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2004年01月
2004年1月1日
「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。(ヘブル6:1)」
「キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目指して進もうではありませんか」「進もう」に使われたギリシャ語はフェローメサ、ただ進むのではなくして力強く進んでいく、スポーツ選手が自己ベストをさらに乗り越えていくがごとく、信仰の道にも力を注いだ歩みが必要、ということです。成熟、あるいは完成とも訳されますが、クリスチャンとしての成熟、完成を目指して力を込めて進もう、というわけです。実際、絶えず信仰を究めていく気持ちのない信仰生活は、単なるお勤め、あるいは敬虔を装った日課に過ぎません。今年は、そういう意味で、習慣化・形式化されたかもしれない自分の信仰生活をよくよく振り返ってみたいわけです。
さて、当時のクリスチャンは次の三つのことをキリスト教の初歩と考えていました。第一に死んだ行いの悔い改めと神への信仰。罪からの悔い改めを繰り返すばかり、そういうことから一歩進もうというわけです。第二に洗いごとについての教えと手を置く儀式。バプテスマ式、あるいはバプテスマ志願者の穢れを取り去るための身の洗いを受ける儀式、であったと言われていますが、いずれにしても、入り口にいるのはやめようということでしょう。そして最後に死者の復活と永遠の裁き。人間は死んで土に返り終わりではありません。やがて神の裁きの座に立つのです。「ああ、これは大変だ」と思われるでしょうか。しかし、キリストが十字架で私たちの罪を償ってくださった事実を覚えましょう。キリストの故に私たちは裁かれることはないのです。この事実を受け入れることから先へと進まなければなりません。
こういう基礎的なところではなく、先へ先へと力強く進みなさい。信仰の高嶺へと登りつめていきなさい。ではその先とは何か。ヘブル人への手紙の先を読み進んでみますと、10章20節にそれらしいことがでてきます。「全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか」神に近づいていく、神の聖さ、神の愛、神の義に近づこうということでしょう。「しっかり希望を告白しようではありませんか」「そして互いに勧めあい、互いに励ましあう「互いに愛と善行を促しあう」「互いに集まりあう」なるほど、キリスト教の初歩というのは、自分の事柄を中心とするのです。そうではなくて、外に開かれた信仰の歩みをしていく。人を支え、人を励まし、人の力となり、人に教え、人の徳を建てる。今年は、教会が、また家庭が善意と善行により潤される場となりますように。お祈りいたしましょう。
2004年1月04日
こういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。(ガラテヤ3:9)
「十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきりと示されたのに」ここにいる私たちは、イエスの十字架の死を目撃したわけではありません。しかし、ガラテヤの人々は、目の前で一人の人が十字架で磔にされて、悶え、苦しみ、死んでいく様を目撃したわけです。それは、非常にショッキングな出来事である。しかも、彼らはイエスが何者であったかを知らされていたことでしょう。ローマの百人隊長が「この方はまことに神の子であった」と嘆息したように、イエスは、悪者どものとともに十字架につけられた正しい人であったことを彼らは認めていたはずです。そのイエスの十字架の死は何のためであったのか。それは、全人類の罪の赦しのためである、と聖書は語る。イエスの十字架の死を見つめながら、その聖書の証言にあなたはどう答えるのか、そこが大切な点です。
聖書の証言をはねのけ、イエスの十字架の死を無意味にするようなことがあってはなりません。それはパウロに言わせれば愚か者であり、間抜け者なのです。 さて、今年、私は教会で新年を過ごしました。教会の前のとおりを、新年はいつにもなくたくさんの人が往来するのに気づきました。近くの神社への初詣に行く人々の流れでした。そして逆方向へ行く人々の手には、札があり、矢があり、とそれを見て思ったわけです。今年も多くの人が幸せを念じておられるのだろう、と。しかし、多くの日本人は、その幸せをお金で買おうとするようなことをしている。家内安全、商売繁盛はお金で保障してもらう、と考えているのでしょうか。単なる習慣的な行動かもしれません。
しかし、聖書は、私たちの安全、祝福、平安は、お金で得るものではない。あるいは、物で交換するものでもない。あるいは何かの修行で見返りに受けるものでもない、ただイエスの十字架の苦しみを自分のものとして受け入れていくことによるのだ、と語っているのです。神の恵みを信じる信仰、これがキリスト教において大切なことなのです。
パウロは、言います。「キリストは、私たちのためにのろわれた者となった」と。そしてそれは、「アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためである」と。でそのアブラハムの祝福とは何かというと「あなたによってすべての国民が祝福される」ということばを取り上げているわけです。クリスチャンは祝福のもといとなる。自分が祝福されるにとどまらないのです。今年、この新しいビジョンにしっかりと歩むことにいたしましょう。
2004年1月11日
「 あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。(ガラテヤ3:26)」
ガラテヤ書の要点は、「救いというのは人間の功績によらず、神の十字架の恵みに基づくものである、十字架の御業に信頼することによって与えられるものである」ということにあります。
ところが、この福音の真理をユダヤ人は、素直に受け入れられなかったわけです。救いのためには、「やはり何かをしなくてはいけないのではないか」と。これはユダヤ人だけの問題ではありません。修行意識の強い日本人も同様の問題を抱えています。ことに日本人は自分の生活の出来事と信仰を単純に結びつけて考える傾向にあり、何か神に喜ばれることをすることが、自分の救いを完全にするのだ、と考えてしまいがちです。
しかし、神に喜ばれる、正しい生き方をしている人にも、悪いこと、思い通りにならない事は起こるものですし、神に喜ばれないのではないか、と思われるような生き方をしている人によい事ばかり、ということもあるものなのです。
救いというのは、私たちの行為や私たちの環境の状況と結びつくものではなく、常に神の約束に結びつくものなのです。
それでパウロは、アブラハムの例をあげます。アブラハムは、神の約束を得ました。ギリシャ語で、ディアセーケーというのは、遺言とも訳されることばです。ことに古代ギリシャでは、遺言は死後だれによっても変えることのできないものでした。神の約束も遺言のようなもので、アブラハムとキリストに対してなされた。アブラハムとキリストによってすべての人が祝福を受けるためである、というわけです。
しかし、それから430年たって、神はモーセとシナイ山において律法の契約を結ばれたではないか。「これを行えば祝福される」式の十戒というものです。あれは何なのか。
パウロは、言うのです。アブラハムとキリストに対する契約は、遺言であるから決して取り消されない。その後に結ばれた律法の契約が取って替わるわけではない。そこでなぜ律法が与えられたのか、といえば、それは違反を示すためなのだ、と。つまり律法というのは、私たちの罪深い現実をあばきたてるために与えられた。私たちの真の姿を映し出す心の鏡として与えられた。ただそれだけである。それは糾弾するものとして与えられており、決して命を与えるものではない。だから律法によっては絶対救われない、むしろ絶望へと追い込まれるだけである。ただ神はこれを私たちを追い詰めるためではなく、キリストの十字架の恵みを仰ぎ見させるために与えられたのだ、というわけです。律法を読みながら、それを行おうとするのではなくて、行えない自分を直視し、ますます神の助けと神による心の革命を待ち望むことが大切だ、というわけです。神の御前で無力さを感じておられる方はいないでしょうか。それは律法が働いている証拠です。そして律法は神の約束へ急ぎなさい、十字架の恵みを仰ぎ見なさい、と私たちに勧めるのです。
2004年1月18日
ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。(ガラテヤ4:9)」
私は自分の子育てを振りかえって、随分厳しく、叩いてしつけた、と思うところがあります。しかしいつでしたか、家内と子育てについてあれこれ話しながら「子どもというのは、怒られたというだけで結構身に応えているものじゃないか」と言われ、子どもの気持ちをあれこれ考えさせられたことがあります。そして手をあげることをしなくなったのです。
同じことを牧師・信徒の関係の中でも考えてみたことがあります。牧師になりたての頃、まだ20代の私はとかく口やかましい牧師であったな、と思い出します。それが今は、あまり口を出さない牧師になりました。なぜか。それは、信徒さんの欠点を冷ややかに批判的に見て苦々しく思いながら、言い出せないでいるのだろう、と誤解される方もいるかもしれませんが、そうではありません。むしろ、信徒さんは自分がどうあるべきかに本当は気づいて迷っているはず、よりよく変わりたいと思っているはず、その心の迷いに漂い、心情に寄り添い、主の祝福を共に深く祈り合って、受けていくことが、大切ではないか、と思うようになったからです。
律法が働くことで、私たちは罪意識にさらされます。律法は、私たちの罪を暴き立て、糾弾します。サタンは私たちを追い詰め、絶望を与えるために律法を用います。サタン的な人がいると、私たちは窮地に立たせられるものです。けれども、神はイエスの十字架の恵みを仰がせるために律法を用いられる。つまり神は、いつも私たちの心情に寄り添って、私たちを罪の深みから救い出そうとされている。そこで神の力を体験して、絶えず心に新しい命を感じて、変えられて生きていく、これがクリスチャンです。
私たちは、キリストを受け入れることで神の子とされる。そして神の子とされた者に神は御霊を遣わされる、と聖書は言います。神の子としての生活を体験するための聖霊です。御霊の働きなく、ただ信仰と教会に関する教理と規則を守るだけの形式的・機械的な信仰、あるいは、束縛された命なき偽善的信仰、どれも私たちにふさわしくありません。主にある生きた信仰生活を歩ませていただきたいものです。
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2004年02月 2004年2月1日
「お願いです。兄弟たち。私のようになってください。私もあなたがたのようになったのですから。(ガラテヤ4:12)」
「私にようになってください」このことばを読みながら、パウロのように語るなど、なかなかできたものではない、そう思っていた時代があったものです。しかしながら、よくよく注意深く文脈に沿って読んでみますと、この箇所は、「私のように立派に生きてください、人の模範になってください、非の打ち所のない人間になってください」と言っているわけではないのです。むしろ、価値のない罪人の塊であるような自分自身を意識しつつ、そんな自分に与えられる神の恵みに信頼して、日々強められる道を歩む、そんな歩みをみなにして欲しい、ということなのです。つまり、神によりすがる、ということにおいて、「私のようになってください」ということです。
キリスト教信仰というのは、行いではありません。水の行、火の行により、何かを掴み取るようなものではありません。私はクリスチャンになどなれない、あるいは、私はクリスチャンとして失格である、そういう風に思わされるような人こそ、パウロのように、罪人を見捨てず罪人に寄り添い、罪人を新しくされていく神の恵みによりすがっていただきたいのです。
クリスチャンになる、ということは、非の打ち所のない人間になる、ということではない。これだけは皆さんによくわかっていただきたい。そうではなく、ますます神の恵みによりすがり、神の恵みに生かされていく、あるいは、神の力に新しい者とされていく、そういうものです。神の命を経験する、ということが大切なのです。それなくして、ただ自分をキリスト教倫理的な生き方に縛り付けるならば、いずれ窒息しそうな気持ちになるに違いないのです。クリスチャン生活が重荷になるに違いないのです。
さて、パウロは、「あなたがたのために産みの苦しみをしています」とあります。子が生まれるために、母親はどんな努力をするでしょうか。健康を気遣ったり、栄養を考えたりすることでしょう。しかし、子は自らの命において成長し、その命は神によって祝福されるのです。母は子を案じながら、祈りつつ、子が無事に生まれることを待ち望むことでしょう。同様に、牧師であるパウロは、信徒たちのために熱心に祈る。彼らが体裁を整えて立派になるというのではなくて、彼らの成長を案じながら、彼らが真に神の命にふれて、その命によって成長し、真の神の子として成長し、実を結ぶことを祈るのです。
このような牧師の心と一つとなる信徒さんがたくさん増やされていく、私はそのことを願っています。教会に集う一人一人が、神の命に触れて新しくされ、円熟した聖徒とされていく、そのことのためにともに祈る者たちが多くある教会は、幸いなことではないでしょうか。
2004年2月8日
「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい(ガラテヤ5:1)」
ガラテヤ書の5章からいよいよ実践的な内容になっていきます。1節。パウロは、「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました」と述べます。つまり、キリスト教というのは解放の宗教、自由を得させる宗教である、とパウロは理解しているのです。クリスチャンになるということは、自由になること、解放されることである、そういう感覚を持つことが非常に大切です。
では、何からの自由なのか、というと、前後の文脈が教えますことは、律法から自由にされること、律法を守れないことの罪意識から解放される、ということなのです。
ある人は、キリスト教を戒律的な宗教と考えています。そして戒律的な生き方ができないことに、苦しんでいるということがあります。自分はクリスチャンらしくなれない!と。しかし、そういう悩みというのは、キリストの死を無駄にする悩みなのです。キリストは、律法の呪いから私たちを解放するために十字架にかかられたのではありませんか。
ある人が「自分の罪は絶対に赦されない!」と自分の過去の様々な罪に固執したことがあります。なるほど、その内容は、確かにひどいものでした。しかし、私はそこでキリストの十字架の苦しみを話したわけです。キリストがそのあなたのすべての罪のために、否、これから犯すかもしれない一切の罪のために苦しんでくださったのだ、と。そしてその苦しみがどのようなものであったか、をつぶさにお話しました。肉が裂かれる無制限の鞭打ち、そして鞭でぼろぼろになった背中に十字架の横木を負ってだらだらと続く坂道をゴルゴダへ向かっていったこと、そして十字架に磔にされた苦しみ、その一つ一つが、あなたの罪の赦しのためであった、と聖書は語っている。とすれば、「私の罪は絶対に赦されない」と言い張ることは、結局、そのイエスの苦しみじゃ足りないってことじゃないか、と聞いてみたわけです。その人は悔い改めて、イエスの罪の赦しを受け入れました。
神は一切の罪意識から、一切の責めから、キリストによって私たちを解放してくださった。私たちはキリストにあって、恐れなく裁きの座に立つことができることを確信しなくてはなりません。キリストにあって、赦されている、またその赦されている恵みに生きる者でなくてはならないのです。
2004年2月15日
「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい(ガラテヤ5:13)」
私たちは自由の社会に生きています。私たちは自分に与えられた時間についても、お金についても、また才能についても、また命についても、束縛される、コントロールされるというような状況にはありません。ですから、私たちはその自由さを快く思うところがあります。かつての戦争の時代やあるいは内乱の最中にある国々のことを思えば、そのような自由を確保された時代に今生きていることは大変ありがたいことなのですが、実際のところは、そういう自由さ、気ままさ、快適さに、まだまだ満足できないでいることがあるのではないでしょうか。そのような時代の中で、私たちはもっと自分の生活が良くなることを求めていますし、そのために時間が足りない、お金が足りない、才能が足りない、とあくせくしている、ことがあるように思います。それはまさに、聖書が語るように、自由を自分の肉の欲が働く機会としている、ことなのでしょう。
しかしそれは不思議なことではありません。クリスチャンは「救われた」と自分の救いを過去形で語る癖がありますが、実際には、まだまだ罪の深みの中に絡め取られながら生きている現実があることを忘れてはならないのです。フロイト的に言うならば、無意識のレベルにまで、罪の性質は根付いているわけです。ですから、罪というものがわかった。じゃ、その罪を捨てようといっても、そう簡単にはいきません。また、口では聖書のみことばが示すとおりに、神と人を愛するとは言っても、実際には、神も人も愛していない、何よりも自分だけを愛して、自分の肉の心を満足させようとしている、ということがあるものです。
けれども、クリスチャンはいつまでも罪の奴隷でいるわけではありません。いつまでも自由を肉の欲の働く時として自分に許しているわけではありません。クリスチャンというのは、自分が自由に召されていることを覚えて、その自由を「愛を持って互いに仕えあうように」と決意している人のことを言うのです。その決意は三日坊主でも、画餅にもなりえません。というのは、私たちを変えてくださる聖霊の力があるからです。聖霊の力に信頼するのがクリスチャンです。ですから聖霊の力によって真に自由な者へと導いていただくこととしましょう。そしてその証を通して、多くの人々をキリストに勝ち取ることといたしましょう。
2004年2月29日
「もし、私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。(ガラテヤ5:25)」
クリスチャンが自由に召されているというのは、もちろん、世俗的な意味で自由に召されている、ということではありません。何でも好きなようにできる、思い通りにできる、ということではありません。それは、あらゆる選択肢がありながらも、適切に正しい選択をしていくことのできる自由に置かれている、ということでした。
回心の前に私たちにあった自由は、罪を犯す自由であり、罪を犯さない自由、というものではなかったわけです。欲望に突き動かされると私たちはそれをどうすることもできないでいたものです。そして、自制を欠いた放縦に陥ることがしばしばで、本当の意味で自由を持った人間ではありえなかったわけです。聖書はそのような肉の行いにふけっていては、決して神の国に入ることはできない、と語る。
しかし信仰告白をしバプテスマを受けてクリスチャンになったとしても、性、宗教、人間関係、飲酒と四つの領域で、私たちは肉の行いにふけてしまうことがあるものです。自由に召されているはずなのに、自由ではない。肉の思いに押しつぶされて、肉の奴隷になってしまっている、ということがあります。
それは、本当に救われていないということなのか。そうではありません。聖書ははっきりと肉との戦いがクリスチャンの人生にはある、と語るのです。人それぞれが信仰的な戦いを持っているのだ、ということをはっきりと自覚しなくてはなりません。そしてその肉との戦いに勝利をしていかなくてはならない、と語るのです。勝利をして、神に対しては愛、喜び、平安を持ち、他人に対しては寛容、親切、善意を持っていく、そして自分自身に対しては誠実、柔和、自制というものを持っていくことが大切だ、というわけです。
それは、どのようにしてなされるのか。御霊に導かれることによるのです。今日のクリスチャンの弱さは、この御霊に導かれる生活を生きていくことです。朝から晩まで仕事に明け暮れて、聖書を開くのは日曜日の礼拝だけ、これでは、御霊に導かれる生き方などできようがありません。プロテスタントの信仰は、御霊はみことばとともに働く、と考えますから、どこかでゆっくりとみことばを食む、つまり聖書を丹念に読みながら、神と語り合う時、御霊と交わる時が必要です。そういうことなしに、今日の一日というものを始めていないだろうか。そういうことなしに、重大な決断をしている、ということはないだろうか。御霊に導かれて歩む、このことを覚えて、みことばにまず向かう一週間を歩ませていただきましょう。
up
2004年03月 2004年03月07日
兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。(ガラテヤ6:1)
人間が信仰を持つなど、当たり前のことであるし、だからそれは生活に結びついたものである、私はそう考えています。ですから、イエス・キリストを信じた、救われた、といったならば、その人の生活がどうなるか、ということが、きわめて重要なことになります。救われるというのは、キリスト教の教理がすらすら言えるようになる、教会の戦力としてたくさんの奉仕ができるようになる、ということではありません。個人的な生活そのものが変えられていくこと、神に対しては愛、喜び、平安、人に対しては寛容、親切、善意、自分に対しては誠実、柔和、自制、といった美徳を持つ生活のゆえに、神の素晴らしさが生活を通して証されていくことです。
クリスチャンは基本的に自分もそうであるが、他人も救われた罪人なのだ、ということを自覚しなくてはなりません。バプテスマを受けて救われた、と言っても明日から天使になるわけではありません。クリスチャン生活10年、20年続けたところで、天使になるわけではないのです。どこまでも救われた罪人でありながら、昨日の自分よりは変えられた自分がある、という生き方をしていくのが、クリスチャンです。
ですから他人の弱さよりも自分の弱さを自覚できるか否かが、その人のクリスチャンとしての成長を大きく決めることになるのです。たとえば人を批判しやすい、自分に気づいている人は、そういうところを変えられていくということに、なるのです。
ところで、人の欠点はどうしても気になるものでしょうし、それを正す必要を迫られることもあることでしょう。そういう場合にどうするか。実は現代の教会はこういうところで非常に混乱している部分があると思います。人を正そうとして、ただ言いたいことを言い放って、出て行って終わり、こういうことは、この世の世界だけのことでありたいものですが、残念なことに教会の中でも起こるのです。人を正そうとする人は少なくとも三つのことを心得なくてはなりません。第一に、柔和さを尽くす心構えが必要です。言うべきことははっきりといいながら、そのようにできるようになるまでは、その子のペースに合わせるということです。そういう柔和さを尽くす心がけを持たずに、言いたいだけものを言っていることはないでしょうか。第二に、自分の弱さも覚えることです。人に要求することは自分にも要求されます。自分がそういう要求をされたら、どうだろうか、そういう思慮深さを欠いた批判は、ただ人を痛めつけるだけです。そして最後に重荷を負い合う気持ちなくして人を正すことはできません。別訳聖書には、「煩わしい道徳上の失敗を負う」と訳されています。「あなたのこういうところが悪い、だから変えたらよいです」と口にするのは簡単です。しかしことばで正されていく人などまずいません。牧師の恥は信徒の恥、信徒の失敗は牧師の失敗、この牧師(信徒)と一緒に生きていくのだ、命運を共にするのだ、と言う覚悟と態度が、人を変えていくのです。
人を変える前にまず自分が変わる。そして、頭の中だけの信仰ではなく、生活そのものが証となる信仰へと日々歩ませていただきましょう。
2004年03月14日
「 思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。(ガラテヤ6:7)」
「種を蒔けばその刈り取りもすることになる」これはよくわかりきったことです。よい意味でも悪い意味でも、私たちは蒔いたものを刈り取ることになります。
パウロは、この簡単な原則を信仰の領域に適用するように勧めています。みことばを教える人とみことばを教えられる人が互いによい種を、教会の場という畑に蒔き、よいものを刈り取ろうということです。みことばを教える人は、最良のみことばの糧を、またみことばを教えられる人は、最良の奉仕を、教会の場で実践していく、そのようにしてお互いが建て上げられる場となっていったら、すばらしいものです。
次に8節。よい種か否かのポイントは御霊のために蒔くものであるか否かにある、といえます。「思いを蒔けば行為を刈り取り、行為を蒔けば習慣を刈り取り、習慣を蒔けば性格を刈り取り、性格を蒔けば運命を刈り取る」と言われます。私たちはいつもどういう思いを心に蒔いているかに注意しなくてはなりません。肉の種か、御霊の種か。とにかく蒔き続けるものが、私たちの習慣となり、性格となり、運命となるのです。あなたは、自分の心のために、御霊の思い、つまり神に対しては愛、喜び、平安、他人に対しては寛容、親切、善意、自分に対しては、誠実、柔和、自制を蒔いていますか。それとも、肉の思い、不品行、汚れ、敵意、争い、憤り、ねたみを蒔いていますか。
心によい種を蒔き続けましょう。蒔き続けられないと思うようなことがあっても、蒔き続けるのです。物事にはだんだん嫌になってしまう、飽いてしまう、ということがあります。また不本意に傷つけられて、怒って投げ出したくなるようなこともあるでしょう。しかし、辛抱強く、そういう時を乗り越えることで、実を刈り取ることになるものです。成功する秘訣は止めないことです。教会や社会で辛抱強く善を行い続けるならば、必ずよい結果が生まれます。今週も私たちに最善の結果を導いてくださる、主を信頼してまいりましょう。
2004年03月28日
「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。(ガラテヤ6:15)」
パウロが最後に強調するのは、キリストの十字架です。それは神を畏れればこそのことであり、キリストの十字架に私たちの信仰のすべてが始まるからです。
あなたはなぜキリスト教を信じたのか、と問われ、「私はその信仰を気に入ったからだ」、とどこか自分の心の動機に重きがあるならば、それは割礼を拠り所として信仰を誇った当時の人々と変わるところがありません。同様にこれだけのささげものをしている、これだけ一生懸命祈っている、という自分の業を拠り所としてキリスト教に救いを見出しているならば、当時の割礼派の人々となんら変わらないのです。
なぜキリスト教を信じるのか、それはキリストの十字架が私たちの心を捉えたからです。キリストの十字架にあらわされた、深い神の愛を知ったからです。そしてこの神が私たちに命を与え、常に、私たちの人生にかかわり創造のみ業をなしてくださる、ということへ信頼する心が与えられたからです。
ある方々はキリスト教信仰を持つことについて、大変な考え違いをしています。キリスト教信仰を持つというのは、熱心に集会に通うことであり、喜んで奉仕ができるようになることであり、あれをしない、これをしない、という節制にたけた生き方をすること、と考えています。何かの基準に自分を縛り付け、体裁を整えることに、神経を尖らせ生きています。そういう信仰生活、教会生活では、やがて疲れ果ててしまい、躓いてしまうであろうことは、目に見えています。
内面的、霊的な成長が伴わず、ただ外面的な部分を整えることに心を砕く、それは神の恵みに生きるキリスト教信仰とは異なるものです。神の創造のみ業が、心の内に味われてこそ、信仰生活、教会生活も大きく変わっていくのです。神に対する喜びと愛、他人に対する慈善と親切、また自分に対する自制が、神の創造のみ業として心の内に芽生え、育まれてこそ、毎週休まず礼拝に集うことも、多くの奉仕に自分自身をささげることも、喜びと感謝の生活習慣となっていくのです。
ですから、もし、自分に何か欠けている行動があるならば、そのために、まず、その行動を装うことではなくて、そうできない自分自身を神の前に素直に告白し、神の力を求めて祈ることでしょう。そして「私の心だ、きよくなれ」と主に語られ、新しい行動が自らの内に形作られる、という主の創造の業に与ることが、大切なのです。
教会において罪人であること、自分の罪が曝け出されることは、少しも恥ずかしいことではありません。お互いが同じ課題を負っているのですから、あるがままを認め合い、受け入れあい、祈りあうこと、そして神の創造のみ業を互いに受けていくことが、大切にされなくてはなりません。
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2004年04月
2004年04月04日
「どうか、私たちの主イエス・キリストであり、私たちの父なる神である方、すなわち、私たちを愛し、恵によって永遠の慰めとすばらしい望みとを与えてくだった方ご自身が、あらゆる良いわざとことばとに進むよう、あなたがたの心を慰め、強めてくださいますように。(Uテサロニケ2:16,17)」
私たちの教会は、14年の歩みをへて、今日の会堂に落ち着きました。それまでに、様々なところを、私たちは通らされましたが、それによって、信仰とは何であり、また、キリストにある愛というのは何であるかを様々に教えられたところがあります。色々とありましたが、大きな流れで考えてみれば、感謝な歩みであったと思います。
ところで、この1年で、私たちの教会は、ずいぶんと人数が増えました。これもまた感謝なことですが、やはりそれぞれ色々な背景の中で、信仰を持ち集まってきたところもあります。そういう意味では、私たちは今年一年、お互いに教会のために何ができるか、教会のために皆であれをしよう、これをしよう、と何かすることを考えるよりも、どういう信仰と信仰実践に立つかということで、それぞれが聖書から教えられていくことを考えたいのです。言わば「行動するよりも聴くこと」を大事にし、互いに力強く教会を建てあげるために、一致したものを持っていくことを大切にしたい。
そこで私は皆さんに、今年は何よりもそれぞれが聖書を丹念に読み、聖書信仰に深められていく、ということをお勧めしたい。聖書信仰を理解し、実践する、というところなくして、ただ「自分のよかれと思う事柄を」を教会のためあるいは、ほかの兄弟姉妹のため、としてしまうと、結局、フィードバックに弱さをもった自己中心、自己満足の歩みをしてしまいかねません。そして私たちが14年の過去の歩みの中で幾度も経験したような混乱を味わいかねません。
私たちの教会は、もうすでに14年の歴史があるわけですが、考えてみれば、昨年ここの会堂に移り、新しい歩みをスタートさせているわけですから、それは、全く新しい歴史をこれから築いていくようなものなのです。そこで、この新しい歩みを祝福されたものとするためにも、私たちは聖書信仰を教えられていく、そして一致していく、ということを何よりも大事にしたい、と思わされております。そして聖書信仰のかなめは、やはり、神の命に触れていく、ということです。日々、みことばを通じて、神の十字架の励ましと慰めを味わっていく。神ご自身を味わっていく。そこから自然によいわざとことばが出てくる。それによって教会の歩みも祝福されていく、という形で、この一年の歩みを進めさせていただくことといたしましょう。
2004年04月11日
「そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。(ルカ24:32)」
今年もイースターを迎えます。クリスチャンにとっては、何よりも喜ばしい月ではないでしょうか。私どもは、イエスの復活を歴史的事実とし、その復活に希望を抱く、福音的な信仰に立つものですから、イースターの日を迎えることは、私たちの信仰の歩みに大変力づけと励ましをいただくところがあります。そもそも、イースターというのは、イエス様が復活なさったその日を祝うものでありますが、イエス様は、日曜日ごとに復活のご自身を弟子たちにあらわされたということから、キリスト教の安息日は、日曜日に変更された、という経緯があります。それまでユダヤ人は土曜日に安息日を守っており、ユダヤ教は今でもそうなのですが、キリスト教は、日曜ごとに、イエスにお会いすることを弟子たちが楽しみとし、集まりあったことから、日曜日に安息日が固定していったというわけで、これが確かなところであろう、と私は思っています。
ともあれ、日曜ごとにイエスにお会いすることを楽しみとして集まった、それが私たちの礼拝の意義でもあります。日曜ごとに、主にお会いする。そういう思いで、礼拝に集っているかどうかです。よく初めて教会を訪問されるような方は、私のような俗人でも、教会にお邪魔してよろしいんでしょうか、と聞いてくる方がいるんですが、その人に、何かしら神様を求める気持ちがあれば、たとえその程度がそんなに深くないとしても、それは、弟子たちと同じ心がけであったのではないか、と思います。
礼拝には、神様にお会いしにくる。神様の力を受けに、神様の語り賭けを受けに、そして慰められる、励まされる、ということ以上に、エマオの途上の弟子たちがそうであったように、「心燃やされる」ということのために、教会に足を運ぶということが大切であるように思われます。
だんだん、歳をとりますと、ぶすぶすと燃えにくい自分になっていることを感じさせられることがあります。若い人々のようにパチパチとはいかない自分がいることを感じさせられることがあります。しかし、今一度、神の前に静まり、神の声に耳を傾け、深く瞑想し、心の奥底から燃やされていきたい。そして弟子たちが「使徒の働き」に書かれた歴史を刻んだように、主の大いなる宣教の業へと進ませていただきたいものです。
2004年04月18日
私はギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。(ローマ1:14)」 本日よりローマ書から教えられていくこととします。1章の前半で、パウロは、自分が福音の恵に触れると同時に、福音を証する働きに召された、と告白しております。大切なのは、ローマの信仰者に向かって、同様にあなたがたも、その働きに召されているのだ、と語りかけているところです。クリスチャンになる、ということは、神の恵みを受けるだけではありません。あらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらす働きへと召されることでもある。自分は、神の恵みを受けるだけの人間で、それ以上のことはできそうもない、と思われる人は多いことでしょう。しかし、どんなに自分が小さい者である、力ない者であると思わされることがあっても、聖書は、あなたがたはイエス・キリストに召された者である、と語るのです。大切なのは、自分が召されたということを覚えて、その召しにふさわしく整えられていくことでしょう。育てられていく、ということなのです。
そのようにパウロは、ローマの人々を同労者として見なし、語りかける中で、福音の恵と福音を伝えることを、共に分かち合いたいと願うわけです。その動機は何か。二つあります。第一に負い目がある、ということです。確かに自分の人生を振り返ると、多くの人々の隠れた自分に対する愛と支援がなければ、今の自分がなかったことに気づかされます。その逆に、自分がこれまでいかに多くの人々に迷惑をかけ、傷つけ、ぶち壊してきたか、自らの罪の深さに気づかされます。つまり返せるものではありませんが返さなくてはならない負債を負っているのです。そしてそれらの負債を私たちの代わりに先払いしてくださった、といのがイエスの十字架であれば、私たちはイエスに返さなくてはならない負債を負っている、ということにもなる。そして第二、パウロは福音が神の力であることを確信し、そこに動機付けられています。確かに、自分自身の歩みを振り返っても、福音がなければ、今の生活はなかったように思います。ただただ自分中心の行き方が続いてきたことでありましょう。しかし、そういう生き方への振り返りと、脱却と、前進を考え、それが導かれるのは、福音があるが故、神の力があるが故ではないか、と思わされるのです。
私たちはそのように神の恵みに与りつつ、この恵を人々に広く知らしめるために召されている。信仰の働き人としてあることを、覚えさせて歩ませていただきましょう。
2004年04月23日
その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。
キリストを信じる者には永遠のいのちが与えられる。聖書が語ることは明快です。そして永遠のいのちというのは、ただ単に長い命ではない。ヨハネ17:3節は、それを明確に語っているわけです。「唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです」と。
神とキリストを知ることが、永遠のいのちである。多くのクリスチャンは、この「知る」ということについて「伝聞知識」で終わっている。神は愛である、神は備えられる、神は守られる、いつも説教でそのように聞かされているので、わかったつもりになっている。けれども実際に体験はしていない、ということがある。「体験知識」になっていないことがあります。しかし、神を味わう、神を体験する、ということなくして、キリスト教信仰を喜ぶ、教会生活を楽しむ、ということはありえません。
私は牧師になる前は、国家公務員として給料をいただきながら生活していました。それが、何の保障もなくゼロから教会を建て上げる牧師の生活に飛び込んで14年、その生活感覚の落差に最初は随分と戸惑ったものです。牧師という働きは、聖書のことばを教える、信者さんの悩みを聞く、ま色々な言い方ができても、結局は、生活を通して神は生きておられる、だから備えられる、支えられる、ということを伝え知らせていくことにあるように思います。
で、私自身もそうした生活に関する事柄も含め、様々な意味で窮することがたびたびありました。そこでただ神にのみ必要を訴え祈り続けるわけです。若い時には、人間的にも未熟でありますから、そうした苦労と心配と焦りが、そのまま顔に滲み出てしまうことを防ぐこともできずにいました。結局それは神を知らないでいる、という状況のあらわれに過ぎないのですが。しかし、そのような苦労を重ねる中で、神のお取り扱いと恵みとあわれみを受け、私は、神が確かに生きておられ、必要を満たされるお方であることを確信する機会を与えられ続けてきました。そこで、私はお勧めするわけです。神を聞き知っているというのではなく、味わう、確かに体験していくということを。そしてぜひ、苦しいことつらいことを大切にしていただきたい。そのことをとおして神を味わう、神を確かに知る、という歩みへと導いていただくことができるからです。
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2004年05月 2004年05月02日
「患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行うすべての者の上に下り、栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行うすべての者の上にあります。神にえこひいきなどはないからです。(ローマ2:9-11)」
義人というのは信仰を大事にする人である。けれども、実際的に信仰を大事にして生きている人というのは、少ないのではないでしょうか。
日本の宗教人口は、全人口の約30%と言われますが、その多くは新興宗教の信者さんです。またその信仰の持ち方も、その殆どはご利益絡みで、人間が人間らしく生きるとか神の正しさの中に生きる、といったことを求めているものではありません。
ともあれパウロは、この2章から、神の正しさを求める生き方へと一人一人を招くために、本題に入っていくのです。その初めに人類の罪について語ります。罪をわからずにしてキリスト教信仰はわかりえません。
聖書が語る罪は、18節に要約されます。つまり、神を信じないこと、それ自体が罪である。そのように神を認めないがゆえに、人間は神の正しさの基準を知ることもなく、的外れで不道徳な生き方をしている、というわけです。28節以降はその具体的なリストです。それらを見ていくと決して、私たちに無関係なことではない。程度の違いはあれ、どこか、思い当たるものがあるのではないでしょうか。あの行為、この行為というのではなく、あの思い、この思いと考えてみたい。実際、人間の正しさというのは、心の正しさです。目に見えない神がご覧になっておられる部分は、私たちの外見的な行為というよりも内面の状態です。心の底にねたみがないか、人をそしる思いがないか、です。私たちが心においてどのように生きているか、しみやしわや傷のない生き方をしているか、が問題なのです。確かに私たちは、私たちの心を覆い隠すこの体や声、またこの表情を天国に持っていくことはできません。天国では、私たちの心は丸裸にされてしまう。
そのように考えていきますと、私たちには、罪のゆるしと聖めが必要である、ということになるのではないでしょうか。キリストにある罪の赦しとキリストの復活の力を必要とするのではないでしょうか。
だれでもキリストを呼び求めるものは救われる、とあります。キリストを呼び求め、キリストに私たちの心の罪を正直に告白し、私たちを心のそこから変えてくださるキリストに信頼して、今週も歩ませていただきましょう。
2004年05月09日
「女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか」(ルカ15:8)
河野勇一師特別説教
イエスは、人を「物」ではなく、「お金」にたとえています。ここには、大切なメッセージがある。物は使用価値を持つものですから、古くなれば価値が下がります。しかし、お金はそうではありません。お金は、古くなっても、擦り切れても、くしゃくしゃになっても、その価値は最初から決まった通りのもので、決して変わることがありません。絶対価値を持つものです。イエスは、神の目から見れば人はそのようなものである、と見ているわけです。私たちの人間的な価値というのは、また外見によらず、行為によらず、それは決して変わることがありません。
次に、お金の価値というのは、使用者の手にあって発揮される、というところがあります。お金は落とされて、失われてしまったら、せっかく持っているその価値を発揮することができません。聖書は人間がそのような状況にある。神から離れて、その価値を失っている状況にある、ということを語っているわけです。そしてその状況を罪と呼んでいる。罪人というのは神から離れてしまった人間のことです。そのために何のために生きているかわからない状況にあることです。
そんな状況にある人間は、何とか自分の価値を高めようとする。自分が生きていてよいのだと確認するために、死ぬほど働くということをするのです。「箔をつける」という言い方がありますが、一生懸命自分を磨こうとする。しかしどんなに箔をつけても空しい、ということが起こります。
そのような人間が神の元に帰るにはどうしたらよいのか。お金は自分から持ち主のところに戻ることはできません。持ち主が探すことによってのみ持ち主の手に戻ることができます。実は神様はそのようにして私たちを探してくださっている。大切なのはじっとしていて、神の救いを受け入れることです。神を求めてじたばたする、ということではだめなのです。神の呼びかけに素直に応じていく。それによって私たちは神の元に帰ることができますし、真に私たちに与えられた価値を発揮することにもなるのです。
2004年05月16日
なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。(ローマ3:20)
パウロは、1章において異邦人(ユダヤ人以外の人々)が罪人であることを断じ、2章においてユダヤ人もまた同様であることを断じます。そのようにして、全人類が、神の前に罪人である、とするのです。3章は引き続きその延長線上のお話です。「義人はいない。ひとりもいない」万人が神の前に罪ある者である、とパウロは、人間の現実について触れます。
とはいっても、確かに、いい人、悪い人という人間的な差というものはあるのではないでしょうか。すべての人が罪人である、と同列に置かれるのはなかなか納得のできないことでしょう。
しかし、こう考えてみてはどうでしょうか。東京のど真ん中に住んでいると、高いビル、低いビル、その差ははっきりとわかります。町によって高いビルが密集しているところ、比較的低い建物、あるいは一軒家が立ち並んでいるところ、そういう違いはあります。それは、たとえてみれば、人間の道徳的な差にも言えることでしょう。あのビルはこのビルよりも低い、高いと、その差はやはり歴然としている、ということです。しかし、そこに群を抜いた高さのビルが一つあったらどうなるか。仮に1億階建てのビルがあったらどうなるか、30階だの100階だのといったビルは、どんぐりの背いくらべになってしまうのではないでしょうか。
人間の義は、他人の義と比較すれば確かに外見的に差があることでしょう。しかし、そこに群を抜いて、はるか及びがたい、神の義を持ち込んだらどうでしょうか。神の義と競うことのできる義を持ち合わせている、と自分の義を誇る者など誰一人いないことでしょう。誰もが神の義の前に、自分自身は足りない者である、否それ以上に、自分が義とすることも、外見だけであって、内面においてはあまりにも貧しく、恥ずかしく、ただ罪人と言われる他ない、と謙虚にさせられるのではないでしょうか。
そのような私たちに、ご自身の義を与えてくださる、と語られる。内面における義しさ、というものを与えてくださる、と語られる。これは感謝であると同時に、これまでの人生で聞いたこともないことです。学校教育ではこういことは教えてくれません。人間として正しい生き方をするように、とは語られても、神が恵みとして、心の義しさを与えてくれる、と教えてくれるのは、聖書を開く教会だけです。主の教会に集い、この驚くき知らせに、耳を傾けてみる価値があるのではないでしょうか。
2004年05月23日
ただ神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。(ローマ3:24)
追善供養(法要)というものがあります。私たち日本人は、昔から、こういう宗教儀式に親しんできたんですが、何のためになされているのかは、あまりよく知らずにいたりすることがあります。
そもそも『十王経』によれば、人は他界した後、十の冥界を次々と引き回されて十の裁断を受けると教えています。よく知られている閻魔大王というのは、五番目の裁断を担当しているわけですが、死後裁きを受ける発想は、どうもキリスト教も仏教も同じような部分があります。
ところでこの追善供養というのは、この十の裁きの日に、亡者が冥福を得るようにと、遺族が地上で応援することである、というのです。まだ次の生が決定していない死者のため、遺族は仏事を盛んに行い供養する。ですから、死んだ人がカミとなって祖霊に帰一するまでの33年間、しっかり行なわなくてはならないものなのです。
さらに言えば、仏教は死んだ人のよりよい成仏のためにこの「追善供養」に加え、生前の「逆修」が大切である、と教える。それは「追善供養」の何倍もの功徳をもたらすものとして、生前に自らの仏事を修するものだ、というわけです。
死後の裁きを「追善供養」と「逆修」で乗り切る、これが仏教の考えであるとすれば、キリスト教は、死後の裁きは、「信仰」で乗り切る、というところに特色がある。同じ死後の裁きを語りながら、その乗り越え方は全く違う。仏教もキリスト教も同じとは言えないのは、こういうところなのです。
パウロが語るのは、私たち、一人一人が神の前に立たせられることにおいて、私たちが、神に義と認められる者でありうるか、ということです。その人が、もし、キリストの十字架を自身の罪の赦しのためであり、キリストに命があると、信じるならば、神はそのことをその人の義とみなすという。その人が生前にどんな功徳を積んだか、あるいは遺族がどんな功徳のための供養をしたか、という、いわゆるその人の行いとは関係なく、その人自身の神の前にあっての信仰告白に基づいて、神はその人を受け入れられる、とされる。
小林秀雄は「男は四十を過ぎたら死に支度をせよ」と言いました。小林の意図とは違うかもしれませんが、いつでも神にお会いできる備えをする時に私も至り、「信仰による義」の意義を新たに共に思わされてまいりたいところです。
2004年05月31日
そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう」(使徒2:38)
イエスは、十字架前夜、弟子たちに聖霊の賜物について約束されました。それは、不安な心持の弟子たちの気持ちを和らげることばであったことでしょう。イエスはその後、十字架にかかり、三日目によみがえり、40日間にわたってご自身の復活の姿を示されたとあります。そして昇天される時に、イエスは再び聖霊の賜物の約束をなさるわけです。
約束の賜物を待ち続け、祈り合っていた弟子たちに、その約束のものが与えられた、それがペンテコステの出来事でした。ペンテコステは、教会に聖霊が約束どおり下された、その祝福を覚える特別な機会である、といえます。
そしてこの聖霊が働くことによって、何が起こったか。言って見れば、聖霊は、三つのしるし(響き、炎のような舌、他国語)を伴う、かなり度派手な登場の仕方をしています。しかし大切なのは、その奇跡よりも、その奇跡によって注意がひきつけられ、世界中の国々から集まっていた人々に対して、彼らがわかることばで福音が明瞭に語られた、ということです。聖霊が働くことによって、福音が広く大胆に証しされた、ということです。聖霊の働きはイエスの御業を証しすることにあります。そういう意味で、聖霊の働きを求める教会は、宣教の使命を強く推し進める教会である、とも言えるのではないでしょうか。私は所属団体の世界宣教担当理事になってから、いかにして世界宣教を推し進めるかということを、あれこれ考える時が多くなりました。玉川の教会の牧師としては、いかに地域に福音を広く浸透させていくか、ということを考えます。あらゆる立場であらゆる福音の広がりの方略を考えさせられています。しかしそれらを実際に推し進めるのは、聖霊の働きによるものでしょう。そういう意味で、皆さんと共に聖霊の働きを求めて祈ってまいりたいところです。
また聖霊が働くことにより、悔い改めが促され、救われ、バプテスマを受けル人々が起こされました。伝道は、聖霊のみ業です。私たちの努力を超えた働きです。そのような意味で、教会に足を運ぶ、一人一人が聖霊に取り扱われ、真に、神を見出し、神と共に歩む歩みへと導かれていくことが大切です。そのようにして聖霊が働き、クリスチャンとされた人々が起こされてこそ教会が組織されるのです。教会は人が集まれば、それでよいのではありません。聖霊のみ業によって新しい命を受けた者たちが集まり、その恵をさらに伝え知らせよう、とする人たちの集まりなのです。
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2004年05月 2004年06月06日
「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。(ローマ4:5)」
パウロは、神は恵みの神である、と語ります。具体的にパウロは、仕事の例をあげます。仕事で給与をもらうのは、提供した労働力にふさわしい対価を得た、ということです。しかし、神が与えられる祝福というのは、そういうものではありません。それは恵として与えられる。働きにふさわしくない対価として与えられる部分がある。
パウロはその具体例としてダビデの例をあげています。この詩篇はバテシェバの出来事を背景としています。王の権威に物を言わせ、人妻を横取りにし、さらにその夫を前線で戦死させるようにしむけた、卑劣な行為の後で、ダビデは自分の罪の大きさに気づき、悔い改めるわけです。いかに悔い改めたとしても、その行為は決して赦せないものではないでしょうか。このような人間を天国に迎え入れるなど、考えられない。しかし、神はその悔い改めを受け入れ、ダビデを赦し、ダビデとの交わりを回復するわけです。
神の恵みというのはそういうものです。ふさわしい対価としてではなく、ふさわしくない対価として、「何の働きもない者が、不敬虔な者」が義と認められるようなところがある。
パウロは、アブラハムの事例からさらにこのことを説明しようとします。当時のユダヤ人は、神に義と認められ神の祝福を受けるには、「割礼」と呼ばれる儀式とモーセによって与えられた「律法」の戒めきちんと守ることにある、と考えていたわけです。ところがユダヤ人の最も尊敬するアブラハムは、「割礼」と「律法」をどのように守っていたのか。彼が祝福の約束を受けたのは、「割礼」を守り「律法」を守ったからであるのか、というとそうではないわけです。アブラハムは祝福の約束を受けてから14年たった後に「割礼」の儀式を受けるわけです。またモーセの「律法」はアブラハムの死後430年たってのものでした。つまりアブラハムは、「割礼」や「律法」とは無関係に神との祝福の関係に入れられている。では、その祝福の関係は何によって得られたのか、というと信仰です。どこまでも最善を約束される神を信頼する信仰によっていたのです。実際、アブラハムは祝福の約束を受けながら、その実現を長くじらされました。しかし、約束を疑いたくなるような状況の中で、アブラハムは、ますます神を信頼するわけです。
主の約束を受けるのに必要なことは、あれをする、これをする、ということではありません。どこまでも神を信頼する、ということが大切です。そしてもう少しはっきり言えば、私たちは神を信頼することで神の恵みに与り、心満たされるところから、あれをする、これをする、ということを考えていくことが大切です。神の恵みを深く経験する、尽きぬ喜びと感謝に突き動かされるところから奉仕をし、ささげものをしていくことが大切ではないでしょうか。
2004年06月13日
「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです(ローマ5:5)」
信仰によって義と認められる、ということの中身は、三つあります。第一に神との平和を持つ。第二に神の恵みに与る、そして神の栄光を望み喜ぶということです。
通常、私たちは神ののろいを受けている、神の怒りにさらされている、などとは考えないことでしょう。しかし、実は神の激しい怒りにさらされているのであり、イエスの十字架の犠牲が、その神の怒りを取り除いた、という現実があるのです。今、私たちはイエスにあって神と和解し、神との平和を持っているのです。また、それは神が私たちの何か、業績や実践に応えてそうしてくださったというのではない。一方的な恵の行為としてなされているわけです。つまり神の恵みに与っている。そして最後に、私たちは、その神様のすばらしさを味わっているわけですから、そのすばらしさがますますあらわされるように望み喜ぶという思いを抱いている。それが伝道という形で結実するわけです。伝道の本質というのは、神の栄光を望み喜ぶ行為です。
クリスチャンになって何が変わるか、というと、神様が私たちの生活の中心に置かれる、そしてそこから私たちの時間の使い方にしろ、お金の使い方にしろ、生活のあり方が変えられていく、ということです。
次に、「患難を喜ぶ」とあります。患難というのは、特別な苦しみを意味することばです。新約聖書では、終末、世の終わりの大患難やイエスの十字架の苦しみを言い表す時に使うことば。それに匹敵する精神的な苦しみを言い表す時に使うことばです。
パウロがこの時思い浮かべていた患難は、具体的にUコリント11:23以下に書かれていたこと。そこにはさぞ大変だっただろう、と思われることが、いくつも列挙されている。こういう苦しみの中で痛みと悲しみの中で喜ぶ、というわけです。でも、本当に喜べますか?悲しみの最中に喜ぶことができますか?
私は思うのです。悲しい時は悲しめばよい。クリスチャンはいつも喜んでいるべきだから、と悲しい時にも悲しいそぶりを見せずに、元気に笑顔をつくらなくちゃ、そんなことはありません。しかし、大切なのは、クリスチャンは基本的には全能の神を信じる楽天主義者なのですから、悲しみの中で、悲しみに終わるわけではない、この先がある、この先には神の祝福がある、と信仰的で楽天的な見通しを立てる。それゆえに心を落ち着かせられ、平安を持つことができたとしたら、それは患難を喜ぶ、ということになるでしょう。
最後に、苦しい時、悲しい時というのは、私たちは往々にして自分を攻め立ててしまうことがあります。自分の育ちが悪い、頭が悪い、顔が悪い、性格が悪い、信仰が悪い、そもそも不敬虔である、こんなんだから自分は浮かばれないのだ、と。しかし、神はそういう気持ちを否定せずにこう語るのです。イエスが死んだのは、あなたがまだ「弱い者」であった時、「不敬虔な者」「罪人」「敵」であった時である。そこに神の愛が表されているのだ、と。神にあなたは愛されている。神はあなたのためにも、必ず働いてくださいます。その信仰に立たせていただいて、今週も歩ませていただきましょう。
2004年06月28日
「愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています」
神のすばらしいご性質について今日は教えられてまいりましょう。まず第一に神は愛です。常に神は、私たちに最善を尽くすお方です。二番のもの、どうでもよいものを、私たちに与えられる、ということはありません。しかし、私たちはその愛を感じられないで悩んでいることがあります。
それは、私たちの神の愛に対する先入観があまりにも強いためであることがあります。私たちは自分の望むような愛情表現がなされていないので、神は自分を愛してくれてはいないのだ、と感じてしまうのです。しかし、神の愛は、十字架においてはっきりと示されました。その十字架の愛は、今なお変わらず私たちとともにあるのです。クリスチャンは、十字架を通して神を知っている、といえるでしょう。十字架に基づいてさらなる神様の愛とご配慮に信頼を置く人のことです。
第二の神のご性質は、全知です。それは神のみこころは常に最善である、ということです。神はありとあらゆる状況を知り抜いておられる、私たちの思いがまったく及ばないあらゆる状況を神は知っておられる。そういう中で、神は私たちを今ある状況におかれている、と言えます。私たちはしばしば袋小路に迷い込んだと思うようなことがあると、神を見上げることを忘れてしまいます。しかし、神はあえて、すべてを知りながらそのような状況に私たちを導いておられることを忘れてはなりません。神のなさることは常に最善なのですから、何か窮することがあってもそれで終わることはないのです。どんなことにも神の続きがある、私たちの思いの及ばぬ神のご計画と意図がある。神のなさることの奥深さ、計画の大きさ、広がりというものを決して忘れてはならないのです。
最後に神は全能というすばらしいご性質をもっておられる。つまり、神はご自身の御心を成し遂げる力を持っておられ、その力を私たちに与えられる、ということです。ですからもし、困難におかれることがありましても、決して落胆してはなりません。勝利は必ずもたらされるのですから、むしろどんなことにも腐ることなく、つぶやくこともなく、素直できれいな心で立ち向かっていくことが大切です。しばしば人は難しい状況で、どんどん心が擦れてしまうことがある。しかし、後でよきに転じて恥じるようなこと、信仰のない結末を見るようではだめなのです。いついかなるときも、神を親愛し、祈りつつ、自分自身を汚すことなく、清らかな歩みをすることが大切です。
私たちが信じていることは、神は愛であり、全知であり、全能である、ということです。それは言い換えれば、私たちが伝えるべき神が愛であり、全知であり、全能である、ということでもあるのです。
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2004年07月 2004年07月04日
「私たちはキリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです(ローマ6:4)」
少しテトスへの手紙についてお話します。この時テトスは、教会に対する異端的な教えの影響に悩んでいたようです。これに対するパウロの方針は、異端に真正面から対抗せよ、というのではなく、むしろ健康な考え方を持ったリーダーをたくさん育て、各集会にそのリーダーをどんどん配置せよ、というものでした。そこでさらにパウロは、リーダーが、教会でどのようなことに注意すべきかを、いくつかの対象に分けて教えていくわけです。高齢者の男性、女性、若い婦人、青年、指導者、そして労働者というように。それぞれ、語られていることは内面的信仰的なものです。青年には思慮深くあるように、という一点が大切にされている。教会のリーダーは、青年に対して思慮深くあるように導くことが大切だ、というわけです。
ともあれ、こうしたことは牧師だけがわかっていればよい、牧師が口すっぱくして教えていけばよい、というのではなく、教会全体の共通理解として、教会の中に育てられていくということが大切なのでしょう。教会全体が、高齢者の男性にとっては自制、つつしみということが大事、高齢者の女性にとっては敬虔とよいことを教えるというあり方が大事、というように、それぞれの対象について、教会が大事にするあり方について共通理解があり、またそういうことを大切にする雰囲気ができている、またそういうことを求めてお互いに祈りあっている、ということなのです。
現代の教会は、ただ行事をこなすこと、人を集めることに忙しかったりすることがあるものです。しかし、大事なのは、ちゃんと教会を訪れる人の心に向かい合っていくということです。そしてその心を霊的な目標に向かって導いていくということです。それは牧師だけにできることではありません。教会にそういう雰囲気と共通理解がなくては、できないことなのです。
さて、ローマ6章から少しお話しておきます。バプテスマのことについて書かれています。バプテスマは、一つにはお葬式。古い自分にさよならを言う。そういう時です。二つ目に誕生式。バプテスマを受けて、すぐ奉仕をはじめてしまうようなクリスチャンは、しばしば、形だけ育ってしまうことがあります。生まれたての赤ちゃんだって、家事のお手伝いはしない。まずはお母さんの腕に抱かれて愛情をたくさん受けるんです。同じように、バプテスマを受けてクリスチャンになったら、まず最初にしなくてはいけないのは、神様の恵みによってすくすく成長することです。そのために「みことばの乳(Tペテロ2:2)」をたくさん飲むことです。三つ目に結婚式。いつまでも神様と一緒に歩んでいく、そういう決心をする時です。
バプテスマを受ける時には、この三つのことをやはりしっかりと考えて、決心していただきたい。中にはあまりよく考えなかった、という人もいるかもしれません。しかし、それは問題ではありません。そのために正餐式があると考えればよい。自分の不足を悔い改めて、神の恵みに再び新しくやろうと決心し、それが許される時が与えられているわけです。主の恵によって強くなりましょう
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2004年08月 2004年08月01日
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています(ローマ08:28)
イエス・キリストが私たちのためにしてくださったのは、二つのこと、罪の赦しと新しい命を与えてくださったことです。イエスは、ご自身の命を犠牲にして、私たちのために罪の赦しを得させ、神と和解させてくださった。私たちは神とともに歩む新しい人生へと入れられたわけです。そして同時に、イエスは私たちに新しい命を与えてくださった。
命というのは、育つものです。このことをよくわからなくてはなりません。教会学校の子供たちが、階段脇にアイビーを植えてくれました。いわば殺風景で無機質な空間に命が与えられ、これまでとは違った光景となりました。これを大事に大事に育てていったら、きっと階段脇はこれまでともっと違った雰囲気になっていくことでしょう。同様に「私の、何のよいものをも生み出さぬこのこころにも命が与えられた」、としっかり自覚する人は、それを大切に育てることでしょう。命というのは、そんなに目に見えて成長するものではありませんが、確実に成長するものです。そのために、私たちがすべきことは、常に「御霊に従うことを願い、御霊に属することをひたすら考えることです(5節)。」
さて「御霊によって生きる(からだの行いを殺す)」とありますが、難しく考える必要はありません。御霊によって、というのは、神の力によって、ということと同義であり、それは、私たちのあり方からすれば、神の力に信頼して、つまり信頼の祈りを通して、ということです。絶えず祈りつつ、御霊に属することをひたすら考え、御霊の歩みへと導かれていく。それは言い換えれば、私たちがキリストに与えられた救いを完成する、ということと他ならないのです。
そういう意味で、「すべてが益となり(28節)」というのは、私たちの救いの完成のためにすべてが益となり、ということであることを、私たちはもう一度深く理解し直さなくてはなりません。「すべてが益となり」というので、「自分たちの思うとおりのことが起こらなくても、やがては自分たちの思うとおりになるのだ」と、この箇所を自分の思いを中心にご利益的に理解してしまうことがあります。しかしそうではありません。この箇所で中心になるのは、神のみこころ、すなわち私たちの救いの完成ということです。そのために、神はすべてのことを働かせて益としてくださる、ということです。
信仰の歩みにおいて、まず、自分の救いの完成、ということを、第一に考えることができたならば、と思わされます。というも、私たちに必要なものは、神様がすべてご存知であり、私たちの救いの完成のために大切な命を与えてくださった神は、そうした必要にも応えてくださらないはずがないからです。第一にすべきものを第一とし、今週も主の前に立つに恥ずかしくない歩みをさせていただきましょう。
2004年08月15日
「私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。(ローマ9:2)」
パウロは、「大きな悲しみがあり、絶えず痛みが心にある」と告白しています。それは、ユダヤ人同胞の救いを願う悲しみであり、痛みです。このようなパウロの心に触れて、私は、深く祈り求めさせられるところがあります。やはりパウロと同様に、純真に隣人の救いを願い、悲しみ、痛む。そのような心で日々、伝道牧会の業に励んでまいりたい、と。救われていない家族に対する祈り、救われていない友人・知人に対する祈り、こういうものをもっともっと重ねてまいりたい、そのように思うのです。
さて、パウロは、この9章からいわゆるユダヤ人問題について触れます。救いというのは、その昔からユダヤ人のものでした。アブラハムをはじめ、モーセの時代、そしてイエスの時代へと、常に救いはユダヤ人に対して語られていたのです。イエスが死んだのもユダヤ人のため。ところがその当のユダヤ人がこれを退けたわけです。そして十字架の恵に与ることができずにいる。なんということか。神のご計画は失敗したのか、という疑問がありました。
これに対して、パウロはいささか回りくどい説明をしながら、失敗ではなく、神のご計画であることを諭すのです。
第一に神は選ばれる神である。神は人をお選びになる方であることを説明します。この世の中に現金な人間は実に多いのかもしれません。自分に役立つこと、いわゆる自分に対する損得を考えて物事を選ぶ、そういうことはよくあることです。しかし、神が人を選ばれるのは、そのようなものではありません。神はご自身の祝福としての約束の力が十全に現される者をお選びになる、つまりあえて弱い者、見捨てられた者をお選びになるのです。それはつまるところ、救いが人間の願いや努力、行為によるものとならないためです。救いが徹底して、神の側の業、神のあわれみの業としてなされるためです。
しかし、ある者にとってこのことはなかなか理解しがたいことでしょう。神の救いをなかなか受けようとしない現実があります。しかし、その現実のゆえに、第一に、神の恵みがほかの人々にもたらされていくのです。ユダヤ人に対する神のご計画は、失敗ではなく奥深いご計画の実現のためでした。そして第二に、そのかたくなさに、神の豊かな寛容が十全にあらわされる。神はかたくなさに屈しているわけでも、あきれているわけでも、見捨てているわけでもありません。どこまでも、その人自らが悔い改めてくるのを待っておられるのです。そして最後に、そのかたくなさのおろかさに、人は気づかねばなりません。異邦人は十字架による救いを素直に受け入れました。それは彼らの生活になんら誇るところがなかったからです。しかしユダヤ人が十字架を愚かとして退けたのは、自分たちの生活に誇るところがあったからです。自分たちは、あんな罪深い異邦人のような低俗な人間ではない、とうぬぼれるところがあったからです。そうして彼らは十字架につまずきました。しかし、十字架につまずかない者は幸いです。十字架に信頼する者は、決して失望させられることがないからです。
2004年08月22日
「わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です(ヨハネ4:34)」
神のみこころを行うということは、よく言われることですが、本日はこれを改めて考えてみたい。まず神のみこころを行うということに、私たちがどれほど心を傾けているか、関心を向けているかということを振り返ってみたいわけです。久々に郷里に帰りましたら、両親は健在でありながら、さすがに歳を重ねている、と感じさせられるところがありました。正直なところ、日に日に衰えていく両親に心を配りもせず、遠く離れたところで自分の世界に没頭している様を反省させられました。両親のことを心配していないわけではないし、心配している思いはあるのですが、心配すべきことを心配していないことがあった、と思わされました。神のみこころを思うことにも、そういう点があるので はないでしょうか。
次に私たちは、神のみこころを考える時に「自分に向けられた神のみこころは何か」と考える癖があるものでしょう。霊的なことばを使いながら、「自分に」と付け足すところに、実は神のことよりも自分のことを第一に考えている矛盾が含まれていることがあるのです。そもそも神のみこころは、広く全人類に向けられたものです。その広がりの中に、小さな私も置かれているに過ぎません。神と私のつながりだけで神のみこころを考えるのはどこか思い違いをしています。神と世界のつながりの中で、神とあの人、この人とのつながり、という広い広がりの中で、神のみこころというものを思い巡らしていく心が大切です。
そこで最後に、私たちはその大きな神のみこころの全体像を知り尽くすことができない、ということをわきまえなくてはなりません。私たちはそのほんの一端を担うだけのことですし、知らされるという部分があります。たとえば合理的で自立心の強い私たちは道に迷った時に地図があればよいと考えます。全体像がわかっていれば、自分のなすべきこともわかり、後は自由にやれると。
しかし、神のみこころは一人が勝手に動いて何かをなせる、というものではないわけです。全体のつながりがあり、動きがあるからです。ですから、たとえば神は私たちが道に迷った時に、地図を与えてみこころを示すのではなく、ナビゲーションを与えられるお方なのです。今夏妻の郷里に一人で帰りました時、私は道に迷いなかなか目的地にたどり着くことができませんでした。近くのコンビニで買った地図は最近の区画整理のために地名が変更し役立たずでした。観念して義父に迎えに来てもらった私は、義父の車を見失わないようにと、混雑した道をついていきようやく目的地にたどり着きました。神のみこころの示され方もそのような所があります。神は全体を示されず、日々自分について来なさい、と語られます。つまり日々神を見失わないでついていくことが「神のみこころを知り、行う」ということに他ならないのです。神のみこころを行うというのはとてつもない将来計画を知らされ、それを実行するということではありません。日々神をしっかり見つめてついていくこと、そこができているかどうか、ということなのです。
2004年08月29日
「私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです(ローマ9:1)」
今日は自分自身にいくつかの問いかけをしてまいりたい。まず第一に、私たちは、パウロのごとく、「人々が救われることを神に願い求めているであろうか」ということ。いつもどんなことを神に願い求めているであろうか。「人々が」という部分にどのような方々のイメージが浮かぶであろうか。人の救いについてこそ、まず祈り求めるものでありたい。
第二に、私たちはまことの知識に基づいて宗教に熱心であろうか。パウロはユダヤ人は宗教に熱心であるが、その熱心は知識に基づいたものではない、と語っている。具体的に彼らは神の義ではなく自分の義を立てようとしている、と。私たちも熱心ではあるのはよいとしてどのような知識に基づいて熱心さを持っているのであろうか。それは神の義を立てようとするものであるのか、いわば神のなさったことに重きを置く熱心さであろうか。もちろん神のなさった こと、というのは、十字架のこと、十字架において私たちの罪を赦し受け入れてくださった、ということです。そこを大事にして、証していく信仰であるかどうか。しかしながらユダヤの人々は神の義よりも自分の義を重んじたわけで す。いわば、これだけのことをしている、あれだけのことをしている、そうやって自分の誇りを積み上げるような信仰をしていたわけです。結果的に栄光を受けるのは神ではなく自分です。自分が認められること、自分が尊ばれること、そのことのために神がいて宗教がある。それは本当の知識にもとづいた信仰ではないということです。
第三に告白する信仰でありうるか。自分が信じていることをしっかりと告白している信仰であろうか。ここで言う告白はバプテスマのことです。バプテスマというのは、自分が心において神を信じた、ということを自他共に認める大切な機会です。そのようにして社会の中で自分の信仰を証ししていく信仰であるのだろうか。
そして最後に、私たちは主の御名を宣べ伝える歩みをしているであろうか。先日ある方に聖書の話をする機会がありました。いろいろな話を知っている。しかし信仰を持っているわけではない。すべて小学校の時に聖書を読んで覚えている話だといいます。なるほど、これほど聖書を知っていて、あとは聖書の意味を丁寧に教えてあげればよい人というもいるものだな、と思いました。 「イエスは、見よ畑は色づいて刈入れるばかりになっている」と語りました。日本の伝道は難しいといいますが、意外にも収穫の機会は訪れているのでしょう。私たちが福音を語らないからこそ、収穫できないでいる、ということがあるのでしょう。主の福音を語り伝え、主の教会を完成させていく、というビジョンにしっかりとたって今週も歩ませていただくことにしましょう。
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2004年09月 2004年09月05日
「夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか(ローマ13:12)」
先日はイエスが私たちのとりなしてであることをお話しました。それは天国だけに関することでしょうか。私たちがやがて神の御前に立つ時に、イエスは私たちを待っておられ、御父にとりなされる。この人は罪を悔い改め、十字架 の罪の赦しと恵みを受けた人です、と。そのイエスのとりなしによって私たちは御国に迎え入れられるのです。では今の世においてはどうなのか。今の世においても、イエスのとりなしはなされているのです。ヘブルの著者はこう語ります。「キリストはいつも生きていて彼らのため(ご自分によって神に近づく人々)に、とりなしをしておられるのです(7:25)」
私たちは日々祈ります。私たちは祈っていることが確かに御父に届いていることをどこで信するのでしょうか。イエスのとりなしがある、という聖書のことばによらず、確信を得ようとしたら、私たちは自分の祈りの熱心さにそれを求めるほかありません。どのぐらい祈ったか、どれだけ苦しんだか、そういうことに求めるほかはないのです。しかし、聖書は、私たちの祈りは、イエスによって御父に確かにとりなされている、と断言するのです。この人の祈りを父 を聞いてください。彼は悔い改めて、全くあなたに信頼している人です、と。このように、あなたの祈りは聞かれている。確かに御父の胸にとどめられているのです。幸いなるかな。
次に、パウロは、私たちに「夜はふけ昼は近づいた」と語ります。夜がふければふけるほどに時間的には確実に、昼に近づいている。この世の世界は夜にたとえられる世界です。社会は闇に覆われているとすら言いうる。酩酊、遊興、淫乱、争い、ねたみ、聖書が指摘するような状況が深まっている。しかし、それは同時に神が与えられる祝福である天の御国も近づいている、ということです。そこで問題なのは、私たちは、神の御前に立つその時に、胸張って出ることができるか、それとも神の救いの祝福にいれられていながらも闇の子として歩んだ自分の歩みを恥じ入りながら立つことになるのか。いずれでしょうか。昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。
2004年09月12日
「今も恵の選びによって残された者がいます(ローマ11:05)」
パウロは、神の救いを拒否したユダヤ人の問題をとりあげています。彼らに救いの余地はないのか。神もまた彼らを捨て去ってしまったのか。パウロは、列王記のエリヤの物語を取り上げ、この疑問に答えます。エリヤが預言者であった時代は、イスラエルの暗黒時代。王のアハブは、まことの神を礼拝せず、異教の国の偶像を拝み、それはイスラエルの民も同様でした。さらに王妃イゼベルはイスラエルの預言者を嫌い、これを捕らえては次々と殺したわけです。エリヤは自分ただ一人だけが逃れて生き残った、と語っています。そういう状況の中で、彼は神を語ることの難しさどころか、空しさと、苦しさを覚えていたことでしょう。彼は大変落胆しきっていたのです。そんな彼に神は「(今のあなたには予測もつ かないだろうけれども)神を信じるように残された者がいるのだ」と慰めのことばを語るのです。
パウロはそのことばを取り上げ、十字架のイエスのご性質を明確にしながら「恵の選びによって残された者がいます」と語りかけます。「恵の選び」ということは「行いの選び」ではないということです。つまりその人がどんな人間であるとか、どんな業績を残したとか、どんな活躍をしているとか、そんなこととは関係がなく、ただ神のあわれみと恵によって選ばれ、残されている者がいる、というのです。
私たちは福音宣教において、宣教のしやすさということを考えます。ある程度、必要なこともあることでしょうが、宣教は恵の業である、ということをもう一度考える必要があります。つまり、「あの人はだめ、この人もだめ、ああ自分の周りには神を信じるような人は誰もいない」と決め付けていることはありませんか。
エリヤの目には何の信仰の可能性も見えませんでした。ところが神の目には信仰する者が起こされることが見えていました。その違いは、人間の行いに注目するか、神の恵みに注目するかの違いです。
人はただ神の恵みによって救われるのです。弱い人間が、罪深い人間が、神に敵対する人間が、神のおおいなる恵みによって救いに招かれるのです。私たちもそのような視点をもって伝道に出て行くならば、どのような人々に対しても忍耐づよく神の恵みのことばを語り続けるようになるのではないでしょうか。あの人が救われるか救われないかは、ただ神の恵みによるのです。
そして考えてみれば、自分たちも同じように神の恵みによって救いに入れられている。この事実を踏まえて謙遜にならなくては、恵を強調する伝道はできません。神の賜物と召命とは変わらないとあります。神の救いのご計画と意思に変わりはありません。しかし、ある人は救いに導かれ、ある人はなかなか、ということがあります。そういう人は神に捨てられたのか、というとそうではない。神の知恵と知識との富は計り知れず、神ご自身のタイムテーブルとご計画の中で、神は常にその方に働きかけているのです。信仰を持って語り続けることとしましょう。
2004年09月19日
「あなたがたのからだを神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です(ローマ12:01)」
ローマ12章から、いよいよ、実践的な内容に入ってまいります。その第一に、パウロは「あなたがたのからだを聖い、生きた供え物としてささげる」ことを勧める。この勧めを受けて私たちはどのようにするのでしょうか。色々と考えながらも結局は、私たちが何か持っているものを一生懸命磨いて、神様に喜んでいただく、あるいは私たちに付随する財力や何かをささげて神様に喜んでいただく、そんなことをしてしまうのではないでしょうか。
しかしそれで本当に私たちは、「神に受け入れられる、聖い、生きた供え物として」となれるのかを考えなくてはなりません。私たちはどんなに背伸びしてみてもそんなささげものにはなれない、というのが事実ではないでしょうか。
そこで考えました。気づいたことは、「神に受け入れられる、聖い、生きた供え物」になれるのはイエス・キリストの十字架以外にはないではないか、ということです。つまり、私たちが神に受け入れられる聖い、生きた供え物となるためには、イエス・キリストとともに自分をささげなくてはならない。イエス・キリストの十字架の血潮によって聖められた、洗われた自分、真に十字架の前に悔い改めた自分をおささげしていく、十字架と共に歩む自分をおささげしていく、ということをおいて他にはないわけです。
そういう意味では、日々、悔い改めと刷新の歩みをしていくこと、これが大事なのであって、それが礼拝の核心であり、そのような礼拝的な毎日を歩むことが大切だ、とパウロは言うわけです。しっかりとみことばを格闘しながら生きているかどうか、私たちは問われるのではないでしょうか。
その上でパウロは、2節、「この世と調子を合わせるな」と語ります。これは、原語で読むと、この世の鋳型にかたどられるな、という意味です。夏の暑いところにチョコレートが置かれていますと、溶けて形が変わってしまいます。同じようにこの世の様々な価値や、感覚に熱せられて、私たちも容易に変わりやすい部分がある。いつも、そういう私たちの罪の性質に気づいている必要がある。いやむしろ、パウロが後半で進めるように、私たちは前向きに、私たちのあり方を変えていく必要がある。
「変えなさい」と新改訳では、能動的な訳をしておりますが、言語では、「変えられ続けなさい」という意味あいがあります。つまり「変え続ける」という進行していくイメージ、そして「変えられる」という受身的なイメージが大切です。私たちは、自分で自分を変えるのではない、日々聖霊の導きにより、聖霊の助けにより変えられていくのです。そして絶えず絶えず、栄光から栄光へと主の似姿に似せられた歩みへと導かれていく。他人と比較してではなく、自分のうちに進歩があるか、それを今週の課題としてまいりましょう。
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2004年10月 2004年10月03日
「あなたがたのからだを神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です(ローマ12:01)」
信仰の弱い人、という言い方がされています。具体的には、食べ物や日への拘りがある人、今の時代に合わせて適用すれば、クリスチャンはこうあらねばならぬ、ということへの拘りの強い人ということでしょうか。しかし、パウロがここで問題にしているのは、弱い人よりも自称強い人のことです。人の弱さを裁いてしまう。そういう人を締め出してしまう、強さの問題です。
強い人の問題を要約すれば、一つは、信仰的で霊的な愛情に満ちたまなざしがない、ということです。あの人はだめであると切り捨ててしまうあり方。しかし、どんなに弱い人であれ、「主が立たせてくださる」そういう物の見方がクリスチャンにはできなくてはなりません。二つ目には、人を裁くことは神の領域であることを忘れた、高ぶりの問題です。教会では問題だ問題だ、と騒ぐ人ほど一番問題、あの人はこうだ、この人はこうだと眺め回している人は、知らず知らず、神の裁きの王座に土足で上がりこんでいるのかもしれません。強い人は、そういう謙虚さを忘れている。
そこで今日は、皆さんとともに三つの決意に導かれたい。第一に人を裁かない者になるということです。人を裁くことから脱皮していく。人に対して批判がましい思いが出てきたら、信仰的に物事を考えているのだろうか、この人は変えられる途上にあると何も言わず愛情深いまなざしを持ち続ける、いわば愛を働かせる者であろうか。第二に自分がよしとしていることでそしられない者になる、ということです。人間は正しくあればよいというものではありません。正しい筋を通す場合には、思慮深さも必要です。正しいことを語りつつも、問題が起こるのは、しばしば考え深さが足りなかったりするためであったりする。よいと思っていることを、深く考えもせず、状況を見極めずに、押し通すためであったりする。自分がよしとしていることが周囲にもよく受け止められていくためには、知恵が必要なのです。そして第三に、平和と霊的成長に役立つことを求めるようになる、ということです。こうして毎週教会に集まっている。私たちは、そこでお互いの励ましになることをやはり求めたい。けれども、ただ受け入れあい、慰めあい、励ましあうだけではなく、霊的な成長に役立つことを求めていく。さらに言えば、主イエスの宣教の使命にお互いが立っていけるような、そんな集いになっていきたいものです。祈りましょう。主が一人一人の魂をこよなく祝されますように。
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2004年11月 2004年11月7日
「あなたには、私のほかに、ほかの神々があってはならない(出エジプト20:03)。」
本日から十戒について学んでいきます。十戒は大きく二つにわけられます。神に関する戒め(1〜4戒)、そして人に関する戒め(5〜10戒)です。イエスは、これを「神を愛し人を愛する」という二つの精神に要約しました。つまり十戒というのは、神への畏敬と人への尊厳を強く求めている。神への視点と人への視点、バランスの取れた視点を持ち合わせた信仰の歩みが大切です。
さて、この十戒についてはひとつの誤解がありました。この十戒を守ることが魂の救いとなり、また祝福となる、そう受け止められていたところがあったわけです。しかし、十の戒めを守っても救われるわけではありません。十戒によっては、ただただ罪の意識が生じるだけである。十戒を守って生きれば生きるほど、悟らされるのは、人間の罪深さなのです。つまり十戒と真に向き合うならば、人間の魂を救うのはイエスの十字架のみである、と告白せざるを得ないのです。
十戒というのは、私たちが救われるため、というよりは神の前に罪人である、ということを知るためにとても大切なもの、十字架を深く理解し、神への感謝を深めるためのもの、と言えるでしょう。
そしてさらにもうひとつの十戒の意義は、救われた後の私たちの生活倫理観の基礎をなすもの、ということです。十戒が与えられた歴史的な背景について思い起こしてみましょう。十戒は、出エジプトの時代に与えられている。かつてエジプトの奴隷であったイスラエル人がモーセに率いられてエジプトを脱出したわけですが、それは言ってみれば集団脱走です。奴隷逃亡が群れをなした、秩序のない烏合の衆の何ものでもなかった。そういう人たちが国家をつくりあげるためには、従うべき戒めが必要でした。それが十戒であった、ということです。同じように、私たちも罪の奴隷であった。そういう罪から解放されて教会に集まっているのですが、真に神の教会を形作るには、ひとつの戒めが必要でしょう。つまり、
私たちもまた十戒を学ばなくてはならないのです。奴隷根性が身に染み付いている、私たちが十戒を受け入れることで、神の民、神の国民として整えられていくのです。
最後に、第一戒について、それは唯一の神について、私たちに語りかけてくる。
非常に重要なことです。バークレー「神の姿を正しくとらえることがまず第一に必要である。というのも人間が自分の崇拝する神に似てくることは避けられないことだからである」と語りました。どのような神に心の焦点をあわせているか、どういう神を自分の神として愛し、崇敬しているのか。それがそのまま、私たちの生き方に反映されてくるのです。唯一のまことの神にこそ、心を向けてまいりましょう。
2004年11月14日
「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない(出エジプト20:04)」
第二戒は、偶像礼拝を戒めるものです。偶像というのは、イザヤが語るように、人間が作り出したものです。偶像ほど不自然で馬鹿げたものはないのに、私たちは、そういうものを熱心に拝み、頼みとするところがあります。しかし、偶像には命がなく、人を助ける力もありません。神殿が火事になれば、宮仕えの者たちはあわてて逃げることになりますが、神は動けずに焼け死んでしまう、そういうことが起こります。エレミヤは「畑の中のかかし」という言い方をしましたが、金銀の装身具に飾られていたとしても、強盗の盗みには身包みはがされるがまま で、自分の身を守ることすらできません。私たちは、そんなものをあてにして、拝んだりするようなことがあってはならないのです。
そもそも偶像というのは、私たちの心を神に向けさせるためのシンボルに過ぎません。神というのは、目に見えず、霊的な存在ですから、私たちは雲をつかむような思いでいることがある。そんな私たちの心を目に見えない神に集中させるための助けとなるもの、いわば手段に過ぎないのです。それが目的化されてしまう、こういうことが偶像礼拝、というものなのです。
そういう意味では、十字架も偶像崇拝の危険を秘めたものでしょう。ある人はファッションでそれをしている。またある人は、クリスチャンとしての小さな証を心がけて、身に着けている、ということがあるかもしれません。しかし、一歩間違えると、それをお守りとして持っている、ということがありうるのです。これを身に着けていると、「イイコトがある」、あるいは、今日は大事な取引があるから、というので十字架をつけていく、これはもう偶像礼拝ではないでしょうか。手段が目的化されている。
大切なのは、神様はそんな十字架があろうがなかろうが、私たちの人生に最善を尽くしておられるし、私たちの働きを導いている、という心の中での深い信頼感があるかどうかです。
そういう意味で、偶像礼拝というのは、物を神格化してしまうことを言うのですし、また手段を目的化してしまうことを言うのです。ですから、もう少し踏み込んで私たちの宗教行為を振り返ってみれば、たとえば礼拝、最近は情緒的な礼拝を体験することが好まれるようになっています。ワーシップソングを歌い、どこか情緒的に満たされる経験をすることが大切にされる。しかし、礼拝において大切なのは、神と向かい合うことですし、神のみことばをいただき、神の前に自分をささげることそのものです。ある種の礼拝を構成する要素が目的化され、真の礼拝が欠如するなら、それは偶像礼拝のなにものでもありません。
目に見えない神を拝する、このことに私たちの心を集中させたいものです。そのために、目に見えないものを見えないがまに見る力、霊的な力というものを神が豊かに与えてくださるように、祈ってまいりましょう。
2004年11月21日
「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。(出エジプト20:07)
今日は第3戒について学びます。第3戒は主の御名をみだりに唱えてはならない、と教える。みだりに、というのはどういう意味か。ユダヤ人は、神の御名をみだりに唱えることを避けて、あえて、神の御名を別の呼び方で呼びました。また意味もなく頻繁に唱える、ということ嫌いました。しかし、みだりに、というのはそういうことばかりを意味するわけではありません。レビ記19章には、「偽りの誓い」をする者がみだりに唱える者、いわゆる神の名を汚す者である、ということが言われている。またエレミヤ書5章を読むと、偽りの誓いをなす者とい うのは、神は生きておられると、神のことを証しながら、実際には真実も公義もない生き方をしている、いわゆる神の名を語るにふさわしくない生き方をしている者が、みだりに唱える者、つまり神の名を汚す者である、ということが言われています。
そうです、大切なのは、神の名を語るにふさわしくない生き方をしている、これが第三戒を犯すことなのだ、ということなのでしょう。そういう意味で、私たちは自分たちの生活を振り替えさせられるわけです。
パウロは、自分が宣教者として一人一人に「悔い改めに導き、悔い改めにふさわしい実を結ぶように」働いてきたことを使徒の働きの中で証をしています。神の名を語ることにふさわしく生きる、というのは、悔い改めにふさわしい実を結んで生きることです。クリスチャンが人生録を書くならば、それは二巻本の人生録となることでしょう。神を信じる前の生活編と神を信じた後の生活編、この二つはまるっきり違ったものです。悔い改める前と悔い改めた後の人生はまるっきり違っているはずである。闇の人生から光の人生へ、サタンの奴隷から神の子へ、私たちは神を知っている者として神の名を汚さない生き方をしていく者なのです。ですから、クリスチャンがいつまでもごまかしの古い生活を引きずっている、あるいは嘘の塗り固めで生きている、面と向かって人に物を言えない、隠れてこそこそせざるを得ないという生き方はありえませんし、もしそのような生き方を続けているとしたら、それはただ神の名を汚すことになるのだ、ということを知らなくてはなりません。
最後に神の名に基づく行為として、洗礼、聖餐、結婚があることをあげておきましょう。これらは神の名に基づいてなされる行為ですから、真にそれなりに心構えをして臨む必要があります。
以上、神の名を知っている者として、神の名を語る者として、それにふさわしい生き方をしてまいりたいものです。そのためには、神のみことばに親しむ、ということが肝要であることは言うまでもありません。また、神の御名をみだりにとなえないためにも、神に積極的に近づいていく、ということが求められるているのです。
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2004年12月 2004年12月5日
「神にとって不可能なことは一つもありません。(ルカ01:37)
天使の知らせは、超自然的な体験です。余談になりますが、信仰に超自然的な体験の話はつきもので、これをどう考えるか。これをことさら熱心に求めるべきものなのか。それとも与えられたら与えられたで感謝すべきもので、別に気にすべきことでもないのか。私は後者であろうと思っています。また、教会で超自然的な体験を語ると、何か特別な人、霊的に深い経験を持っている人のような語られ方がしますが、この点はどうでしょうか。こういう方の経験というのは、尊重すべきところはあっても、自分は弱さだけを誇る、とパウロが語ったように、私は霊的成熟度とはなんら関係のないもの、と考えています。ですから、経験を尊重しはしても、それを絶対視したり、ことさら持ち上げたりすべきではありません。人間の上に人間を立てるような危険にいつも注意しなくてはなりません。超自然的な体験というのは、そのような危険性をはらんでいるものです。
次に、マリヤの処女降誕。それは聖なる者、神の子の誕生を告げる知らせとして喜ばしいものでした。その昔からイエスがお生まれになることは、定まったことでした。そして多くの人々がその誕生を待ち望んでいました。なぜか。イザヤは、その方は救い主であり、私たちの痛み、悲しみを担う方でもある、いわゆる十字架の祝福を語っています。私たちの心の悲しみを担い、私たちの助けとなり、支えとなり、力となり、いのちとなる方、神の子、イエスがお生まれになる、それは確かに喜ばしい知らせだったのです。しかし、それは超自然的な形で、しかも、貧しい一人の処女の人生をとおして実現されることになる。理解しがたいこのことを、マリヤは、静かに信仰をもって受け止めていきます。
そういう意味では、神は、あなたの人生をとおして実現されようとしていることもあるのです。ウィリアム・カーレーは、「神から大きなことを期待せよ。神のために大きな事業を企てよ」と言いましたが、私たちが期待するしないにかかわらず、神が私たちに期待されていることは、私たちの思いを超えた大きなことです。私たちがそれを聞きわける力を持っているか、受け入れる勇気と信仰があるかどうかの方が問題です。世俗的な事柄に目を奪われ、ただ忙殺されるように生きている、そんな自分に気づかされることがあります。生活を整理し、神に心を大きく開き、神のビジョンに思いをよせてみましょう。そこに、あなたに対する神の喜びの知らせが語られることでしょう。そして私たちにとっては神の栄光を求めて、その喜びの知らせの実現のために、信仰の一歩を踏み出す、人生もあることを忘れてはなりません。
2004年12月12日
「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。(ルカ01:45)」
「主によって語られたことは必ず実現する、と信じきった人はなんと幸いなことでしょう」とエリザベスは語りました。クリスチャンは、神を信じるわけですが、実態のないものをただ盲目的に信じている、というのではありません。主によって語られたことは必ず実現する、と、「主によって語られたこと」に注意を向けて信じるのです。クリスチャンにとって神を信じるということは、聖書が語っていることを素直に受け入れていくということにほかなりません。
で、聖書は何を語っているのか。神は愛である、私たちに常に最善を尽くされる、ということです。しかし、私たちは自らの罪のゆえに、その最善を受け損なっています。神は完全な祝福を受けるために、その罪を捨て去りなさい、という。しかし、捨て去れない。罪は私たちの心に深く根をおろし、罪を取り除こうとするならば、私たち自身をも殺してしまうことになるでしょう。罪と私たちの命は一体なのです。その罪をいかに殺し、命を救うか。聖書はイエスの十字架によってあなた自身を殺し、復活の力により新しい命を得よ、と語るのです。十字架に
よる罪の赦しと復活の力に信頼することが、主によって語られたことです。このことが必ず実現する、と信じきる人は、なんと幸いなことでしょうか。確かにその人は、主の救いを受けるのです。
さて、マリヤの賛歌が続きます。それはハンナの歌(1サムエル2:1-10)と非常によく似ています。マリヤをはじめ、ユダヤ人は、旧約聖書のみことばをそのまま祈る習慣を持っていた、と言えます。み言葉を祈ることにより、私たちのうすっぺらな祈りは、幾重にも豊かな祈りとなるのです。で、この祈りは、まず個人的な感謝のみ述べているのではなく、主を恐れる者の中に、またイスラエル国民の中に身をおいて祈られていることが一つの特徴です。私たちもこのような意識を持って祈るのならば、祈りを単なる個人的な自己満足の道具と化してしまうことはないことでしょう。また、マリヤの祈りには、神の御業への確信があります。人の魂を動かされる神、社会のシステムそのものを動かされる神、そして
経済的配置、および状況を動かされる神を見上げながら祈っているところに注意させられます。私たちも確信をもって、祈りたいものです。私たちが祈りをささげる神は、全知全能の神、天地創造の神、万物の支配者である神なのです。
そこで、今日、最後のまとめとして、あなたは何を日々神に語られているかを振り返ってみたい。また何を祈っているか、ということ。そしてそのような中で、主イエスの降誕をどのように迎えようとしているか、ということを考えたいものです。私たちの主イエスが、私たちと向かい会おうとされている。その厳かな瞬間を覚えて、いよいよクリスマスの日へと向かうこととしましょう
2004年12月19日
「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです(ルカ02:11)」
毎年、クリスマスがやってきては、それとなく祝って終わって、ということが続きます。あまりクリスマスがキリストの降誕の季節である、ということの意味も考えずに、季節の流れにのっかっている、という感じです。私たちは、福沢諭吉についてあまりよく知りもせずに、1万円を使っているところがあるわけですが、ちょうどそれと同じなのかもしれません。しかし、福沢諭吉を知らずとも、キリストを知らない、ということのないようにしたいのがこのクリスマス。
福沢諭吉は、明治時代の知識人でありますし、オピニオン・リーダーとして、日本を代表する人であったといえます。彼の『学問のススメ』は非常に有名ですが、彼の考え方をまとめれば「富める者になるため、貴き者になるため、身分重き者になるため学問がある、学問せよ」ということでしょうか。乱暴なまとめ方かもしれませんが、彼の考え方というのは、今日の日本の物質主義的な考え方の代表のようにも思われます。
聖書は人は「裸で生まれ、裸で帰るのだ」と言っておりますが、人間は裸であることを恥ずかしい、と思うところがあるのです。そして衣服で着飾り、家を持ち、財をなし、業績をあげ、地位を得、と着膨れして生きているところがあるわけです。そしてそれを自分だと考えて、そういう目で自分も他人も評価してしまうところがある。ですから、着膨れしたものを、突然剥がされることがあると、もうこの世の終わりであるかのように思い込んでしまう。
イエスが言ったことはこうです。「人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得があろうか。悔い改めて神を信ぜよ」と。着膨れして、たとえ全世界を手に収めることがあってもいのちを損じたら、何の得もない。大事なのはいのちだ、というのです。いのちというのは永遠に残るものです。ですから、そういう永遠に残るいのちこそ大事にして、しみやしわや傷をつけることのないようにしたいわけです。けれども、なんと多くの人が、裸の恥を覆うことを考えるばかりのために、いのちを粗末にしていることでしょうか。自分の心の純粋さを卑しめてまでも、権力を得よう、地位を得ようと、裸の恥を覆うとするところがあります。
しかし、イエスは、人間は裸で生まれ、裸で帰るのだし、裸で何のはずかしいこともない。裸のままでいいのだし、大切なのはあるがまのいのち大事にして、いのちにしみやしわも傷もつけないこと。やがて神の前に出る時に、胸張って立てることではないか、というわけです。そしてイエスは、そのようないのち、あるいは心を与えてくださる、お方です。そういうお方がこの地上に現実に来てくださった、それがクリスマスです。クリスマスの日、あなたも新しいいのちに生きる決意をしてみませんか。
2004年12月26日
「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかにさらせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。(ルカ2:29)」
今年も様々な恵みを主にいただきました。そのいくつかを数え上げてみますと、まず第一に、村田兄のバプテスマ式があります。現在、佐藤さん、上野さんがバプテスマの準備に入り、これも感謝なことです。第二に、働き人に広がりが生じました。私たちは楮本神学生やモールトン宣教師を受け入れるうようになりました。子供クリスマスでのモールトン宣教師の活躍には感謝しますし、日本語研修期間、私たちもモールトン宣教師のお役に立ちたいと思っております。第三に、これまでになくたくさんのゲストスピーカを受け入れることができました。第四に新しい集会や活動が開始されました。女性のための聖書研究会がそうですし、また連合の世界宣教部の研修場所として利用していただくこともできましたし、さらに、マナの会のような自主活動も始まっています。私は教会の中に、様々な自主活動が出てくることが大切である、と思っています。自分たちのペースで、主を証する活動をしていく、そういう働きのために祈ってまいりましょう。第五に、バーベキューや修養会、クリスマス感謝会、開拓教会へのクリスマスプレゼントなど様々な働きが定着してまいりましたし、今年は、ネパールへの文書伝道や震災の義捐金活動も実施できました。教会としての活動にリズムができてきたことは大変感謝なことです。第六に伝統的な礼拝形式に加えて、現代的なスタイルの礼拝をはじめることができました。こういう方面でもリードするような人材が与えられることを願うところです。そういう意味では、私たちの教会は働き人を必要としています。この教会の働きに重荷を持ち、きちんとメンバーとなって一緒に労して下さる方が起こされるよう、祈ってまいりましょう。第七に、長いこと悩みの種であった調停に決着がつきました。そして最後に牧師の働きが広がりました。皆さんのこれまで以上の祈りが必要です。牧師の働きのために続けてお祈りください。
さて、このようなたくさんの恵みを覚えながら、今日のテキストを読みますときに、思うことは、主は真実に求めて歩む者を決して忘れることない、ということを教えられます。イエスの降誕の秘密が明かされたのは、三種類の方々。社会ののけ者にされていた羊飼い、異邦人として忌み嫌われていた東方の博士たち、そして主を真実に待ちのぞんでいた者たちです。この中で、私たちは、主を待ち望み続けた者が恵みを受けたことに注目したいわけです。あなたは、今年、主を待ち望み続けたものの、なかなか思うようにならない、と思うことがあったかもしれません。しかし、そこでさらに待ち望むのです。もう少し待ち望んでみましょう。主は待ち望む者に必ず答えて下さる方であることを、信仰を持って受け止め、新しい年に希望を抱き、迎えることとしましょう。
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