればなるほど理解しようと寄り添っていく、それが子供たちの生きる力にもなります。そのように、子供は感謝、従順、援助をlUがける。親は、養育、規律、愛'情をIいが|プていく。それによって互いに|言仰において高められる家族になっていくことが大切なのです。主の助けを祈り、祝された家族を作る決意をいたしましょう。



    2005年01月23日

    「殺してはならない(出エジプト20:13)」



     人間のいのちをどのように考えるか、世の中には様々な考えがあるでしょうが、聖書は、いのちは神聖なものである、尊いものである、ということを語る。それは殺人者のいのちも尊ばれるというカインの例からもわかるように、大変尊いものです。その理由は、人間は神の形に造られている。神の聖、愛、義に似せて造られているがゆえである、という。つまり、人間のいのちへの暴行は神のいのちへの暴行だという論理から、「殺してはならない」とされるわけです。

     この第5戒を巡っては、いくつかの神学的な論点があります。第5戒が実際に禁じていることは何か。少しキリスト教会内の議論をまとめると、それは死刑や戦争の禁止についての根拠となるものではない、ということです。死刑反対、戦争反対は、キリスト教会内でも一つの立場としてありますが、聖書を読むと、罰のみならず良心のためにも受け入れるべき死刑があり、戦争があるようにも思われます。ともあれ、この箇所を根拠に論じることではない。しかし、自殺、安楽死、中絶に関してはこの箇所から聖書が禁じていること、と通常は論じられているように思います。

     さて、新約聖書の視点からこの第五戒を見直してみましょう。イエスは、この第五戒を取り上げ、これは、肉体的な攻撃のみならず、人の評判を落とすことやよくない手本を示すこと、迷いの道へ誘いこむこと、さらには攻撃的な心そのもの、つまり殺意、憎しみ、悪意もまた第五戒を破ることになると語っています。そういう意味では、私たちは、自分の心の罪の深さというものに敏感でありたい。殺してはならない、という戒めによって、私たち自身を深く変えていきたいものです。実際自分がどんなに悪い人間か、あるいは悪くなる可能性があるものかが分かるまでは、本当によい人間にはなれない、ものでしょう。私たちが人を殺さずとも、絶えずこの第五戒を破っている現実に気づき、真に心の底から変えられた人生を生きていくためにこの第五戒はあるのでしょう。

     最後にこの第五戒をもっと前向きに理解していくこととしましょう。私たちは人を殺さない、人に悪意や憎しみ、殺意をいだかない、というだけではなく、人を赦す、ということをしていくのです。事実憎しみを抱えながらの礼拝を神様はお喜びにならないでしょう。また人を愛していく、古い自分に死んで、愛する人になっていく。そして最後に、人に死をもたらすのではなく、いのちをもたらす、いのちのことばを知っている者としていのちのことばを積極的に語らせていただきたいものです。主のしもべとして。



    2005年01月30日

    「姦淫してはならない。(出エジプト20:14)」



     旧約聖書が語る「姦淫」は、神の定められた結婚関係以外での性的行為を指しています。しかしイエスは、この戒めの適用を単なる行為から心の意志レベルの問題へと深めたのです。実際、姦淫というのは、神の御前における結婚の誓いを破ることです。結婚の誓いは目に見えぬ神の前に互いの心に偽らざる誓いとしてなされたものです。その誓いを破ってしまう、それが姦淫です。

     ところで、多くの人たちは、キリスト教が性を抑圧的に考えていると思っていることでしょう。しかし、キリスト教は性を、神が人間の「産み」と「喜び」のために、賜物として与えられた善いものであることを語っているのです。ただそれを男女の結婚のために与えられた。生涯に渡る貞節の関係に限定して与えられている、とする。ですから、婚外交渉、婚前交渉、近親姦、同性愛は、神の御旨にはそぐわないもの、とも言えるのです。結婚は、当事者がその両親から精神的、経済的、社会的に自立し、またお互いに責任をもつ献身を決意するところに成立すべきものであり、その成立の成果として性的関係もある、これが聖書の考え方です。

     このような考え方の基に、クリスチャンホームを建設していく。クリスチャンホームの特徴は、第一にキリスト中心、第二にみことばと祈りをもって家庭礼拝を守る、第三に、両親と子どもがお互いに愛し合い、尊敬し合う、最後にそのようなライフスタイルの中で、喜びと幸福に満ちる中、社会に向かって力強くイエスを証ししていく力を持つものです。

     私たちはこうして考えますと、聖書から色々と教えていただかなくてはいけないことばかりです。自分の思想的背景を振り返ると、聖書の考え方にそぐわないものばかり。それは聖書が間違っている、というよりは、私たち自身の間違いなのかもしれません。世の中であたり前だとすることに、何の疑問も抱かない、そういう自分が間違っている。考えてみたいところではないでしょうか。自分は、何に基づいて人生を築いているのか、聖書は何を教えているのか、と。

     姦淫してはならない、ということは、積極的に言えば、夫と妻が互いに一層深く愛し合い、尊敬し合いなさい、ということです。また、他人に対して穢れた情欲を抱くのではなく、きよい思いを持ち、きよい行いを実践しなさい、ということです。言葉と行いにおいてきよく生きることを心がけてまいりたいものです。今週も主のきよさを求めて、生きることとしましょう。



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    2005年02月


    2005年02月06日

    「盗んではならない(出エジプト20:15)」

    「盗むな」といった場合、それは直接的で暴力的な「強盗」から、一件わかりにくい「小さな不正直」まで色々と幅は広く、実際には、私たちに非常に身近な戒めです。たとえば、「月給泥棒」ということばもあるように、不正な残業手当、公私混同、会社の財産の私物化は、立派な盗みになります。さらに、純粋無垢な人間の人生を支配することも盗みにほかなりません。カルトにはまった青年が、我に返って私の人生を返せ、などとやっていることがあるようにです。おおよそ人の人生に関わる仕事をしている人は、こういうことに気をつけなくてはならないのです。また悪意のある噂話を撒き散らして、人の評判を傷つけることも、盗んでいることに他なりません。さらに利己的な財産の使用。イエスの前から立ち去った金持ちの青年が気づかねばならなかったことは、多くの財産をあきらめることではなくて、神に与えられたものをいかに神と人のために用いるか、ということでした。そういう意味では献金についても、同様のことが言えるのです。一切は神のもの、与えられている中でどの程度を自分のものとして使っていくか、という発想も大事でしょう。ともあれ、こうした盗みの結果は、神の国に入ることができない(Tコリント6:10)という裁きをもたらすのです。

     しかし、クリスチャンですら、こういう盗みをしてしまうことがあるのではないでしょうか。そういう弱さをもった私たちのために、実は、ザアカイの物語がある。罪人を見捨てられずその友となるイエスの物語です。イエスは、私たちに絶えず声をかけてくださっており、私達が食い改めの人生を送るように期待してくださいます。悔い改め、正しいことを行っていく、ということです。

     事実、十字架を転機として私たちの生き方は全く異なったのです。いつも十字架を軸として積極的に私たちの生き方を変えていく必要があります。盗みを脱ぎ捨てていく。そしてあらゆることについて正直である。馬鹿正直というのではなく、正直さを持つ。そして盗むなということは、積極的な言い方をすれば、進んで隣人の利益を守ってやる、ということです。そうやって進んで与え、今週も神と人への愛をあらわしていくこととしましょう。



    2005年02月13日

    「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。」(出エジプト20:16)

    「偽証してはならない」この戒めは、「法廷で、不真実を述べない」、ということと、「日常生活の中で、隣人についての不真実を述べない」ということの二つを意図しているものです。

     隣人についてどのような不真実があるのか。まず積極的な不真実、このほうが私達は思い浮かべやすいのですが、隣人について、あるいは隣人に向かって嘘を語る、というものがあります。また隣人の秘密を暴いたり、アブシャロムの例に見るよう(2サムエル15:1-6)隣人を落とし入れるように、虚言を働いたりする、ということもあります。一方消極的には、隣人を傷つけるために、真実を言うことを控える、という不真実があります。ナボテの裁判のように(1列王21:8-13)、長老たちは、正しい事柄を知っていながら王の圧力を恐れ、偽りの証人が語ることをそのまま受け入れてしまうのです。また不真実は隣人に向かって悪い考えを持つ、という心の中の問題としても起こりえるものです。

    ともあれ、こうした不真実は、どのような根から出てくるのか。第一に隣人に悪意を抱いている、怒りがあったり、嫉妬やねたみがあったりするところから出てくるものでしょう。また自己保身、追い詰められた状況で自分を守ろうとする。あるいはもっと強欲に自己利益を追求するために、ということもあります。Tテモテ5:13にあるよう、思慮のなさの故である、ということもありますし、単に不注意である、ということもあります。

    こうしてみていくと、「偽証してはならない」というのは本当に私たちの身近な問題であって、私たちの心の奥深い問題でもあるのです。そういう現実を認めてこそ偽りから解放された人生を生きることもできるのです。実際、私たちは十字架を転機として、悔い改めの、新しい人生に生きるように召されていますし、キリストは、そのような人生に生きるように必要な力と助けを与えることを約束しています。 ですから、キリストにあって変えられた自分を意識し、キリストにより頼んで、積極的に証しない者として生きていくことにしましょう。言い方を変えれば、裁かずに理解し、赦しの愛に生きるように務めましょう。人の言葉や行為をできるだけよく受け止めてあげましょう。さらに人についてよいことを話すようにしていきましょう。こうして日々よい行いを神にささげてゆくと同時に、そのような行いを導いてくださるのも、神さまであることを覚えて歩ませていただきたいものです。

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    2005年03月


    2005年03月13日

    「まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。」(アモス3:7)

     救いに入れられる、ということは、神との新しい関係に入る、つまり神を主とし、私たちがその僕となる関係に入ることです。  大事な点は、今あるがままに仕えていく、というわけではないことです。私たちは陶器師の手にある粘土のイメージのように(エレミヤ18:1-6)、神の手によって造り替えられることで、よりよく仕えることができるのです。神の僕として用いられていくためには、それにふさわしく整えられなくてはなりません。  聖書が語る僕のイメージは、この世のイメージとは随分異なるものです。この世では、僕というのは上司のために自分の力を用いて働いていくものです。ですから上司から見て使えない僕は、切り捨てられてしまう運命にあります。しかし、聖書が語る僕は、神の栄光の目的のために働くとしても、自分の力ではなく、神と共にあり神の力で働く僕である。つまり極端なことを言えば僕の能力や才能など、教会の働きにおいてはあまり重要ではないのです。教会においては、神の力の器となりうるかどうか、そういう心のある人であるかどうか、が問題です。 実際教会に必要とされる人は、能力のある人、財力のある人なんかではありません。そうではなく、仕える人です。ペテロやヨハネのように無学な普通の人、神に従おうとする人です。聖書はエリヤについても次のように証言しています。「エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした(ヤコブ5:17)」  となれば、私たちの教会活動についての発想も変わってくることでしょう。たとえば、教会の予算や教会の活動計画をどのように考えるか。教会の働きというのは、神の業があらわされる働きなのに、私たちはまず自分たちにできることを考えてしまうのではないでしょうか。自分たちの能力の範囲で物事を考え、そこに少し神の力があるやもしれない、という期待を抱いたりすることがあるかもしれません。しかし、それでは考え方が足りないといわなくてはなりません。「神から大きなことを期待せよ。神のために大きな事業を企てよ」です。なぜなら神のなさろうとすることは、私たちの思いを超えことであるからです。能力によらず、全き従順の内に従おうとする心のあるところに神の御業も起こるのです。

    2005年03月20日

    「イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」(ヨハネ5:17,19-20)

     神様というのは、天上のどこかにどっかりと腰をおろして、地上の活動をご覧になっているような方ではありません。むしろ、私たちの歴史と生活のすべてに積極的にかかわってくださるお方です。そのかかわりは、私たちをとおしてご自身の救いのみ業を広めるためのもので、私たちの要求のあれやこれやを満たすため、というわけではないことも大切な点です。私たちは自分たちにとって便利な神様を求めるものですが、神様ご自身には、神様のおこころがあり、そのおこころはすべての人が救いにあずかる、この曲がった時代から救われ、罪の深みの中から救い出される、というところにあるのです。

     そして神様は、ひとりひとりをそのご自身の働きに召してくださっています。モーセやパウロと同様に、私たちをもです。そんなに私は大きな器ではない、と思っている方もおられることでしょう。しかし、神様は、私たちを召しておられる。そして心配したり、しりごんだりする必要もありません。というのも、神様がはじめられた業は神様ご自身が完成させてくださるからです。そして私たちがその働きを推し進めるに必要な力は神様が備えてくださるからです。

     私たちは神様のため、と言いながら自分の夢を追求する愚かさを持っています。神様に心の中では仕えたいと思いながらも、自分のやりたい計画を優先させてしまう、愚かさがあったりします。神様を中心にして、神様が望んでおられることに自分をあわせていくことが大切なのですが、そうできないでいることがあります。そういったところから解放され、真にイエスの模範にならい、神様の御心を行う、救いの業に参加していくものとならせていただきましょう。

    2005年03月27日

    「そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」(ルカ24:32)

    イエスの復活は、弟子たちのメッセージの中核をなすものでした。彼らはメッセージのたびに、「私たちは復活の証人である」と繰り返したのです。実に、この復活の事実にキリスト教信仰は成り立っています。使徒たちは、復活がなければ、私たちの宣教は実質のないものとなる、と語っているようにです。イエスの復活が事実でないとしたら、私たちの信仰ははったりもいいところである、というわけです。

     イエスの復活はいくつかの特徴があります。それは神の力を示すものであり、永遠のよみがえりです。聖書の人物はよみがえってもいずれ死にました。しかしイエスは永遠に生きておられる、という。そしてさらに、その復活はイエス個人の復活にとどまらず、私たちに命を与える復活なのです。

     そのように、イエスの復活には、私たちの希望が置かれているのです。その希望は、今のいのちが変えられるという希望、私たちの人生そのものが変えられる、という希望、そして後の世での新しい命に与るという希望でもあります。ところがこの教えに多くのものはつまずいてしいます。科学的な発想をもってなかなか受け入れることができないでいる。しかし、復活は信仰を持って受け止めるべきものなのです。理屈を並べてかくかくしかじかでわかったから受け入れる、というものではありません。あるいは、感情的な何らかの体験があったから、もう絶 対本当だと受け入れる、というものでもありません。ただ聖書が語ることを純粋な信仰を持って受け止めていく、というものです。

     キリストは、私たちを十字架によって愛してくださいました。私たちは、自分の罪深さがわからないわけではありません。ことに物事がうまくいかない時などは、自分の罪深さばかりか自分が神ののろいに置かれている、というようなことを感じるところがあるでしょう。この神ののろいをなんとか払拭できないか、と。そして色々な占いの館なり、お払いなりを巡り歩くということがあるかもしれません。しかし聖書は、イエスが十字架であなたの上に置かれたその一切ののろいを受けてくださった、というのです。もはやあなたの人生を邪魔する者はいません。あなたの歩みを妨げようと足を引っ張る「モノ」はないのです。家の方角も、姓名も、運・不運もありません。あなたの人生には新しい前途が開けている。しかし、ただ単にあなたはその前途に一人で踏み出すわけではありません。復活のキリストがあなたの一歩前を歩もうとされているからです。復活のキリストが、あなたのまったく新しい人生を導かれる。私たちがその復活のキリストを信仰をもって受け止め歩みならば、どんなにか、大胆な歩みがなせるでありましょうか。どんなにか私たちの思いを超えた歩みへと導かれることでしょうか。復活の主を信じ、今週もともに前進させてまいりましょう。

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    2005年04月


    2005年04月03日

    「あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。」(コロサイ2:6,7)

    新年度、新しい目標方針聖句が出されました。今回は、コロサイ2:6です。少し内容について説明します。

     玉川の教会の一つのビジョンとして、地域に根ざした働きをしていく、というものがあります。それは地域を福音化するのみならず、地域そのものを形成することに関わっていこう、というものです。今日、地域のニーズは、複雑・多様化し、福音化や福音を通して地域を変えていくという試みは、その複雑なニーズの中でなされなくてはなりません。

     となれば、地域に根ざしてた教会形成というのは、もはや牧師個人の働きではないわけです。教会員全員の総合力を必要とする働きです。そのようにして、私は、町医者型、専門病院型、総合病院型と色々なタイプのある中で、総合病院型としての教会形成を考えています。

     ともあれ教会の働きというのは、教会員の総合力、教会員が主体となって実施していくものです。で、教会員をそのために整えていくが牧師の働きであるとエペソ4:11-13には教えられています。では整えていく、というのはどういうことか。一つには教会員を福音的信仰に一致させていく、ということです。教会が福音の群れである、というカラーをはっきり出させていく、教会というのは、単なる仲良し同好会ではありません。また聖書的考え方と実践に成熟させていく、ということが大切です。皆よりあつまってめいめい自分の考え方を出し合い始めたら、教会というのは混乱してしまいます。聖書信仰という考え方や実践にそれぞれの考え方や実践がすりあわされていく、そして教会の活動を考え推し進めていく、ということが大切になる。最後にキリストのビジョン、いわば大宣教命令に一人一人を立たせていく、ということになるでしょう。

     このようにして整えられることで、私たちは地域の人々をキリストの救いに導き、また地域の人々の必要に可能な限りで応え、玉川から全世界に福音を広めていくことができるのです。

     ですから、まず今年は、まだ救われていない人がキリストの福音に与る、ということへ導かれたい。また救われている人は、聖書に教えられる、キリストにあって歩み成長する、ということへ導かれたいものです。そうやって共に教会を完成へと近づけてまいりましょう。

    2005年04月10日

    「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。」(ヘブル1:1-3)

     本日よりヘブル人への手紙から連続講解説教をしてまいります。「神は、昔先祖たちに、預言者たちを通して、・・・この終わりの時には、御子によって」とあります。私たちは神というのは、自分から探し出すものだ、と考えているところがあります。瞑想したり、色々と探求したり、と。しかし、神は、自らご自分について私たちにはっきりと示してくださっている。その昔は預言者たちを通して。実際、神はその昔、預言者アモスを通して神の義を、ホセアを通して神の愛を、イザヤを通して神の聖と赦しを明らかにしてきました。ただそれは断片的なものでした。しかし、この終わりの時、つまり最終的、決定的な方法で、御子を通してご自身がどういうものであるかをあまねく、そのことば、教えを通して、また振る舞いをとおして教えてくださったのです。

     かくして、私たちは、預言者と御子の記録である聖書にこそ神を見出すことができるのです。神を知りたければ、「聖書を手にとりて読め」ということになります。

     さて、ヘブルの著者は、御子についての七つの事実を書き連ねます。御子は、@万物の相続者であります。A世界の造り主である。B神の栄光の輝きである。C神の本質の完全なあわられである。D万物を維持しておられる。E罪の救い主である。F神の右に座しておられる。と。

     こうして聖書は御子についての事実を書き記し、それが最後的なものである、ということは、神のことばである聖書そのものが神についての真理であり、これに何をつけたすこともありえない、ということに注意せねばなりません。カルトの構造は、聖書に何かを付け足す、聖書とは別の聖典を持っているところにあります。しかし私たちプロテスタントのキリスト教信仰は、「聖書のみ」が信条であり、聖書だけが私たちの思想と生活の規範なのです。

     そして聖書に示されたキリストを通して私たちは神を知る。御子の七つの事実に示されるように、御子が世界をおつくりになり、御子が保持しておられる。この事実を日々深く味わい受け入れて歩むならば、私たちの生活も平安の歩みとなることでしょう。聖書によりて御子を深く知り、今週も日々、喜びと平安のうちに歩ませていただくこととしましょう。

    2005年04月17日

    「御子は、御使いたちよりもさらにすぐれた御名を相続されたように、それだけ御使いよりもまさるものとなられました。」(ヘブル1:4)

     少し先週の復習になりますが、先週は、イエスが預言者よりも卓越した存在であることを聖書から教えていただきました。旧約の預言者は、アモスにしろ、ホセアにしろ、イザヤにしろ、神の姿を断片的に伝えたに過ぎません。しかしイエスは、そのことば(教え)と振る舞いによって神の全体像をお示しになった。否、神そのものであった方です。

     本日は、天使よりもイエスが優れている、ということを著者は語ります。色々とイスラエルの歴史・文化の中で、皆が優れていると思うものを取り上げ、一つ一つそれらよりもイエスは優れている、という言い方です。

     それで、イエスは、まず父との関係において天使よりも優れている。天子は父なる神に仕える者、イエスは父なる神の子です。また天使はイエスを礼拝するものとして造られている。さらに天使は神の働きを助けるものですが、イエスはその働きを付与される神ご自身であるのです。また天使は救いの業に参加する者ですが、イエスは救いそのものを実現されるお方なのです。

     このようにして、私たちは真に拝むべきものを拝む、ということを覚えなくてはなりません。昔も今も変わらぬ「こっくりさん」「天子様」といった遊びがありますが、本当に恐れ、また敬うべきものは、イエスご自身です。また、私たちは色々なものに信頼を寄せます。人間関係がうまくいかなかったり、仕事がうまくいかなかったりと、色々と苦しいことがありますと、何かに頼りたくなるものです。新興宗教はそういう心の隙間に付け込んで来るわけです。そして冷静になって考えてみれば馬鹿馬鹿しいと思うことであれ、本当に気持ちがどん底にあったりすると、300万ぐらいの壷で自分の人生が変わるんだったら安いものじゃないか、となってしまう。しかし、真に頼るべきものは、神様ご自身です。私たちを罪の中から救いだし、私たちに永遠の命を約束し、私たちにご自身の富の一切を相続させようとしてくださる、イエス様ご自身なのです。

     今週も真に頼るべきお方にこそ、心を明け渡して歩ませていただくこととしましょう。

    2005年04月24日

    「ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。」(ヘブル2:1)

    注意力を欠くことで大変な事故が起こることがあります。それは霊的な事柄においても同じことなのですが、私たちは普段どれほど自分の霊性に注意を払っていることでしょうか。

     パウロは、当時のクリスチャンたちに警告を発しました。惑わす霊と悪霊の教えに心を奪われてはならない。あるいは、自分に都合のよいことを言う教師に耳を傾けるようになってはならない、と。初代教会ですら、信仰的に押し流されてしまう、という問題があったのです。この世俗化が進んだ現代においては、まして押し流される、ということは非常に身近な、身に迫った問題である、と言わねばならないのではないでしょうか。

     「心に留める」ということばのギリシャ語は、プロセケン、また「押し流される」ということばはギリシャ語でパラルオメン、どちらも航海と関係のあることばであったと言われます。前者は「船を停泊させること」つまり船の碇を降ろすことを意味し、後者は、「水夫が風向きや潮流に対する注意を怠ったために、船を港や停泊地点から漂流させてしまったこと」を意味する、とされます。そこで聖書学者のバークレーは、この箇所を「こういうわけだから、わたしたちは教えられたことがらに人生の碇をおろし、人生という船が港から押し流されて破船しないようにしよう」と訳すのです。

     実に急激的に信仰から逸脱して行く者はなきにしもあらずですが、それほど多くはありません。むしろ私たちの多くは、少しずつ、気づかぬうちに、悪い道に引きずりこまれている、ということがある。それこそ気づいた時には風向きが変わり、自分の生活が敗れている、他人も傷つけてしまっている、ということがあるものです。

     どうしてそういうことが起こるか、というと、問題は、聖書が何を語っているのか、ということを知らないのではなくて、それをしっかりと心に留めていない、というところにあるのでしょう。聖書が語っていることはわかっている。しかし、聞いていない、心に留めていない。実践されていない、ということです。

     ですから、皆さんにお勧めしたいことは、新しいことを聞き求めるのではなく、新しいメッセージ、新しいセミナーと渡り歩くのではなく、すでに聞いていることに注意したい、ということです。また流されないようにそれなりの訓練を受けていく。本当に主の弟子として、みことばに生きる訓練を教会の中で受けていく、ということが大切です。

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    2005年05月


    2005年05月01日

    「神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。」(ヘブル2:10)

     ヘブルの読者は、回心したユダヤ人であったとされます。その置かれた境遇は非常に難しいもの、家族にはうとまれ、ローマ人には憎まれ、異邦人にも順応できない、というものであったといわれます。つまり自暴自棄になりやすい、ヘブルの著者の言い方で言えば、押し流されやすい立場におかれていた、ということです。

     そのようなヘブルの読者に、著者は、私たちがいかに神様に大事にされている存在であるか、私たちが自分を見失うことのないように、励ましを送るのです。まず、第一に人間は天使に優る者とされ、さらにいかなる被造物よりも優る者として造られたものであることを思い起こさせようとしています。天の川の星の輝きよりも、また地中海のサファイアのようなきらめきよりも人間は高価である、というのです。うーん。すばらしい。

     しかし、それほどにすばらしい者として造られたはずの人間の現実はそうではありません。歴史は人間の愚かさが繰り返えし伝えてきました。人間の愚かさ、弱さは自明のことであり、アダムの堕落以来、人間は神に意図された者とは程遠い、負け犬的存在になっているのです。ですから、周囲のみならず自分自身の現状を思うとどんどん気持ちがふさぎ込み、自分の将来に希望が持てない思いになることもあります。

     けれども神様は、キリストによって再びその祝福の地位を取り戻す道を切り開いてくださいました。「イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです(9節)」キリストの十字架の苦しみを自身のものとして受け入れる時に、私たちは新しくされる、そして神が初めに私たちをお作りになった本来の自分を取り戻すことができるのです。

     そこで、私はお勧めしたい。自分自身の現実を認め、キリストにより頼み、人生の本当の勝利を手にしよう、と。また、それは世の中の多くの人が求める生き方ではないとしても、キリストにあって回復される生き方を誇りとしていきましょう、と。

    2005年05月08日

    「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」(ヘブル2:18)

     もし神がよい方で、私たちのために最善を願っておられるとするならば、また、もし神が全能であり、神には欲することが何でもできる、というのならば、どうして、私たちは不幸の最中にありえるのか。色々と物事が思うように運ばない時に、私たちは神の善であること、また全能であることを、つい疑いたくなってしまうものではないでしょうか。それで結局神など作り物だ、と言いたくなってしまうところがあることでしょう。

     ヘブルの著者は、そんな私たちに、イエスの例を示し、「イエスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けた」と語るのです。つまり、苦しみは私たちを栄光に導く、意味のあるものである、このような確信を持つことが大切です。

     第一に苦しみは、私たちがキリストと一つであることを知る助けとなります。苦しむことによって、私たちはイエスの十字架の苦しみに近づくことができます。イエスがどのような苦しみを乗り越えられたか、その心に触れることになります。実に、苦しみなくして深い信仰は持ち得ない。また深く傷つくことなくして神が真の祝福を注がれるか否かは疑わしいことです。また第二に、苦しみのゆえに、キリストはサタンを無力にしました。私たちをサタンの縄目から解放してくださったのです。これは、私たちの苦しみについても言えるこです。私たちが苦しむことで実は誰かが助けられている、ということがある。苦しむよりは助けられる方になりたいものですが、しかし、私たちの苦しみが誰かを力づける、ということがあるのです。そして第三に苦しみのゆえに、私たちは他の人々への共感を増し加え、また人を助ける力を身につけていくものです。私たちが苦しむならば、他人の苦しみの深さを思うことができます。そして、どのように私たちが助けたらよいかもわかる。実に、イエスは、そのようなお方として私たちのそばに来てくださった。キリストは神であられるのに、神のあり方を捨てて、全く人間と同じようになられ、人間の苦しみを味わわれたわけです。だからこそイエスの救いには信頼を置くこともできます。

     そこで苦しみを避けて通らないこと、苦しみにあっては静かに神の解放の時を待つこと。そして苦しみを信仰の深まりと完成のために絶対不可欠のものと心得ること。そして人間は人間によって癒される、つまり互いに祈りあい、励ましあうことを大切にしてまいりましょう。

    2005年05月22日

    「そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。」(ヘブル3:1)

     復習になりますが、1章、2章を通じて、著者は、キリストが預言者よりも、また天使にも優る存在であることを述べています。イスラエル史上のいかなる偉大な人物よりも、また信仰の対象とされるいかなる存在よりも、キリストは優る、ということです。そしてこのような至高なるお方が、私たちの助けとなる、というのです。

     2章18節には、こうあります。この至高なるお方は、「試みられている者たちを助けることがおできになる」と。「そういうわけだから」3章1節。「イエスのことを考えていなさい」と続きます。

     「考えていなさい」に使われているギリシャ語の原意は「認識を強くする」「深く理解する」です。それは使徒の27章39節の「目に留まった」ということばに使われている者と同じです。パウロの乗り込んだ船が難船の危機にあり、多くの者が生きる希望を失った時に、パウロは、彼らが必ず助かると励ましを与え、そのパウロのことばに力付けられて同乗者は、翌日の朝、陸を捜し求めました。「目を凝らす」そのまなざしが、まさに「考えていなさい」ということばの意味するところです。

     人生の難船の危機を味わうような時には、イエスに「目を凝らしなさい」という。その結果何が見えてくるか、といえば、それはイエスが「大祭司」である、という事実です。つまりイエスは、私たちと神を結ぶ仲介者であるのです。私たちが試みの最中にあって目を凝らす時に、私たちのためにとりなしてくださっているイエスの姿を、私たちは見ることでしょう。何も変わらないと思うような状況の中で、イエスご自身が、私たちのために最善をなしてくださっていることを信じることができることでしょう。

     信仰において幼い時には、なかなか目に見えぬ神が私たちのために最善をなしてくださっている、とは信じることができません。しかしそこを敢えて信じてみる。信じられないものを信じることこそが信仰です。そしてそのような中で神の恵みを経験していく時に、色々な困難に遭遇するたびに、今度はどんな神の恵みを見させていただくことになるのだろうか、と苦難の中にあって望みと期待と喜びとを抱くようにもなります。私たちを支える至高なるキリストを今週も信頼してまいりましょう。

    2005年05月29日

    「もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。」(ヘブル3:14)

      ヘブルの著者は、旧約における出エジプトの事例をあげて、心をかたくなにすることの愚かさを指摘しています。当時、エジプトからカナンの地までは、最短で2週間。その道のりを、イスラエル人たちは40年間かけているわけです。荒野をさまよい歩いて。それも、神に対して心をかたくなにしたためであり、不信仰のためです。神に信頼する心の欠如、これが心のかたくなさそのものなのです。

     まず、イスラエル人は内側から来る、渇き(出17:1−7)の試練において、神は一切の必要を満たすお方であることを信じようとしませんでした。次に、カナンの地を攻略する、という外側の試練において(民数13)において、神には勝利を得させてくださる力があることを信じようとしませんでした。

     私たちはいやおうなしに自分の力の限界以上のことを求められることがあります。神様とともに何事かをなしていかねばならぬ、そういうことがあります。私たちが落胆するような、あるいは悲観するような出来事に遭遇する時はいつでもそういうような時なのです。硬い心をやわらかくし、地に張り付いて硬直した目を天に向けて、神様への信頼を告白すべき時なのです。

     そこで私たちがいつまでも心をかたくなにするならば、私たちは神の安息を得ることができません。二つの意味があります。まだ信仰を持っていない人が、心のかたくなさを捨てて、神を信じるならば、信じられない神を受け入れるならば、その人は永遠の救いの安息を得ることでしょう。そして神を信じている人は、信仰によって神の平安を与えられる、というすばらしい安息の世界を味わうのです。 今日のお勧めは、まず、私たちが日々、主の恵のことばをもって励ましあう、ということです。互いにかたくなな心を捨て去り、神を信頼するように、言葉を掛け合うことです。そして第二に、信じられない時にこそ、神を信頼できない時にこそ、神を信頼していく、耐え抜く祈りをしていくことです。「主よ。どうしてこんなことになるのかわかりません。しかし、これはあなたが与えられた試練です。私に学ぶ心を与えてください。そしてあなたが教えてくださるように」と祈り、いかなる試練の時も乗り越えていく力強い信仰へと成長させられてまいりましょう。

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    2005年06月


    2005年06月12日

    「こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。」(ヘブル4:1)



     神が与える安息というのは、何であるか。再考することといたしましょう。イスラエルの人々は、安息の地を約束されながら、その不信仰のゆえに、それを得ることもなく荒野の塵と化してしまうわけです。彼らにとって安息は、具体的に約束の地、カナンに入るということでした。私たちはこれをすぐに天国にはいること、と適用しやすい。しかし、そんなに単純ではないように思います。

     ギリシャ語で安息はカタパウシス。反対、敵対を意味するカタと、止めさせる、抑制するを意味するパウシスの造語です。敵対を止めさせる、抑制する、という意味が原意である。つまり、私たちの心の中で神に敵対する心を抑制し、止めさせることです。いつでも、私たちが平安の思いを欠くときには、心の中で神に敵対する思いがあるように、安息というのは、この世の環境に左右されない、心の状況であるとも言えるでしょう。実際、イスラエル人は安息の地カナンに入りながらも、戦いを続けて自分たちの土地を回復していくわけですから。

     ではその安息はどのように得られるのか。ヘブル4:2-3が私たちに教える公式は、神のことばを聴いて、信じる、というものです。説教を聴くだけでは安息というものは得られない。信じて、信じたように行動していくことです。しかし、私たちは聞きはするが信じるというところで手をこまねいていることがある。色々と恐れていたり、神様を信頼できないでいることがある。だからいつまでたっても心が落ち着かず、胸が騒ぐということがある。信じられればなあ、と思いますか。しかし、そう思うのは、自分の無力さを感じながらも、まだまだ何かができるんじゃないか、と目に見えない神ではなく、目に見えるものに頼む思いがあるからなのでしょう。そして目に見えない神が、はっきりと見えない、信仰の目が霞んでいるからなのでしょう。主が私たちの目を開かせてくださるように。私たちの周りを幾重にも主の軍団が取り巻き、主の使いが控え、何事も心配なく歩むようにと主が先に立っておられることを知ることができるように。祈りましょう。

    2005年06月19日

    「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。」(ヘブル4:12,13)

     ヘブル4:1-11の話題は「安息」ですが、4:12-13において、著者はいきなり「みことば」へと話題を転換させています。何か文脈が断絶しているような印象です。しかしそれは著者のことば足らずと考えるべきで、11節と12節の間には、このようなことばを補う必要があるのでしょう。「私たちが安息を得られないのは、古い精神的な習慣や伝統的な思考パターンに邪魔されているためである。だから神のみことばの真理に基づいた新しい思考パターンを身に着けていく必要がある」実際「みことばには力があり〜」というわけです。

     確かに神のことばは、私たちの目に見えない部分、いわゆる盲点に気づかせてくれる、鏡のようなものです。神のことば、このばあい、聖書と狭く捉える必要はありません。聖書的考えに基づいた助言、聖書信仰を歌う賛美、広くとらえてもよい内容です。いずれにしても、人間的な思索、人間的な励ましのことばとは違う。聖書そのもの、および聖書に基づいたことばです。

     そのような神のことばには三つの性質がある。一つは生きている。いわゆる森を生み出すどんぐりの種のようないのちがある。そして力がある。ギリシャ語ではエネルゲース、エネルギーの語源となったことばです。人を変えていく力がある。「刺し通す力がある」とも言い換えられている。悪い態度、閉ざされた心、反逆的な精神、肉欲に満ちた心はみことばと聖霊に刺し通されることなくして決して変えられることはありません。そして最後に鋭い。安息を得られない心のからくりにメスを入れ、私たちの心の問題を解きほぐす力がある。著者は言います。みことばには判別する力がある、と。

     このような神のことばの前に、私たちは裸であることを覚えなくてはなりません。「さらけ出されている」ということばに使われたギリシャ語は、トラケリゾマイ、のどを意味するthroatの語源となったことばです。それは当時、処刑の際に、犯罪人が自分の羞恥心を隠すためにうつむく状況を阻止するため、のど元に短刀を突きつけ顔を上げさせる行為を言う時に使われたことばです。最も羞恥すべきこともさらけ出されている状況。そのようなことを一切神はご存知でありながら、私たちにいのちを与え、力となるみことばを与えてくださるのです。

     今日、あなたが変えられたい人生を歩みたいと望むならば、今日自分の悩みを解きほぐしたいと思うならば、今日自分の将来のビジョンを掴みたいと思うのならば、みことばへと向かわなくてはなりません。主はあなたに魂を救い、命を与えるみことばを与えてくださることでしょう。 

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    2005年07月


    2005年07月03日

    「 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」(ヘブル4:15)

    4:1-13のテーマは「安息」です。それはやがて来る天における「安息」のことです。しかし同時にまた今の世における「安息=平安」とも言える。クリスチャンの人生において平安の内に生きる、というのは、全く困難が無くなる、ということではない。むしろ様々な困難にありながらも、私たちの様々な思い煩いや心配を主に委ねられること、緊張や葛藤を主に明け渡させていただくこと、そのようにして心が支えられ、自分の行く道を見失わずにいること、自分の労苦の意義を望み見ていることができる、ことなのです。  

    こうした平安を得る道は開かれている、と聖書は語る。その根拠として第一にみことばがある(4:12-13)とヘブルの著者は語る。みことばは生きていて力があり、というわけです。そして第二に、大祭司がいる(4:14-16)と語る。神の御子イエスが私たちと神を仲介されるお方である、と語る。色々と会社内で上司と難しいことが起こった時に、誰かがとりなしてくれないものかと思ったりするものでしょう。上司の友が、というわけではなく、上司の子が肉親がとりなしてくる、というわけです。

     さて、神の子イエスの仲介はどのようなものか。同情と訳されたシュンパセオーは、共に苦しむ、を意味するものです。イエスは、私たちと同じ試みに試みられている、私たちの感じている弱さをそのまま感じている、悲しみ、辱め、痛みというものを共に苦しんでおられる、というのです。またイエスが座っておられるのは恵みの座、さばきの座ではありません。鋭く、私たちの痛みや恥を見抜き、評価されるというのではなくて、愛情といつくしみの目を持って、私たちに向かい合っておられる。  

    だからこそ、私たちはイエスに、自分の心を語らなくてはなりません。そうすればイエスは私と共に苦しみ、私たちのことを父なる神にとりなしてくださるのです。そのために特別な聖なる儀式が必要だというのでもない。ただ単純に、イエスは私たちを招いておられるのです。ですから私たちは、悩みの中にあるときにこそ、また苦しみの中にあるときにこそ、イエスの側へと急がなくてはなりません。そしてイエスとともに神の前に立つのです。イエスの十字架によって私たちは神に受け入れられるからです。ためらわず、大胆に神に求め、神に近づき、神の助けを得なさい。主は聞いてくださるでしょう。

    2005年07月10日

    「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:19,20)

     本日は世界宣教デーです。今年から新しく始まった連合の一つの行事ですが、この日、世界宣教の働きを覚えて重荷を持ち、また祈る、ということを目的としています。7月にこの日を定めたのは、連合の設立に尽力してくれた初代の宣教師フランシス・ソーリ先生の来日がこの月であったことによるものです。

     ともあれある一宣教師の世界宣教(日本)への重荷によって、日本の宣教が推し進められ、そして今日の私たち連合の歩みがある。となれば、連合はさらにそのバトンを引き継いで世界に出て行かなくてはならないようにも思われます。いいえ、実際に世界に出て行くことは、主の大宣教命令にも示されているように、確かなる神のみこころなのです。神が教会に与えられたみこころです。このみこころに私たちは応えていく必要があります。確かに、「神はすべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。(Tテモテ2:1)」

     どのように応えていくか。やはり個人の業ではなく教会(チーム)の業としてこれをなしていくべきなのでしょう。共に考え、共に祈り、共に信頼し、共に行動し、共に分かち合い、共に支えあうことを通して。しかし、教会の課題を共に担っていく、というのはある程度霊的に成熟している必要があります。誰でも教会に来ている人にとって、自分のことで精一杯、ということがあるものでしょう。教会の課題までも、ましてや世界宣教など大きな事業のようなプロジェクト参加は、私にはと思われるところがあるのではないでしょうか。神が一人一人の心を豊かに祝福してくださるように、一人一人の心の内に、豊かな満たしを与え、神の心を心とする思いが与えられるように、そして神のみこころを実行する力が与えられるように!

     またチームの役割分担について言えば、前線の働き(Front-line)と後方支援の働き(Behind -the -lines)があります。私たちは誰でも海を越えて出て行くように召されているわけではありません。ある者は国内に留まる。しかしそれで世界宣教にかかわりが無いというわけではありません。兵站部隊としての役割があるわけです。実際には、地域教会をしっかり完成させる。地域教会がおぼつかなければ世界宣教も成り立ちえません。ですから地域教会を安定化させる、発展させることがまず何よりも大切です。そして送り出した宣教師のために祈る、財政援助をする、そして様々な形で励ますことが大切なのです。

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    2005年08月


    2005年08月07日

    「まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」(ヘブル5:13,14)



     聖書は霊的な成長についてはっきりと語っています。身体的な成長があると同様で、霊的な成長があるのです。しかし、この霊的な成長については、しばしばほとんど意識されていないことがある。結果的に箸を使える年齢になりながら、ベビーフードをスプーンで装ってもらっている、ということがあったりします。いい大人がABCブロックで遊んで集まっている。愛される、抱っこされる、世話される、耳に心地よい子守唄を聞くことに慣れている、肌の温度に暖めたミルクを飲むことになれていて、いつまでも自立した歩みが起こってこない。体は大人なのに、子ども以上に手がかかる、大変な人たちが集まっている。そういう教会というのは、もはや教会というよりは、ディケアセンターとでも言うべきでしょう。教会が教会であるためには、霊的成熟というものが大切です。

     ヘブルの著者は、霊的な成熟の三つのしるしを明らかにしています。一つは「堅い食物」が食べられる。言ってみれば聖書の色々なメッセージを聞く力受け止める力がある、ということでしょう。神様に愛されているというメッセージばかりに喜んでいるのではなく、聖書全体のメッセージをきちんと受け止めて、聖書に従っていける、キリストの弟子として歩んでいける、ということです。

    第二に、「訓練」されている。ただ食べさせてもらうだけではなく、自分から聖書の素材を料理して、食べていくことができる、あるいは食べさせていくことができるほどに訓練の結果として成長させられていく。そして第三に、「鋭い感覚」を養う。皆さんも健康に気を使った食事を心がけるでしょ。最近はお野菜が不足しているから青野菜をとか、元気をつけるためにお肉をとか。あるいはこれは賞味期限が切れてるけど大丈夫かなとか、この食べ合わせはよくないなとか、そうやって自分の体の状況を考えながら健康を増進していけるように自由に食事していける、これは栄養感覚があるからこそです。同じように霊的な鋭い感覚も必要。どんなものでも取り入れたらいい、何でもOKということはありません。ことにこの東京という都会で信仰を持っていくにあたっては、もう様々な信仰のあり方というものがありますから、霊的感性を養うってことが大切。そのために、私は信徒さんも神学を学ぶ時代だと思っているんです。歴史的に見れば宗教は同じ様な過ちを犯しています。そういう意味でキリスト教の歴史を学ぶと言うことは大切。聖書をただ順番よく学ぶだけでなく、体系的に学ぶと言うことも大切。解釈の仕方によってキリスト教的カルトの問題もでてきているのですから、 解釈学の歴史を学ぶことも大切。主にあって今週も霊的成長を意識した一歩一歩を歩ませていただきましょう。

    2005年08月14日

    「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。」(ヘブル6:1)

     クリスチャンのゴールは成熟にあります。ただ年数を重ねることがよいのではありません。やはり成熟に向かって進まなくて はならない。ヘブルの著者は、回心、儀式、預言の三つの事柄というのはキリストについての初歩である、と語る。大切なのは成熟 である、と語るわけです。ここで言っている成熟はおおよそ人格的成熟と考えてよいでしょう。しかし、この成熟が妨げられている という現実があるわけです。多くの人々はキリストを信じ、教会に通い、キリストの御名を語り、奉仕をし、ということをしている。 しかし、実際に、霊的な実、成熟の実は結んでいなかったりすることがあります。なぜでしょうか。堕落する心を許しているがため でしょう。私たちの心は堕落に向かいやすい、いつも罪を恋い慕うところがあります。古い自分が楽しんでいた罪の営みを懐かしむ ところがある。そしてキリストにある成熟に生きるということは馬鹿馬鹿しいことだ、と思わせる現実があったりする。どのクリス チャンにも現実的には矛盾が満ちて、偽善の要素を垣間見せられたりする。そうすると、私たちは自分ばかりがまっすぐに生きてい ることに、何か空しさを感じてしまう。悪魔の攻撃をまともに受けてしまって、正しいことがわからなくなってしまうものです。悪 魔は実に巧妙です。人間の寂しさ、悲しさに付け入ってくるところがあるのです。

     そこで、私たちは注意しなくてはいけない。自分はいったいどこに立っているのか。人間の感情という砂上の楼閣に立っ ているのか、それとも、神のみことばという堅固な巌に立っているのか。そしてどちらを向いているのかに注意したい。成熟を目指 して生きているのか、それとも、何も考えずぼんやりと、その日その日の感情に流されるがままに生きているのか。成熟を目指して 進もうではありませんか。実際に実を結ぼうではありませんか。

     もし、あなたが今、感情に流され、罪の中に惑わされているならば、それを終わりと考えてはいけません。そこで居直っ てはいけません。神にそのことをあるがままに告げなさい。そうすれば神はあなたを救ってくださるでしょう。そういう弱さの中で たびたび救いに導かれた神を思い、神の力を信じるのです。今週も神に信頼して歩ませていただきましょう。



    2005年08月21日

    「だが、愛する人たち。私たちはこのように言いますが、あなたがたについては、もっと良いことを確信しています。それは救いにつながることです。 神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。」(ヘブル6:9,10)

    前回のメッセージは、成熟するように、という勧めでした。しかし、そのようなメッセージは、しばしば成長しきれない自分自身の現実を思う時には、大変ストレスに感じるものでしょう。人間は、成長しようと思って、次の日から成長できるわけではない。変わりたいと思って、次の日から全く別人になれるわけではない。人間の罪深さの現実があります。けれども、自然に任せていれば成長する、というものでもない。自然に任せていれば体重も増えるし、身長も増える。しかしそれが健康的な成長を遂げるとも限らない。どこかで成熟のイメージをはっきりさせて、よりよいものに向かっていく心がないと、本当の成熟というものは起こらないわけです。

     そこでヘブルの著者は、成熟に向かうよう私たちに勧めると同時に、成熟に向かう大切なヒントを与えてくれています。一つは、成熟に向かうには、それなりの環境が必要。脱線や失敗を飲み込む大きな愛が必要。神様を誤解している方が多い。神様は、私たちの失敗をいちいち責められる狭量な方ではありません。ぐちぐちうるさい親とは違います。10節。「(神は)聖徒たちに仕え、御名のために示したあの愛をお忘れにならない」と語っている。私たちの失敗なんかではなくて、私たちがしていて思い出せないようなよいことを覚えておられる。実りがあろうとなかろうと、神に愛を示した心の内を覚えておられる。お忘れにならない。感謝している、というのです。神様を怖い裁き主のイメージでとらえていると萎縮してしまう。何もできなくなってしまう。あれもだめ、これもだめ、思い余ってますます悪い方向に動いてしまうものでしょう。しかし神の感謝を覚えると、私たちは、もう一度やり直そうと思えるようになる。成熟に向かうには、失敗を克服しようとする心を支える暖かい愛情が必要なんです。神様はそういう目で私たちを見ておられる。

     で、神様のその姿勢は私たちの成熟のためのヒントでもある。私たちも互いに神様の感謝に生きる。人を赦し、受け入れていく。人の失敗よりも目に見えない人のよい動機を見ていく、その人の暗い面よりも明るい面を見ていく、暗い部分よりも明るい部分を見ていく。そして励ましを与えていく、やさしいことばをかけていく。教会がそんな雰囲気であれば、きっと多くの人が教会でいのちを得るでしょう。失敗の繰り返しで悩んでいたとしても、そこから回復されるでしょう。

     ヘブルの著者は、主にある希望について十分確信を持ち続けるようにと勧めます。変えてくださるのは主です。力を与えてくださるのは主です。自分にう弱さがあるからこそ神を仰ぐのです。弱さが根深いから神を仰ぎ続けるのです。神は神を求める者の愛を決して忘れられない。覚えておられる。そして働かれるのです。そうやって私たちは自分の怠け心と戦いたい。またよりよい自分のあり方、模範を見つけて進ませていただきたいものです。

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    2005年09月


    2005年09月04日

    「――律法は何事も全うしなかったのです。――他方で、さらにすぐれた希望が導き入れられました。 私たちはこれによって神に近づくのです。(ヘブル7:18)」

    本日の箇所を読み解いていくには、ユダヤ的な背景を理解しておくことが大切です。メルキゼデクという人物について述べられて いますが、彼は王であり祭司である、とされる。歴史上の人物であったと思われますが、死によってその祭司職を失うことのない、 永遠の祭司とされます。神的性質の強い存在です。この存在が、私たちにとって本当に必要な祭司、神との仲介者である、というわ けです。

    しかしながら当時のユダヤ社会では、こういう言い方は非常に奇異である。というのも、ユダヤの社会では、神の仲介役とされるのは、 レビ系の祭司だというのが常識だったからです。イスラエル12部族の中のレビ族は、神と民の間を仲介し、罪の生け贄を捧げ、イスラ エルの民を神に近づける存在とみなされていました。しかし、そのレビ系の祭司よりもメルキゼデク、レビ族が歴史に登場する以前存 在したメルキゼデクと呼ばれる祭司の方が重要である、とヘブルの著者は言う。メルキゼデクは、アブラハムから十分の一を受けている。 したがって当時アブラハムの腰の中にいたレビからも十分の位置を受けている、そしてアブラハムを祝福したのはメルキデゼクである、 だからレビよりもメルキゼデクの方が重要だ、という言い方です。そして、ヘブルの著者は、レビ系の祭司と律法は、信仰者を神に近づ けることも、その霊的な成熟を助けることについても無力であった。しかし、メルキゼデク系の祭司(イエス)は、私たちの霊的な成長 と成熟を確かなものとし、神へ近づけさせてくれる、といいます。

    そこでヘブルの著者がもし日本の文化の中で、こういうイエスの優位性を説明するとなれば、もう少し別の言い方になったことでしょう。 たとえば乱暴な言い方になるかもしれませんが、お百度参り、神社参拝、念仏、こういうものは神様に私たちをちとも近づけない。神様 に私たちを近づけるのは十字架のイエスが、そういう言い方です。でも、どうしてそのように言い切れるのでしょうか。第一にイエスは、 私たちがどこから来て、どこへ行くかを知っています。私たちが神のもとから来て、髪のもとへ帰ることを明確にしています。そして第 二に、イエは、私たちが霊的に無力であり、神の前に罪人であり、栄誉を受けることのできない存在であることを示しますが、同時に、 私たちがどのようにして罪から自由になり、霊的に強くされ完成されるかを語っているからです。

    イエスのもとに、私たちの人生の答えがあります。そしてイエスは、私たちに確かな神の存在を覚えさせ、神に近づけてくださる永遠の 祭司なのです



    2005年09月18日

    「以上述べたことの要点はこうです。すなわち、私たちの大祭司は天におられる大能者の御座の右に着座された方であり、 人間が設けたのではなくて、主が設けられた真実の幕屋である聖所で仕えておられる方です。 (ヘブル8:1,2)」

    神について知ることと、神を知ることは、全く違うものです。頭で学んで、神について知識があることと、本当に神様に出会って 知っていることとには違いがあります。たとえば日本には「いたこ」という存在がいて、死者の霊と引き合わせるという不思議なこ とをいたします。果たして本当かどうかよく解らない部分もあるのですけれど、それが本当であるとして、その例に倣った言い方を すれば、私たちはキリストによって神に出会うことができる!と聖書は言っているわけです。

     当時のユダヤ人には、そのように人々を神様に引き合わせる存在として祭司がいる、とされていました。初代の祭司は、 モーセの兄アロンです。そしてアロンの死後はエルアザル、アロンの息子が受け継ぎました。その次はピネハス、エルアザルの息子 です。つまりユダヤにおける祭司職は世襲制によってイエスの時代にまで引き継がれて行ったのです。その祭司の重要な役割は、神に 人々を近づけることにありましたが、実際には、それは儀式以上のものにはなりえなかったわけです。ヘブルの著者は、その現実を指 摘し、神に人々を近づけるお方はイエスのみである、永遠の祭司イエスのみであることを告げます。そしてイエスは実際に罪のないお 方でした。世襲制で受け継がれた祭司たちは、罪を犯す者たちでした。彼らは自分たちのためにも生け贄を必要としましたがイエスは そうではありません。また彼らは罪の赦しと神の祝福を受けるために動物を生け贄として捧げましたが、イエスはご自身の聖いいのち を生け贄として捧げたのです。それは一度きりの全人類のための完全な生け贄としてささげられました。さらにキリストはまことの神で あると同時に、まことの人でもあった。つまり神と人の双方の執り成し手としては完全な役割を担うお方であったということです。

    そしてイエスは、今もなお私たちを神に執り成し、神に私たちを近づけられようとしておられるのです。どのようにして。ペテロの例を 学びましょう。イエスを裏切り、大失敗したペテロを、イエスは「信仰がなくならないように神に願った」とペテロのためにご自身の祈 りを捧げています。神の御旨に添うことに弱さのある私たちですが、否ともすれば反逆すらしかねない私たちですが、そんな私たちのた めに今日も主イエスは完全な守りのために祈りをなしてくださっている事を覚えたいものです。



    2005年09月25日

    「 神が新しい契約と言われたときには、初めのものを古いとされたのです。年を経て古びたものは、すぐに消えて行きます。 (ヘブル8:13)」

    イエスは、これまでユダヤ人の間に伝統的に受け入れられてきたレビ系のどの祭司 よりも優れた存在であるとされます。第一に、イエスは罪のない完全な祭司でし た。これまでの祭司は、生まれながらにして罪の重荷を背負う者であり、祭司が とりなす人々同様に、自らの罪のとりなし生け贄を必要とするものでした。また、 イエスは全人類のための一度限りの絶対的、決定的な生け贄として自分自身をお ささげになりましたが、これまでの祭司は、一時的な不完全な生け贄を繰り返し ささげる役目を担うだけでした。そしてイエスは完全な神であると同時に、完全 な人でもあったのです。つまり神と人の双方の側に立った完全な取り成し手であっ た、と言えるでしょう。

    このイエスは、今、主が天上に設けられた真実の幕屋で 私たちのためにとりなしておられるのです。実際的には先週もペテロの例にも見 たように、私たちの救われた歩みを確証するとりなしをなしておられます。私た ちのためにただ漠然とまた希望的観測で神に願いとりなすのではなく、神がイエ スの願いはすべて聞き入れるという前提でとりなしておられるところが、私たち にとっては恵みなのです。

    ともあれ、そのイエスは、私たちに新しい契約を結ば れました。古い契約は、律法を守れば救われるというものです。しかし律法を守っ て救われる者は誰一人いません。律法は、罪を暴きたて、断罪し、私たちを死に 至らせるのです。救いは別のところにあります。イエスはその別のものとして新 しい契約、イエスの十字架を信じるならば救われるという道を指し示したのです。 そしてこのイエスの十字架による救いという新しい契約は四つの点で優れた部分 があります。

    まず第一に、イエスの十字架による救いは神の愛の表れでした。私 たちは神の愛を覚えて、よい行いへと動機付けられるのです。古い契約はただよ い行いを覚えることが第一、よい行いを行うことへの頑張りを要求します。そし て第二に、新しい契約は親密な神との関係を大事にします。律法の恐怖で私たち を縛り付けるのではなく、親密な神との関係から、私たちがよい行いへ動機付け られていくことを目的としています。そして第三に、新しい契約は救いの確かさ を指し示します。私たちは自分が罪赦され、神に愛され、祝福に入れられている ことを何で確証できるでしょうか。十字架です。十字架のイエスによって、私た ちは完全に救われていることを確証するのです。しかしもし私たちが自分の行為 の完全さに救いの基礎を置き始めると、どこまでも救いを確信できない精神不安 に陥ることになります。

    最後に、イエスの新しい契約は、律法のように罪を指摘 し、失敗と過ちを責め立てるのではなく、赦しと恵みを強調します。すべての行 為は許されているのです。しかしすべてが徳を高めるとは限りません。(Tコリ ント10:23)私たちが欲する物の中には私たちを傷つけ、私たちを惨めにし、私 たちの霊を殺すこともあります。現実の私たちはそのようなものを求めやすい。 しかし、イエスはその失敗、過ちを攻め立てるのではなく、さらに優れた、御霊 の喜ぶものをこそ求めていく十字架の恵みを与えてくださるお方なのです。この イエスの恵みによって強くさせていただきましょう(Tヨハネ1:9)。



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    2005年10月


    2005年10月02日

    「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心を きよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。(ヘブル9:14)」

     9章の1〜6節は、幕屋の構造についてのお話です。7〜10節は、そこでの祭司の働き、そして11から14節にキリストの働きの 意義が語られます。当時のユダヤ人の慣習に添って、筆者は、キリストの救いの素晴らしさを語ろうとするのです。

     まず当時は、神殿礼拝が宗教の中心でありましたが、イスラエルの歴史の中では、ソロモン王の時代以降、イエスが生き ていたヘロデの時代まで3つの神殿が建設されました。それ以前は?と言えば、ポータブル神殿というべき、「幕屋」と呼ばれる場が 利用されていたわけです。幕屋には9:13 もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、 聖所と至聖所があり、ここで色々な宗教儀式が行われました。祭司は朝晩、聖所で香を炊き、祈り をなし、また祭壇で生贄をささげ、罪の赦しと聖めを民にもたらす重要な働きをしていたわけです。そして一年に一度、「贖いの日」 と呼ばれる、今の暦で言えばだいたい7月ごろですが、至聖所と呼ばれる奥の間に入り、年に一度の大切な罪の赦しのための儀式が執り 行われました。ここに入るのは、大祭司、いわゆる祭司の長に 限られていたわけです。この大祭司が、生贄の血を至聖所に収められている贖罪蓋にふりかけ、民の聖めの宣言をするわけです。

     そこで著者は言います。「もし、やぎと雄牛の血〜(略)〜が聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、 キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行い から離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう(13,14節)」

     実に、当時聖めのために受け入れられていた宗教的儀式に、どんな理屈と根拠があるのかはわかりません。しかし、彼らは その儀式によって自分たちが聖められることを信じていました。ならば、それに勝る、神の愛の込められた十字架の犠牲は、どんなに か聖めに効力があることか、というわけです。

     大切な点は、彼らがそのような儀式を通じて、あるいは十字架を通じて、神に近づくことを考えていたことです。あなたの 生涯は、神に近づくものでしょうか。神の聖潔に与ろうとするものでしょうか。主があなたの魂を引き上げ、あなたを霊的な高みへと 導かれますように、祈りましょう。



    2005年10月09日

    「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、 キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、 彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。(ヘブル9:27,28)

    ヘブル書は、当時のユダヤ人の習慣に添って、キリスト教の救いを解き明かしています。当時のユダヤ人にとって、罪の赦しは非常に 重要なテーマでした。その罪の赦しを実現するために、一つの儀式が確立されていました。罪の赦しのためには血が流される、儀式です。 もしこういう儀式に効果があるのなら、イエスの罪の赦しの儀式はもっと効果があるのではないか、というのは先週学んだことです。

     さて今日の箇所はさらに、私たちに儀式の一連の流れがもたらす意味から、キリスト教のさらに深い奥義が明かされていきます。

     当時のユダヤ人は、こういう儀式に自分の罪の赦しをかけていたわけです。ですから、彼らは、自分たちの罪の赦しを実現する 生贄を大祭司のところへ持ち運びました。大祭司はそれを屠り、その血にヒソプを浸すと、そのヒソプを持って罪の贖いのために幕屋の中 に入っていく。そこで大祭司は贖いの儀式を成し遂げるわけです。ユダヤ人は幕屋の外で自分たちの贖いが終了するのを今か今かと待って いました。彼らは大祭司が現れて、自分たちの贖いが完了したと告げる、その知らせを心待ちにして待っていたのです。

     実はこのような状況が私たちにも共通している部分がある。皆さんはこれまでキリストの再臨をどのように受け止めていたか。 何か荒唐無稽な出来事を信じる思いであったか、あるいは、神秘主義的で信仰保留とすべきことと受け止めていたか。いずれにしろ、今日 の箇所はキリストの再臨について新しい見方を与えてくれるものです。

    というのも、聖書は今キリストが天の幕屋に入って、私たちの救いのためのとりなしをしてくださっている、という。つまり、動 物の血を携えて幕屋に入りイスラエルの民を贖うために神の前に立った大祭司と同様に、イエスは自らの血を流して、天の幕屋に入り、私 たちのために神の前に立っている。となれば、その天の幕屋の外で、私たちは、今か今かと自分たちの救いの完成が告げられるのを待って いるということにもなるでしょう。

    事実私たちの救いは不完全なものです。私たちは救われたといいながら、半分救われた者に過ぎません。依然として罪の性質を背 負い、罪の呪縛に閉じ込められている。罪を犯し続け、繰り返しイエスの罪の赦しの宣告を必要としているものです。否完全なる贖いの完 了の声を聞きたいと待ち望んでいるものです。そういう私たちにキリストは必ずよい知らせをもたらしてくれる、というのが再臨信仰なの です。再臨は私たちの救いの完成を告げるものである、となれば、これを心待ちにして待ち望まぬ理由はありません。



    2005年10月16日

    「このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。 また、すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることができません。 しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるの を待っておられるのです。キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。(ヘブル10:10-14)」

     律法は「影」であるとあります。それは、正確な模写、模型を意味するものです。つまりよく私たちはビルの建築現場で完成予想図 を見ますが、律法というのはそのようなものだ、つまり人間がどのようになるものなのか、聖化された人間がどうなるのかを示してい るのです。そうやって考えてみると、律法を私たちはもう少し自分を縛り付ける道具としてではなく、自分を向上し建て上げていく目 標として見ていくことができるのではないか、とも思えます。

     さてこの律法には限界があります。律法によっては罪が示されるのみであり、イスラエルの民は罪をきよめるために毎年動 物の生贄を繰り返しささげてきました。ところが倫理的な穢れを物質的方法で除去できるものではありません。その生贄は繰り返され ることになり、永遠に良心を清め得ない事実に人間は直面せざるを得ません。

     しかもこの手紙が書かれましたのは、大体紀元68年ごろ。70年にエルサレムの神殿は崩壊し、神殿で祭儀を行う形態の宗教 活動は終わりを告げましたから、イスラエルの人たちは、自分たちの聖めの手段について真剣に考えなくてはならなかったわけです。 彼らの罪を聖めるという生贄がもうささげられない時代に入っていったということです。しかし、当時のクリスチャンたちは、この点 スムーズに、そのような犠牲の生贄をささげる形式から離れることができました。というのも、イエスキリストにある永遠の罪の赦し、 一度限りの完全な罪の赦しという教理に立つことができたからです。キリストの罪の赦しは、私たちが神のご厚意に与るために何も必 要がないのだ、ということを確信させます。私たちの罪は、永遠に神の記録から消し去られ、それゆえ私たちは恐れることなく神に近 づくことができるのです。もはや神のご機嫌を伺うどんな生贄も必要とされません。また、キリストにある罪の赦しは、私たちを神の 御前に近づくにふさわしい者として聖めていく力をも持ちます。そしてさらにキリストにある罪の赦しによって私たちは横のつながり で相対的に生きていたのが、縦の関係の中で神を見上げ、神と共に歩む人生にいれられるのです。

     このような人生において、私たちは、神のみことばを心の深い思いの中に受け止めて歩むことが大切です。ただ律法を守る かのように、神の戒めと向かい合って生きるのではなくて、戒めを与えられる神の深いお心に触れて歩むことが大切なのです。



    2005年10月23日

    「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますます そうしようではありませんか。 (ヘブル10:25)」

     旧約時代の秩序からすれば、すべての民ではなく、民を代表する大祭司だけが一年に一度だけ神に近づく特権に与っていました。 しかし、新しい新約時代、すなわち現代における秩序では、すべての人がキリストのいけにえにより内的にきよめられ、聖別され、完全 にされ、聖なる臨在に近づく特権を受けています。キリスト者は、キリストによって神の御座に近づくことができるのです。ヘブルの著 者は、この自由な権利を無にしないようにと力説します。

     そこで三つの勧めをなすのです。第一に、神に近づく特権はいつでも、どこでも誰にでも与えられているものであるから、 十分な確信を持って近づきましょう、と。そして第二に信仰告白において、堅く立ち動揺しないようにしようではないか、と勧めます。 希望は神の間違いない約束に基づくものであるならば、その希望を心に堅く抱き、勇敢に告白し信じ続けることは大切なことです。そし て最後に互いに励ましあうように、と勧めます。新英訳ではこの箇所は次のように訳されています。「どうしたら各自が他の人々を愛と 積極的な善行へと喚起できるか考えるべきである」と。私たちは普通、他の人のことまでは考えられないものです。しかし考えていく。 キリスト者の生活が互いに刺激されるように、愛を示しあっていくことが大切なのです。

     それでこのようなことは、教会に集う一人一人がばらばらであっては決して有効なものとはならないでしょう。共に集まり、 信仰と希望に基づく交わりを深める機会を大切にし、互いに励ましあうことによって、有効になる勧めです。

     「一緒に集まる」と訳されたギリシャ語は、エピシナゴーグ、エピは、〜に加えてという意味を持つ接頭語。シナゴーグは、会堂で す。つまりユダヤ人の会堂に加えてキリスト者だけの独自の集会がもたれていたと考える学者がいます。キリスト者独自の信仰やもの の理解を養う、特別な集会をやめないようにしようということです。そういう意味では、私たちは礼拝やそのほかの諸集会を大切にし たいものです。集会に出ることが大切なのではありません。そこで信仰的な考え方に触れる。となると人々は大教会で繰り広げられる ようなインパクトのある礼拝を求めがちです。しかしそうではない、たとえ小さな教会であっても素朴な交わりの中に、素朴でありな がら聖らかな信仰の姿勢に触れる、そういうことが私たちを霊的に刺激することがあります。今週も主にある交わりと祈りを大切にし てまいりましょう。



    2005年10月31日

    「しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、というこ とを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰 によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。(ガラテヤ2:11)」

    本日は、宗教改革記念日です。プロテスタントの発祥を覚えて、私たちの信仰の本質を考えて、まいりたい。

     宗教改革は、1517年から1648年まで、つまり16,17世紀が中心となります。中世から近代へと大きく時代が動いていく時 であり、様々な変化がありました。中でも重要なのは、新大陸が発見される地理的な変化、またイギリス、フランス、ドイツなど、 官僚制と軍隊を兼ね備えた国家が形成されていく政治的な変化、さらに古典回帰を特徴とし原語による聖書研究を活性化していくル ネッサンスという文化的な変化です。こうした変化がプロテスタントの宗教改革を推進していく基盤となるわけです。

     たとえば政治的な変化は、フランスの国王フィリップ4世の「教皇のバビロン捕囚」の例にも見られるように、中世キ リスト教社会の教皇の権威を失墜させていくようにです。

     ともあれ、中世教会の権威や教会の腐敗に対して多くの批判が現実の動きとなっていきます。しかし、宗教改革の本質 は倫理的・道徳的な改革ではありません。それは教理的な改革であったのです。

     たとえばマルチン・ルターが「95か条の提題」で問題にしたのは次のようなことでした。功績による魂の救いを肯定 する免罪符への反対、聖母被昇天、聖母無限罪の解任という教理への反対、さらに教皇首位権への反対などです。そしてそもそ もこうした教理的な誤謬がどこから出てくるのか、信仰の権威の置き所を問題にしたわけです。

     こうしてカトリックとは区別されていくプロテスタントの信仰的な原理が確立されていきます。それは、教会でも 教皇でもなく、聖書にのみ権威を認めていき、その重要なメッセージを神の恵みと人間の信仰という部分でとらえていくという ものです。

     今週も聖書に教えていただくこととしましょう。また神の恵みを覚え、信じる一週とさせていただくこととしましょう。





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    2005年11月


    2005年11月06日

    「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。 (ヘブル10:35,36)」

    どの国にもその国固有の宗教儀式があるものです。そして儀式は退屈なようであれ、何かしらの意味というものがある。 ユダヤ人の祭儀儀式を説明しながら、ヘブルの著者はそれに優るイエスの十字架の恵みについて語るのです。イエスの恵みは永遠の 罪の赦しをもたらす物である、と。

     大切なのは、そういう文脈の流れで、次のことばを受け止めていくことです。 「もし私たちが真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえはもはや残されていません。 たださばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。」もし、文脈を無視してこのこと ばのみを受け止めていくと、何ともこの言葉の前に恐怖を感じてしまう方は多いのではないでしょうか。しかしここで、「罪を犯し 続ける」とヘブルの著者が語り念頭に抱いていることは、道徳的な罪を繰り返すということではありません。むしろキリストの十字 架の恵みを拒み続ける罪のことです。もし、「キリストにある罪の赦しを拒み続けるならば、罪のためのいけにえはもはや残されて いない」ということです。

     バプテスマを受けてクリスチャン生活をスタートしたその後に、大変な罪を犯したとしたら一体何回まで赦されるもので しょうか。一度だけであれば赦されると言った人がいます。しかしそういう考え方は馬鹿げています。一度赦されたらどうして二度、 三度は赦されないのでしょうか。神は悔いた心を受け入れられる、となれば、悔いてキリストの恵みによりすがり続けることこそが 求められているのです。

     ヘブルの著者は、そのようにキリストの恵みのすばらしさを強調し、受け入れることを促すと同時に、キリストの恵みに よりすがらなければならぬほどに、自分の劣等意識を感じている者に励ましを与えます。信仰を始めて持った時の、苦しみに耐えた 記憶を呼び覚ましなさいと。初めの愛に立ち返りなさい、ということでしょうか。そして自分自身のみならず必要の内にある人々を 思いやりなさい、また物を、つまりこの世のものにとらわれ続ける、思いを捨て去りなさい、そして神への最初の確信を持ち続けな さい、と。

     そのようにしっかりと神のものとして立っていくためには、私たちは、二つのことを心得なくてはならないことでしょう。 どんなことでもそうですが、安易な道によって勝利を得ることは出来ません。忍耐を働かせていく、ということです。そしてキリス トの恵みによりすがり、キリストのみ業が自身の内に必ずなされる、時を待つことです。そしてそのように神が必ず私の内に新しい いのちのみ業をなしてくださると信仰を働かせることです。忍耐と信仰、この二つによって、キリストの恵みが私たちの生活に表さ れていくことを今週も期待してまいりましょう



    2005年11月13日

    「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。 移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。 (ヘブル11:05)」

     信仰を難しく考える必要はありません。単純に子どものような素直な心で神を慕い求める、こういうことが大切です。 神はどんなに弱く細い信仰であれ、その成長を導かれますし、私たちの信仰のあり方に応じて私たちを守られるのです。 つまり、私たちの信仰は小さくとも、私たちが信仰の目によって見上げる神は偉大でなければなりません。彼は全知であり、 全能であり、そして偉大な御力を持ち、しかし、取るに足りないものに対する繊細さと慈しみに満ちたお方なのです。このような 神を見上げて生きた、三人の事例が取り上げられています。

    まずアベルの事例。カインとアベルそれぞれが神にささげものをささげ、 カインのささげものは拒まれたものの、アベルのささげものは受け入れられた、カインとアベルの違いは何であったのでしょう。 創世記4:4には、アベルが「初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で持ってきた」とあります。つまり、アベルには、 目に見えない神の御心を思いながら、ささげものをささげる心があったのです。そこにアベルの信仰の姿がありました。

    第二の事例はエノク。聖書はエノクが300年神とともに歩んだと証言しています。このことを取り上げてヘブルの著者は、 エノクを信仰の偉人と語る。考えてみればそうなのかもしれません。人々は偉業を成し遂げた人に注目したがります。しかし、 300年という息の長い人生を忠実に目に見えぬ神とともに歩むというのは、それこそ信仰を要することではないでしょうか。神から 私たちを遠ざけようとさせる世のさまざまな誘惑に屈せずに生きぬくことは、強靭な信仰なくしてありえない。それは決して平凡な 人生ではありえないのです。

    第三の事例はノアです。ノアの生涯は実に奇妙です。ただ神の声に聞きしたがって、世の人々の好奇の 目に晒されながら箱舟を作りあげていく。人々の嘲笑をものともせず、また結果を確かに感じ取ることもなく、ただひたすら、 神の青写真に沿って生きていくわけです。こういうことは信仰なくして確かにありえぬ生き方でしょう。

     このようにして三者三様でありながら、目に見えぬ神への信仰を持って彼らは生き抜く。神が確かにおられることと神は求める 者に報いてくださるお方であることを信じて生きていくわけです。私たちもまた、目に見えぬ神に新たな期待を抱いて歩ませてい ただくこととしましょう。



    2005年11月20日

    「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。 (ヘブル11:13)」

     信仰がなくては神に喜ばれることはできません。とあります。神は人格を持ったお方で、私たちの歩みを喜ばれるし、また悲し まれることもある。その歩みの中で一番お喜びになるのは、あれをしたこれをした、と何か神様のために功績を積み上げることよりも、 信仰を持つことなのです。それは神の存在を認め、神が私たちにとって常に最善をなす方である、ということを認めることに他なりません。 神ご自身を喜ぶことに他ならないからです。

     今日はアブラハムとサラの事例を見ます。アブラハムの信仰の特徴は、神のみことばを受け入れていく従順さにあります。 アブラハムは、神の御心の確かさを求めて何か奇跡的な保障を求めたりはしませんでした。もし、あなたの言う祝福は確かでしょうか、 証拠を見せてください、何かしるしを与えてください、そういう態度は取らなかったわけです。神に語られたことばをそのまま受け入れて、 人生を歩んでいくという態度です。

     そしてアブラハムは目的の地カナンにたどり着くわけですが、アブラハムはそこで足の踏み場ほどの土地を得ることもなかっ たとされます(使徒7:3−5)。ということは神様は約束を守られなかったのではないか、やはりアブラハムはしるしを求めるべきだった のではないか、ということにもなります。けれども、アブラハムは約束を霊的なこととしてとらえていた。アブラハムにとって神が約束 されたカナンの地は、目に見える地上の都ではなく天上の都であったわけです。(ヘブル12:18−19,22−24)。これは私たちにとっても 真実であり、私たちは天上の大祝会に向かって日々近づいている。こういう、神様の霊的な祝福を見る眼がないと、私たちの人生はどん どん世俗的な損得の事柄に埋没してしまいます。あくまでも地上的に祝福を受けることに執着し、地上的な変化の中で一喜一憂する人生 になりさがってしまいます。生まれてきた時のように、常に何も持たない者であるかのように、そして神とともにあることで一切のもの を得ているかのように、私たちの人生は守られていく必要があるのでしょう。

     次にサラの信仰の特徴は夫への従順にあります(Tペテロ3:6)。サラは夫の風変わりな人生観とその生涯に苛苛したり、八 つ当たりしたりせず、その信仰の歩みを共有したわけです。

     ともあれ、私たちはどのようなビジョンを持って生きているか。ビジョンと言うと、何らかの自己実現を考えやすい。この世 で何かの業績を上げることを考えやすい。しかし、アブラハムのビジョンは神がおられる天上の都に近づいていくことでした。それにふ さわしく整えられることでした。私たちもこうした信仰の模範に倣い、聖霊の助けによって、霊的なものをこそ追求し、渇望していくも のとさせていただきましょう。



    2005年11月27日

    「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。 これは型です。(ヘブル11:19)」

     試練には四つの段階があると言われます。まず「抑圧」のレベルと言うべきもの。原稿の締め切りなど、日常生活に有り触れたストレ スと感じてしまうものです。第二に「混乱」のレベルがあります。色々と、職場など様々な場で、不公正な人々による不公正な取り扱い を受けてしまう時に、私たちは混乱という試練の中を通らされてしまいます。第三に「迫害」身体的、精神的、社会的な苦痛を与えられ ていくもの。そして最後に最も厳しい試練が、「喪失」自分の最も大切なものを失う、というものです。

     アブラハムは、この最大の試練に直面し、信仰の模範を私たちに残しました。レベル4の試練においては、しばしばショック や幻滅感が生じるものでしょう。しかし、アブラハムはそのような試練をゆるぎない信仰によって乗り越えていくわけです。実際アブラ ハムは、神の命令に応答して即座に行動しました。またその行動は、確信を持った従順の行為でもありました。アブラハムは散々苦悶し、 歯軋りし、抵抗した後に、従ったわけではないのです。またアブラハムの信仰にはある種の明確な神観があります。つまり神様というの は、私たちに最善を持って応える方であるという神観です。何か素晴らしい約束をして、後で取り替えるようなお方ではありません。気 まぐれな愛し方をなさるようなお方でもありません。そして最後に、アブラハムの信仰は徹底していました。彼は逃げ道を用意するよう な従い方はしなかったのです。

     神は同じように私たちをも召しだし、試練を与えられることがあることでしょう。しかしいかなる試練であれ、私たちはアブラ ハムの例を覚えて、主の祝福は確かであり、また、確実であることを信じて行動する者でありたいものです。試練には必ず終わりがあり ます。私たちにはなかなか先を見通すことができず、信仰に立つことができないでいるものですが、それであるからこそ主に助けていた だくべく祈っていくことも大切なのでしょう。



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    2005年12月


    2005年12月04日

    「信仰によって、イサクは未来のことについて、ヤコブとエサウを祝福しました。(ヘブル11:20)」

     家庭の中に信仰が見られる、これは非常に重要なことと言わねばなりません。ヘブルの著者は、四つの家庭の事例をとりあげます。 イサク、ヤコブ、ヨセフ、そしてモーセです。

     イサクは、アブラハムの語った神の祝福をそのまま受け入れていった子でした。イサクは自分の子ヤコブにも同じように 神の祝福を伝えていく。財産など目に見える祝福ではなく、目に見えない、信仰の価値を伝えていくのです。またヤコブは、自分の 子ヨセフのみならず、孫のエフライムとマナセにも信仰の祝福を伝えていきます。十戒には、「神の祝福は千代に及ぶ」というくだ りがあります。実に、家族の中で信仰を持つことの意義は大きいものです。皆さんの中で祖母や祖父から信仰を受け継いだ、祈られ たという人は少ないかもしれません。しかし、皆さんが一代目となり、これから持つ子、すでに持っている子のために祈り、さらに、 孫の祝福またその子孫のための祈りをしておかしくはないのです。神は私たちの祈りを確かに聞かれるお方であり、一代目の信仰の 故に永遠に子孫を祝される方でもあるからです。

     またヨセフの例には、両親から子どもへ、あるいは祖父・祖母から孫へ、という信仰継承の話とは別のメッセージがあり ます。兄弟が兄弟と信仰を分かち合っている点です。信仰の深い本質を語り合う兄弟を持っていくことはとても大切なことです。兄 弟としての祝福が増し加えられるからです。

     最後のモーセの例は、異常な社会状況の中で、子どもの可能性を思い、なんとか守ろうとしていく。何とか生き延びさせ ようとしていく。そこに親の信仰の働きがあったというものです。そこでこの事例に私たちが啓発させられたいことは、クリスチャ ンはただ漠然と子どもを育てていては駄目だということです。神に反逆し堕落していく世の流れの中で純真な者として生き延びてい く、否もっと積極的に、地の塩となり、神の栄光を輝かしく証しする子どもとして逞しく生きていく、子どもにそんなビジョンを抱 いて祈り育て上げていくことが大切です。つまりクリスチャンの親は子どもに大いに期待していいですし、信仰を持って育てていく ことが大切なのです。

     また子どもというのは社会の子でありますから、自分に子があるなしにかかわらず、教会に来る子どもに大いに期待し、 信仰を持って一緒に育てていく、そんな心がけも持ちたいものです。教会という大家族の一員として今週も歩ませていただきましょう。



    2005年12月11日

    「 信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、 むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる 大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。(ヘブル11:24-26)」

    モーセから学びます。モーセは、パロの孫として王宮で育てられていきます。彼が道をあるけば、人々は皆ひれ伏して彼を見送り、 また、彼が欲すれば、何でも手に入るそのような環境の下で育ったということです。また彼はエジプトの最高の教育を受け、 実際に政治家、軍人として育っていきます。当時の時代背景を知るヨセフォスの歴史書には、彼がエジプトの軍隊を率いて エチオピア人の侵攻を食い止めたばかりか、その首都を占領したと伝えられています。

     このような栄華の最中にあり、名声と尊敬と地位を得ていたモーセですが、モーセはその中身はイスラエル人で あったことも確かでした。彼は自分のイスラエル人としてのアイデンティティと奴隷として酷使されるばかりか虐待を受けて いた同胞の苦しみに心を悩ませていきます。そしてモーセは、右のエジプトの栄華と安寧にとどまる道か、それとも左の労苦 多くとも目に見えぬ神の祝福を臨み見る道かの岐路に立たせられていきます。モーセはどのようにしてその決断をなしたこと でしょうか。

    第一に彼は慣れ親しんだものを離れる決意をしました。「はかない罪の楽しみ」を捨て去る決意をしていくのです。 彼を守るもの、彼を楽しませるもの、彼に安心感を与えていたもの、そういうものから離れる決意をしたのです。そういう決 断というのは、一種の気概がなくてはできません。また目に見えないビジョンを抱くことなくしてできません。26節の「思う」 と訳されたことばは、先のことを考える、熟慮の上でという意味があるとおりです。

     第二に彼は喜んでこれまでなきことに踏み出していくのです。これまで誰もみたことのないもの、誰も聞いたことの ないもの、そういうものに踏み出していく決断でした。ノアは水なき陸地に神の命によって船を作りました。アブラハムは子ど もが生まれる可能性の年齢になっても、神が約束の子を与えることを信じ続けました。玉川の教会もそういう意味では奇跡的な 建ち方をしました。道なきところに道を作っていく、信仰の歩みというのは、これまでなきことへの召しです。誰もやろうとし ないこと。誰も考えようともしないこと。しかし神がそのような事柄へと召されることがあるのです。

     私たちはどうしてもはかない罪の道を楽しむ誘惑にかられやすいものです。あえて冒険などはしたがらない。人のた めになるとわかっていても、リスクは犯したがらない。自分のことだけを考えやすい、自分の安楽さを考えやすいものです。そ うやってただ楽しい人生を送ってしまうだけということがあります。けれども、神はあなたを召しておられる。神様の大切な計 画に召しておられるのです。そこでモーセがいかにしたかを覚えたいものです。そして自分の信仰の弱さを告白し、主の道を選 び取ることができるように、主の助けを祈りましょう。



    2005年12月18日

    「信仰によって、人々が七日の間エリコの城の周囲を回ると、その城壁はくずれ落ちました。(ヘブル11:30)」

    人間は人間でありそれ以上のものではありません。頭のよしあしはあるかもしれません。あるいは運動能力の差というものがある。 けれども、人間の業というのはどこまでも人間の業であって、神の業になる、ということはない。ですから神は神であってそれ以下でも ない、ということができます。神の卓越性、至高性というのは強調しても強調しすぎることがない。そしてその神様はアブラハムの時代、 ダビデの時代と変わることもありませんし、その神様の私たちのへのかかわりもまた同じです。

    このようなことを踏まえて今日の箇所を 読むわけですが、ここには、三つの奇跡が出てまいります。第一に紅海が分かれてエジプト軍に追われたイスラエル人が脱出する道とな った、という奇跡。つぶやき、うろたえ、疑い、恐れ、指導者を非難するイスラエル人に神はかかわり、奇跡をもって介入されました。 次の奇跡は紅海での出来事の40年後のお話ですが、イスラエル人がヨルダン川を渡って約束の地に入った時の出来事です。彼らの前に城 門を硬く閉ざすエリコの町がありました。彼らはどのようにしてこの町を通り抜けてカナンの地へと向かったらよいのか、当時のイスラエ ル人は荒野を40年間さまよっていましたから、これといって軍事力というべきものもなかったわけです。彼らが取った方法は神の方法、 どんな軍隊の特殊部隊のマニュアルにもないような方法、城壁の周囲を毎日練り歩き、7日目に勝ち鬨の声をあげるというものでした。 しかしここにも神の介入があり軌跡が起こったわけです。そして最後の例はラハブという売春婦です。彼女は信仰の偉人としてたたえら れている。なぜか、イスラエル人がエリコを攻略する際に遣わしたイスラエル人のスパイをかくまった女性です。この女性は、イスラエ ルの神の偉大さを信じ、かくまっただけであった。しかしこの女性はそれだけの行為で、イスラエル人の殺戮の波を逃れ、さらに、イエ ス・キリストの系図に入れられ売春婦としではなく、王家の系図にある母親として記憶にとどめられるのです。

     これらの奇跡は博物館の展示物ではありません。彼らに介入した神は今なお私たちに介入されるお方である。そういう中で、 追撃してくるエジプト軍の前に恐怖におののいている者はいないだろうか?荒々しくあなたを踏み潰そうという人たちにへたり込んで いる人はいないだろうか。イスラエルを開放した神を呼び求めなさい。またあなたの前に頑なに心を閉ざす人々に悩んでいる方々はい ないだろうか。エリコの城壁を崩された神に助けを求めなさい。神の戦略にゆだねなさい。そして自分の人生がつぎはぎだらけで無価 値と思っている人はいないだろうか。遊女ラハブを救い出された神を信じなさい。

     神は今も後も変わることはないのです。お祈りいたしましょう。



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