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| これまでの礼拝説教要約(2003度) |
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2003年01月
2003年01月05日
「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。(ヨハネ4:23)
何度も読み返されてきた、サマリヤ人の女性の物語です。改めてイエス様のことばを考えてみると、意外な思いにさせられます。イエス様は失礼ではないか!私たちクリスチャンはイエス様は優しいお方、暖かいお方そんなイメージになれすぎています。でも、イエス様は、このサマリヤ人との女性と、世間話をしながら、突如女性のプライバシーに入り込んでいるわけです。誰も知るはずもない、知られたくもない過去にイエス様は突如口を挟んでいます。誰だってそんなことをされたらびっくりして、何とかうまく話をかわしたりするものでしょう。 「ユダヤ人はエルサレムで礼拝をささげる、サマリヤ人は別の場所で礼拝をささげる、どっちが本当なのか」という礼拝論議は、うろたえた女性が話題を変えるために持ち出したもの、私はそう考えています。けれどもそういう時にこそ、人 間の心は無防備になってしまうものです。ですから、礼拝論議を踏まえたイエスのさらなる突っ込みによって、この女性の態度はがらりと変わっていくのです。素直で信仰的な別人に変わっていく。いったいこの変化はなんだったのか、あれやこれや考えさせられました。 考えてみればクリスチャンにとって一番大事なこと、それは礼拝を霊とまこと をもって、つまりまごころからささげることでしょう。そこから種々の奉仕が出 てくる。世の中がどんどん軽薄で軽い雰囲気になっていく中で、天地創造の神の 御前に立ち、きりりと引き締まった心にさせられ、そこで人間の何であるかを考 え、あり方を考え、神と人とのために何かをしていく決意をする。それが礼拝で しょう。礼拝があってこそ教会の諸活動があるわけです。 ところがそういうところが逆になっているクリスチャンが多いのではないでしょ うか。まず自分たちの活躍の場、自分たちが受け入れられる場があって、あの教 会がいい、この教会がいいと教会を渡り歩いている、礼拝なんてとってつけたよ うなものです。神様などどうでもよいわけです。それで、いい説教、いい交わり 、楽な負担、そういう表層的なことばかりで礼拝の場所が決められていく。誠に残念なことです。「この山でもなく、エルサレムでもない、・・・真の礼拝者た ちが霊とまことによって父を礼拝する」まず礼拝ありき、そこから教会の奉仕と 、義務と責任が出てくるというものでしょう。 クリスチャンの考え方のおかしさに一番敏感なのは世間の人です。神を信じ献身をしているような人が、どうしてこんなにも不誠実なのか、あの人の神はどこにいるのか、わからぬ思いでいるのは、世間の人であることが多いのです。サマリ ヤの女性も同じ思いだったのでしょう。「宗教において大切なのは、霊とまこと をもって礼拝すること、神を大切にすること!」「私のプライバシーに入りこん できて驚いたが、これほど真実をはっきり言う人など見たことがない、私は心を 開くべきではないか」サマリヤの女性が変えられた理由ではないでしょうか。 あそこがいい、ここがいいではなくて、導かれた場にあってまごころから主に 礼拝をささげ、神と人のために自分自身を差し出し、仕えていく、これを私たち の新しい一年の課題としてまいりましょう。
2003年01月12日
「そして、この宮、すなわち、あなたが『わたしの名をそこに置く』と仰せられたこの所に、夜も昼も御目を開いていてくださって、あなたのしもべがこの所に向かってささげる祈りを聞いてください。(T列王08:29)
信仰というのは複雑な営みです。それは人間が完璧でないことの表れなのかもしれません。ソロモンの生き方を見ても、非常に信仰的にしっかりとした考え方を持っている部分とまるでだめな部分がある。そして人間というのは往々にしてだめな部分には気づかないものなのでしょう。ソロモンとてしかりであったようです。 そういう意味で、私たちの気づかぬ部分に気づかせてくれるような、信仰の友を、私たちは大切にしたいわけです。しかしクリスチャンの中には、他人に責められると自分を過度に責めてしまう、いわゆる内罰的な人もいますから、「あなたの気づかぬ部分だ」と、要らぬ苦言を呈する人に心煩わされる必要はない、と断っておきましょう。人間というのは本来勝手なものです。自分の言いたいことを言うだけ、自分を正当化するために同調者を集めてこじつけ批判をするだけ、という人もざらです。批判に耳を貸すべきときには、その人が一緒に関係を築き上げる気持ちと行動があるかどうかに注意するといいのです。そんな気持ちもない単なる批判など、気にする必要もありません。 さて、ソロモンの信仰的にしっかりとした考え方にいくつか教えられます。 一つは、ソロモンは神殿というのは、「神の治められるところ」であると語りました。これは今日の教会の本質的な部分でもあります。教会というのは神が治められる場である。イエスは「この岩の上に私の教会を建てます」と語りました。教会の中心は神であり、一人一人が神に治められるのです。こういう考え方の出来ていない人、いわゆる神以外のものに結びついて教会生活をする人が多いために日本の教会は問題が多いのかもしれません。いわばベビークリスチャンと呼ばれる人々は、神以外のものに結びつくために、人を見て人に躓きやすい、そして教会に害悪を撒き散らします。 二つ目に神殿は「神のとこしえにおられるところ」、否、神の目の注がれているところである。これも教会の本質に通じる部分です。教会というのは、神のおられるところ、神の目の注がれているところであるわけです。神の御前に額ずき、神の御前に意を決するところである。ですからソロモンは、神殿で祈るたびに、神がその祈りを聞いておられる、ということを集まった人々に語り伝えるわけです。今日の教会はイベントをすること、あれをすることこれをすることに熱心になりがちです。しかし、神がおられる、神が耳を傾けておられる、という確信でもって何もなくとも、教会では静かに落ち着いて祈られる祈りがある、こういうことが大切にされなくてはなりません。 最後に、ソロモンは神殿を建設し終わって、これが自分の力ではなく、神の守りによって神の約束によって成し遂げられたことであると語ります。お金さえあれば教会というのはいくらでも建てることができるものでしょう。しかし、どんなに立派な会堂であっても、信仰を持たずにして建てた教会を、神が本当に治められるものでしょうか。信仰をもたずにして建てた教会に神の目が注がれるものでしょうか。教会というのは、建物ではないわけです。クリスチャンの集まりである。その集まりの信仰の表れとして教会堂という外観もあるわけです。教会は信仰の犠牲と祈りによって建てあげられるものなのです。
2003年01月19日
「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」(ピリピ人への手紙01:06)
クリスチャン用語で「交わり」という言い方があります。たいていは、お茶を飲みながら談笑し、信仰的な話もして、親睦を深める、そういう意味で使われているものですが、それは聖書的なものというよりは、世俗的なものなのかもしれません。聖書的には「宣教の交わり」という考え方があります。 パウロは、ピリピの教会の人たちの宣教協力に深い感謝を言い表している。そういう意味で、私たちは、福音を広めるという教会の主目的にかなう大切な協力関係をいうものを持っているのだろうか、考えさせられます。 今回義父が大手術をいたしました時に、私ども家族はやはり心配して、田舎と東京を何度か往復いたしました。そんな私たちを見て、田舎の教会の人たちは「どうぞお父さんを私たちに任せてください。私たちが面倒を見ますから、先生方は東京での働きをがんばってください」と言ってくださいました。私たちは本当にうれしく思うと同時に、これがパウロの語る宣教の交わりであろうと思わされたところがありました。互いに信頼し、祈りあい、苦しみや痛みをともに負っていく、そういう宣教協力というものを、他の諸教会と育てていく必要があるのです。 さてそのように深いつながりのあった教会ですから、ピリピの教会はパウロの身に起こったことに大変な悲しみを抱きました。当時投獄は死を意味しましたから、ピリピの教会の人は胸張り裂けんばかりにこの悲報を受け止めたのでしょう。そんなピリピの教会の人々をパウロは思いやり、「心配するな」と手紙を書き送るわけです。二つのことを教えられます。 一つは、痛みにばかり目を向けるな、視点を変えて、パウロの投獄をきっかけに新しい福音宣教の働きが進んでいるという喜ばしい事実にも目を向けようというわけです。痛みばかり見てうつむいていては気づかぬことがあるもので、目をあげて神様の祝福に目を向け、心配から解放されることも大切です。 二つ目には、「痛み」そのものの受け止め方を変えよ、ということです。痛みは悲しいもの、つらいもの、と誰もが思うことでしょう。しかし、パウロにとって痛みは何事かを生み出す創造力であり、力であり、命なのです。だから痛みは積極的に負っていくべきものです。実際、教会のみならず、家庭や会社なりにしても、何かがうまくいっている背後には必ず痛みを背負っているような人がいるものなのです。むしろ痛みを避けて痛みを逃げる人がいるからこそ、教会のみならず家庭や会社に問題が起こってしまう。たとえば年寄りの面倒を誰が見るか、痛みから逃げる人がいるからこそ、今の高齢者家庭で起こっている問題があります。しかし、クリスチャンは「痛み」というものは、受けるべきもの、いのちがあり、関係を作り、新しい未来を築く、計り知れない可能性を秘めたすばらしいものであると、パウロのように見方を換えていかなくてはいけないことでしょう。 そういう意味で、私の牧師としての仕事は、29節、「キリストを信じる信仰を持つ」人を育てるだけではなく、「キリストのための苦しみをも賜った」との自覚に立てる人、積極的に教会なり、家庭なり会社なりで痛みを引き受け、新しく力強い何事かを将来に生み出していける人を育てることにあるのだ、と思っているわけです。そしてこれを私自身の教育力でというのではなく、神様のお働きによって、つまり神様が完成させてくれることを信じ祈り続けることが私の日々の務めであろうと思うのです。
2003年01月26日
「いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです(ピリピ2:16)」
問題のない教会などというものはありません。人間の寄り集まるところ、何かかしら問題は必ずあるものです。ことに成熟したクリスチャンの少ない教会は、ごたごたしているものです。教会を構成しているメンバー一人一人が成熟した考え方を持てるようになって、初めて教会というのは教会らしくなっていくものでしょう。 ピリピの教会もたぶんにそういう状況にあったようです。パウロはピリピの教会が一致していけるように、まず自己中心性から開放されなさいと勧めます。しかし、自己中心な人に向かって、このことばがどれほど意味のあるものになったのか、と考えます。自己中心な人というのは、聞く耳を持たないから自己中心なわけですから、もっと自分のことばかり考えず、他の人のことを考えなさい、と言っても言うだけ無駄ではないでしょうか。しかし、パウロは敢えてそう語りかける。それは、パウロが内なる聖霊の働きに期待するところがあるからなのでしょう。牧師の務めというのは、信徒一人一人を聖書のことばにつなげていくことです。無駄だと思われても根気よく、聖書の真理を食む様に教えていく。「自己中心から抜け出しなさい。他の人のことも省みなさい。キリストの謙遜に学びなさい」これを神の勧めとして気づかせ、受け止めさせ、新しい行動へと導いてくださるのは聖霊です。 次に、神は一人一人に志を立てさせて事を行わせてくださる。志を立てて手をつけはじめたら、途中であきらめないことです。志を遂げるといのは、志を立てるほど簡単ではない。色んな波風にさらされて、結局は挫折なんてことがあります。無責任な人もいるもので、かかわりを持とうともせずに、色々とあげつらってくるものです。けれども聖書はそういう色々なことがある中で物事を途中で投げ出さないようにと語る。苦しい境遇につぶやかず、祝福へと導いてくださる神を疑わず、最後までやり遂げていく。これが大切なのです。 ただ勘違いしてはいけないのは、聖書はただ単に自己実現を応援しているわけではない。私たちの内に聖い人格が築き上げられること、またその結果として、福音がいっそう広まり、教会が完成されていくこと、その苦難においてつぶやかず、疑わずということです。 最後に、エパフロデトのことを少し考えましょう。パウロの身辺の世話をするためにピリピの教会に送り出されたエパフロデト。ところが、ピリピにつくや否や彼は重病になってしまう。いざ期間も終わってピリピに帰ることになったのですが、どんな顔をしてピリピの人たちに会ったらよいものでしょう。面目丸つぶれ、そんなエパフロデトの心情を察して、パウロは、エパフロデトが何もできなかったとしても、自分のもとに来ようとした志と実際に来てくれたことそのものに、大変な感謝を述べるのです。 人間を見ていく時には、結果だけではなくて志を評価する。あるいは、経験そのものを評価するということがなくてはなりません。期待した成果を出せなかったとしても、そこで人間は大切なキャリアーを積んでいることに変わりはないのです。人間の色々な苦悶と涙を決して軽んじてはならないのです。小さな教会で苦労を積んでいる皆さんに言いたい。何年も実を結ばない状況の中で、自分の働きが評価されるに値しないと思っておられる方は多い。しかし、神は志と苦労を評価し、「志を投げだすな」と語りかけてくださる方であることを忘れてはなりません。
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2003年02月
2003年02月02日
「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです。(ピリピ3:12)」
「どうか犬に気をつけてください」ずいぶんと過激な言い方です。パウロにとってテモテは本当に心を割って何でも話せる兄弟だったのかもしれません。しかし、こう言わざるを得ないほどに、問題の本質を鮮明化する必要もあったのでしょう。 当時キリスト教会は、ユダヤの宗教とは別物としての道を進みつつありました。しかしそれは、全く新しい異なる宗教を生み出していたというわけではなかったのです。むしろ、肉体の割礼、育ち、家柄、民族、宗派を誇る既存の宗教の的外れなあり方に対し、キリスト・イエスを誇りとすること、信仰の本質に立ち返ろうとする意味で、新しかったわけです。 いわゆる改革運動というもので、こういうことは、中世の時代にも起こっているわけです。その後もプロテスタント教会の歴史には同様の改革運動が起こり、諸派が出てくるわけですが、その目指すところは一つ、信仰の本質に立ち返る、キリスト・イエスのみを誇りとするというところにあると言えます。 そういう意味では、今日の私たちも、改革を考えていかなくてはならないのかもしれません。枝葉末節な事柄に堕してしまいやすい私たちは、キリスト・イエスを誇りとして歩んでいるかというと、そうではないこともあるのではないでしょうか。イエスはすばらしい、イエスは愛、などと賛美歌を高らかに歌っていながら、それは教会の建物の中だけでのお話であったりするのではないでしょうか。キリスト・イエスの愛や聖さに、あるいは義しさに執着するのではなくして、世のお金、名誉、権威に執着している、ということがあるのではないでしょうか。「新生」無きクリスチャン生活、神の御前で歩むという意識のない信仰生活、こういうことから、私たちは脱皮していかなくてはなりません。 そういう意味で、信仰というのは、神と一人向かい合う自分との戦いでもあるわけです。キリスト・イエスに絶えず望みを抱いている、キリスト・イエスを復活させた神の力に信頼を寄せている、こういうことが当たり前に出来ていく、キリスト・イエスと一つ心になって生活が出来ているということが、私たちの目標でもあるわけです。 なぜクリスチャンといわれる人たちが、色々な物事の中でくよくよ考えるのか、なぜ危機的な状況であわてふためいてしまうのか、なぜ色々とつぶやき、人を責めたりするのか。それは、あの人が悪い、この人が悪いという以上に、自分自身の心の問題として、神に信頼できていないということ、キリスト・イエスを復活させた神の力を本気で受け入れていないということにあるのでしょう。 私たちは自らの不信仰と戦わなくてはなりません。神の前に死人のような霊的な状態、いわゆる罪人の性質と戦わなくてはなりません。また神よりも、人間的なものに頼みやすく、容易に本質から逸脱し、信仰をアクセサリー化しやすい自分自身と戦うのです。「すでに得たのでもなく、すでに完全にされたのでもなく」という一生の戦いとして、です。そういう意味では、信仰に未熟も成熟もない、と言えるのかもしれません。大切なことは、常に昨日の自分よりは、一歩も二歩も深められた信仰の歩みを目指すことではないでしょうか。
2003年02月09日
「それにしてもあなたがたは、よく私と困難を分け合ってくださいました。(ピリピ4:13)」
主にあって一致してください、とパウロは勧めます。「主にあって」このように語るだけで十分な状況があったのでしょう。つまり復活・昇天の主イエスの存在感がそれだけ大きかったということです。まるで水戸黄門の印籠の威力のように、主イエスの名の下に、クリスチャンたちは心正されるところがあったわけです。 次に、パウロは「真の協力者」よ、と呼びかけます。主にある人づくりを心がける教会の働きには、子育てと同じような部分があります。つまり、何もかもが母親一人でできるわけではありません。父親の協力も必要ですし、友人同士の協力も必要、つまり社会の子として育てられることで、母親の負担は軽くなり、また母親も母親らしいふるまいが自由になるものでしょう。それと同じで、教会における人づくりも、牧師一人が何から何までなせるということではないのです。真の協力者が必要なのです。もちろん牧師が楽になるという意味で、そう語られているわけではありません。福音が広められることにおいての協力ということです。 さてパウロは「主にあって喜びなさい」と語ります。私たちには喜べない時というものがあります。心が悲しくてしょうがない、何やかにや考えていると涙が出てくる、頭がおかしくなりそうだ、と思わされるような時があるものです。ふと気が付くと苦虫をかみつぶしたような顔になり、硬い表情になり、そんな時があるものです。しかし、「もう一度言います。喜びなさい」と語ります。主は近いからです。私たちはふさぎこんでいてはなりません。私たちのために最善をなし、一切を導いてくださる主がおられるから、またその主が近づいていてくださるからです。 8節ではよきことに心を留めよと勧められます。クリスチャンの生き方というのは本来楽しいものなのです。考え違えをしている人がいて、クリスチャンになるということは、あれもだめ、これもだめ、と禁欲的に切り捨てていく生き方であると考えている人がいます。しかしそうではありません。よきことに目を留めるのです。あらゆるよきことに目を留め、真実なもの、正しいこと、清いこと、愛すべきこと、評判すべきことに向かっていく。となれば、それなりの分離というものは避けられませんが、それは切り捨てていくということとは違うもので、喜びにあふれた生き方でもあるのです。 最後に、パウロは微妙な事柄に触れます。パウロを誤解する人がいたのかもしれません。パウロは贈り物をもらったことへ感謝の思いを告げていますが、こう言い加えています。「私は贈り物を求めているのではありません。私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせてあまりある霊的祝福なのです」と。パウロが、自らの姿勢を敢えて理解して欲しいと思わされるような誤解があったのかもしれません。パウロは言います。私はあらゆる状況の処する秘訣を知っている。神によって私は窮することがない、贈り物ではなく、霊的祝福がうれしい、と。確かに、窮乏に際して一番うれしいことは、物が手に入ったということもあるかもしれませんが、よきに導いてくださった主のお働きと困難を分かち合ってくれる人たちではないでしょうか。 必要を満たすのは主である。その主を見上げて、日本の教会が一致し、福音を広めることに用いられていくことを祈ることとしましょう。
2003年02月16日
「このためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を薮っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである」(ヨハネ05:18)
イエスは、ご自身について、「人の子」という称号を好んで用いられました。これはダニエル書7章を背景とすることばです。ダニエル書は、ユダヤ人がバビロン捕囚の民になった際に書かれたもので、預言者ダニエルの幻を記録しています。その幻ですが実に奇妙なもの。最初はわしの翼を持った獅子が現れ全世界を支配する。次に口に三本の肋骨をくわえた熊が現れ、先の獣を滅ぼし支配する。次に四つの鳥の翼と四つの頭を持ったひょうのような獣、そして鉄のきばと十本の角を持った恐ろしい獣と、次々に四つの獣が支配しては滅びていく。その最後に、人の子のような方が現れて、その方が一切の主権を握る。それは永遠の主権で滅びることのない主権であるというわけです。 この幻は結局、人間の歴史に興ってきた様々な帝国を象徴しているわけです。残虐で破壊的でおそろしい帝国の横暴ぶりを物語っている。古代のことはわかりませんが、半世紀前ドイツ帝国主義が何をしたか、日本帝国主義が何をなしたかを思い浮かべるならば、よく理解されることです。そしてそういう四つの恐ろしい獣の支配に象徴されるような時代が終わって、やがて一つの力がこの世界にあらわれる。それは温和で寛大で人道的な力、これまでの人類史に起こり得なかった支配である、と実に美しい未来を、ダニエル書は描いている。 それでユダヤ人はこの預言を神の約束のことばとして信じたわけです。そして愛と平和によって世界するメシヤ、つまりダニエル的な言い方をすると「人の子」が現れることを信じた。しかもこれはイエスの時代において実に待望されたことであることが、当時のベストセラーといってもよいかもしれませんが、流行の宗教文学、エノク書によって知られます。 ですから当時イエスが自分を「子」と呼んだのは、自らが人々の胸中のメシヤである、と宣言したに他ならない。自らを神とする爆弾発言であった。こういう背景を知らないと、私たちは、この箇所をぼんやり読み過ごしてしまう。しかし、このイエスの発言というのは、当時の人たちには、大変問題な発言であった。けれども、聖書を読む私たちに対しても、ある種の決断を迫る発言であるということに注意しなくてはなりません。聖書をぱらぱらめくりながらイエスもなかなかいいことを言うではないか、立派な教祖だなどと感心しているだけではおさまりのつかないことを、イエスは言っている。ご自身を神としているわけですから。ですからここでイエスを狂人とみなすか、それとも神と語るイエスを受け入れるか、いずれかの判断を私たちは迫られることになります。 もう少しイエスのことばについて教えられましょう。イエスは、ご自身が命を与えるものである、と語られる。それは長いいのち、永遠のいのち、いわゆる天国にいくことを保障してくださるということにほかなりません。この文脈においてはそうでしょう。しかしイエスがいのちといった場合、それは質的なもの、世俗的な言い方をすれば、私たちの人格の成長、成熟についても物語っているものなのです。人格的な成長ということはよく言われることですが、私たちはそれほど成長できるものではありません。人間などそんなには変わらない、ということは誰でも心得ていることでしょう。だから私たちは人の性格を非難するようなことは、まず常識としてしない。人間性を心得ているからです。しかし、聖書はそういう、様々な欠けのある自分自身としっかり向かい合うようにと勧めるのです。なぜか。神が命を与えられる方だからです。あなたの罪ある心を、汚れに満ちた心を癒し、きよめ、正し、かたくななこころをやわらかくし、新しい心を与えてくださるからです。何でも物事を悪意に受け止める性格的傾向を善意に受け止める心にかえてくださります。人を信頼できない心を信頼する心に変えてくださる。もしそういう部分に変化が起こるなら、私たちの実際生活はもっと潤いのあるものとなることでしょう。まさにいのちがあふれる、今ここにおいてもということになるのです。主を信じる者は幸いです。
2003年02月23日
「神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある』という者である。」(出エジプト03:14)
「もののけ姫」という映画は、キリスト教信仰の立場からすると、どうもあまり好ましくない内容だと言われます。そのように語る人の意図と異なるかもしれませんが、私なりに、あの映画は、「神殺しのストーリー」だなと思っています。いわゆる神を必要としない近代化の時代を象徴しているもので、アシタカとサンの最後のせりふが考えさせられます。サンは「しし神が死んでしまった」とこぼすと、アシタカは「いやしし神は死なない、しし神はいのちだから死なない」というようなことをいいます。つまり、神が退治されて目に見えなくなったことで、サンは「神は死んだ」と受け止める。目に見えない神はいないと思う人々を象徴しています。一方アシタカは神は目に見えなくなってもいるのだ、「いのちだから」、という言い方をする。近代化の時代の流れにあって信仰心に篤い人々を象徴しています。神に対する態度というのは、このいずれかでしょう。宮崎駿さんがそこまで考えていたのかは、わかりませんが、考えさせられるエンディングです。 そこで、アシタカのあり方というのは、聖書信仰に通じるものがあります。聖書は、神は霊であり、いのちであると語る。つまり目には見えないけれども確かに実在するという。しかも、「それはあなたの主観のお話ではないか」、というようなものではなく、「誰がなんと言おうと、実在するのだ」、そういう言い方です。 今日開かれた箇所は、神がモーセに自己紹介をしている実にユニークな部分です。神は自己紹介をして、私は「あってあるもの」とわけのわからない言い方をしている。これはヘブル語の文法的特徴に注意しながら思い切った意訳にすれば「私は過去に存在した者、現在存在し、未来にも存在する者」そういうことです。つまり自存、独立した永遠の存在であることを言わんとしている。しかもただ地蔵さんのように存在しているわけではありません。ヘブル語の「ある」ということばには動きのニュアンスがあるといわれます。つまり、「私たちのために行動する者として過去に存在した、そして今もこれからも存在する者だ」というわけです。 この神のことばの語りかけを私たちがどう受け止めるかが問題なのです。 先日ある本を読みました。どのようにして心の痛みをコントロールするか、そういう内容です。つらい経験をすると人間は自分が弱くて、自分が悪くて、異常なんだとくよくよ考えてしまうものであるといいます。そしてその痛みをひとりで味わわなくてはならない時に、それはより激しい痛みとして感じられる。だから一緒に痛みを感じてもらえるという共有体験があると痛みは和らぐのだ、といいます。 なるほど、上手なカウンセラーというのは、そういうものでしょう。けれども誰もがそういう上手なカウンセラーにめぐりあえるわけではありません。上手に気持ちや感情を受け止めてくれる友や家族がいるわけでもありません。しかし、聖書は、あなたの痛みを見、叫びに耳を傾け、苦しみを感じ、そしてあなたのために行動される、目に見えない神が確かにおられる、と伝えるのです。この神にあなたはどう応じていきますか。
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2003年03月
2003年03月02日
「彼は自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます(ヨハネ10:4)」
ある方が教会に求道し、1年ほど経ちました。牧師に、「○○さん、そろそろバプテスマを考えられてはどうですか」と勧められ、考えたものの、通いなれた教会で皆とも親しくなったし、特に断る理由もないし、というので、バプテスマ準備クラスに出席し、基本的な教理を理解し、バプテスマを受けたということでした。ところがそれから数年、その方は何かがおかしいぞ、と思い始めるようになったというのです。クリスチャンだというので、日曜日に教会へ出かける、教会の奉仕もそれなりにしている、祈りもし、賛美もしている、けれども、バプテスマを受ける前と後では、自分自身に大きな変化があるわけではない。人間関係のあり方にも変わりがあるわけではない。クリスチャンになるってどういうことなんだろう?改めて考えさせられたというのです。毎週教会へ通っている、教会で熱心に奉仕をしている、聖書を読んでいる、禁酒禁煙、品行方正な生き方をしている、そういう類がクリスチャンなのか。あれこれ考え、色々なところを通らされる中で、その方は、「いやそういうことじゃない、クリスチャンというのは、イエス様の十字架をしっかり受け入れて、こころにおいて新生している人である」、という結論に達したのです。 聖書は、「門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します」と語ります。羊というのは私たちのこと、私たちは羊飼いの声を聞き分ける。羊飼いというのはイエスのことです。 つまり、聖書は、私たちと神との間に、「聞き分ける、従う、連れ出す」、そういうダイナミックな関係が成り立っているのだ、ということを言っている。神様とのしっかりとしたつながりがあって、そのいのちに生きている人がクリスチャンである、ということです。そういう肝心なところが抜け落ちて、ただ体裁を整えている、クリスチャンっぽく生きている、ということがあってはならないわけです。 そこでこういう神様とのしっかりとした関係が築かれるためには、二つのことが大事です。一つは神観が深まっていくこと。日本人は信心を大切にするところがある。何でもいいから信じる心は大切だという考え方です。信じる中身は問わないわけです。しかしキリスト教信仰において大切なのは、中身です。どういう神を信じているかということです。天地創造の神、いのちを与える神、さばきをもたらす神、正しさを貫かれる神、聖い光である神、信仰する対象である神観がどうであるかが問題です。そして二つめのこと、人間理解が深まっていくこと。日本の刑法に見られる特色は、赦しである、といわれています。先日ある方とお話ししましたら、関西の方が刑の考え方が甘いのじゃないか、ということを聞きました。日本人には徹底した裁きのお話というのはあまり好まれないのではないでしょうか。しかし聖書は徹底的に人間が自分の心と向かい合うことを勧める。そしてその闇と汚れを率直に認めることを勧める。いわゆる犯罪ではなく「罪」理解というものが深まると、神とかけ離れた存在である人間の状況というものが明らかになってくるわけです。そこにイエスの必要性もはっきりしてくる。 日本人が躓くのは、神と自分の間にイエスが挟まってくることです。イエスの存在をどうも理解しづらく思っている人は多い。しかし、神の徹底した聖さの前に、私たち人間は立ちおおせないほどの罪人であることを考える時に、私たちと神との間に仲裁役がどうしても必要であることを思わされるものなのです。そうするとイエスの十字架の意味がわかります。私たちの一切の罪を帳消しにし、私たちを神の前に立たせ、神と和解させ、神とともに歩ませることを可能したのがイエスの十字架の犠牲であると。 このようにしてイエスの十字架をしっかり受け入れて、神と結びつき、変えられた人生を歩んでいる、ということがクリスチャンにほかならないのです。
2003年03月09日
「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。(ヘブル1:1,2)」
復習になりますが、「御子」という言い方は、ダニエル書7章の背景を踏まえて理解していかなくてはなりません。 ダニエル書7章には、次から次と恐ろしい獣が現れては、淘汰されていく様子が描かれています。それは象徴として読むわけです。つまり、恐ろしい獣でたとえられた帝国主義的な国家とその支配が語られている。こういう時代を、人類はずっと経験してきた。そしてその最後に、御子による支配、ダニエル書では、「人の子のような方が現れて」と語られているわけですが、これらの帝国主義的支配を打ち壊し、愛と平和と正義の国を打ち立てる、御子の時代が来るという世界観を描いているわけです。 「御子」というタイトルには、そういう背景がある。だから、この終わりの時代というのは、まさに、御子の支配による新しい時代の訪れを物語っているわけです。 ヘブル書は、その御子についての、いわば壮大なキリスト論を展開していくわけです。御子は「神の栄光の輝き」、つまり、神の本質を完全に正確に現すものであると言います。神そのものであると。当時の時代背景を考慮してのことでしょう。御子は御使いとは違うのだ、とします。御子は特別な存在、礼拝される対象である。だから「御子に聞け」というわけですが、何を聞くのか。それは救いのことばです。十字架の恵みのことば、一生涯死の恐怖に囚われている者を救い出すことばです。 若い時には死というものをあまり考えようとはしません。しかしいやおうにもいずれは、向かい合わなくてはならない問題です。こころぞなえをしなくてはならない問題です。私の祖母の墓碑銘には、「死は永遠に至る門である」とありますが、死を一切の終着ととらえるか、あるいは呪いととらえるか、さらなる祝福の通過点ととらえるか、いずれの結論を出すにしても、まず「御子に聞く」ことが大切です。
2003年03月18日
「神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。(ヨハネ8:47)」
ブラッカービーの「神を体験する」の41ページに、「主に仕えること」と題して、次のようにあります。 「私は魚釣りやフットボールの観戦を世の中で何がおきようと中止しない人々を知っています。彼等は心の中では神に仕えたいという願いを持っていながら、自分のやりたいと思っている計画を絶対に中止しないのです。彼らはあまりにも自己中心になっているので、神が望まれていることに気がつかないでいるのです。あなたが神を中心においているのならば、神が望んでおられることにあなたは自分を合わせることでしょう」 耳痛い思いになられる方もいることでしょう。しかし、クリスチャンになったら、やはり神に従っていくという部分はある。次週もう少しこのことを詳しくお話しますが、神様との関係で生きていくという部分があります。 それで実際問題として、私たちはどう応じているか。第一、自分の計画したことをまず実行し、それから自分のスケジュールのあいている時に、神の計画を行う。第二、神はすでに私の計画をご存知のはずなので、この新しい仕事は神からのものではないと思う。第三、自分のしたいことと神が望まれていることを同時に行うようにする。第四、神が行うとされていることに参加するために自分の計画を修正する。ブラッカビーは四つの選択肢をあげていますが、この中のどれを選択するかで、その人の信仰の中身というのが見えてくるのではないでしょうか。 ただ、神中心に神に従って生きるというと、私たちはどうも、盲目的なことを考えがちです。しかし、神は、私たちの心をねじ伏せて私たちを服従させるということはなさらない。神は愛なりと言いますが、私たちが喜んで進んで従うことを期待される。そのような神の期待というのは、罪の中にある私たちには、しばしば「こころの縛り」として感じられることがある。イエス様もそのような縛りを体験された。イエス様は十字架に進んで従いましたが、そこに大変な葛藤があったことは、よく知られていることです。しかしそのような縛りの中で、イエスは祈るわけです。そして肉なる心に勝利し、神の喜ばれることを選び取っていく。その結果は、主の栄光の復活ということであります。主は、私たちの祝福のために、あえて、私たちに困難な道を進ませるということがあります。また、私たちの聖めのために、あえて、私たちに苦しみを選ばせることがある。クリスチャンにとって困難や苦しみは、決してそのままで、あるいは破滅に至り終わるようなものではなく、私たち自身に主の最善をもたらすものとして返ってくるものでもあるのです。主の進めに、喜んで従いたいものです。
2003年03月23日
「こころを尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ(マタイ22:37)」
フィリピンでスラム地区の住宅を改築する作業をしてきました。現場指揮を担当していた牧師が、「愛というのは具体的なこと、知識ではなく行動である」と語ったことばが、思い出されます。 関心を向け、時間を割き、物を与える、こういう具体的な行為が人に対する愛を示していくとすれば、やはり、神を愛するということにおいても同じだといわなくてはなりません。私たちは、神に愛されること、いわば祝福を受けることばかりを求めますが、神に愛し愛される関係の中でそれを求めるということではないことがあります。 神様のために時間を割き、神様のために自分自身をささげていく、こういうことはあまり考えないところがあるのではないでしょうか。あるいは、考えて、そうしているつもりであったりすることがあるのではないでしょうか。 私は、最近そういうことを考えさせられました。私は他の献身者と同様、神様のために自分自身の一切をささげている、そう疑わぬところがありました。ところが、ある出来事を通して、確かにささげてはいるが、実際には自分のためにささげてきた部分もあることに気づかされたわけです。もちろん、利得を貪り、人を利用するという意味で「自分のために」というのではありません。むしろ、こういうことです。人間というのは、過去に痛みがあると、そういう痛みを乗り越えようと何とも大変な努力をする、自分の過去を取り戻すために、自分自身を回復させるために、大変悲しいまでの努力をする、そういうところがあります。自分自身に対するマイナス評価をはねのけたくて、一生懸命、プラスの自己を演じ続けていく、というところがあるものでしょう。そういうところがあると、宗教的な生活というのは、ある意味で無私無欲、慈善、救済がテーマですから、すっかりこれにはまってしまうわけです。つまり自分というものをよくわかっていないと、純粋に、真実に神を愛しているようでありながら、実際には、自分のために、自分を取り戻すために一生懸命他人なり神なりを愛する、ということが起こってくるわけです。 「こころを尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」とのことばに、私たちはそうしたいと願わされるものですが、自分の心の痛みや自分のこだわりが絡んで、そうしているということがあります。自分をよく知る、自己理解を深めるということが、いっそう自然に、喜びをもって人を愛し、神を愛することを実現させることにもなるのです。
2003年03月30日
「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6:33)」
24節.「だれも二人の主人に仕えることはできません」とあります。この箇所は、常に、「富に仕えることは悪く、神に仕えることが大切である」、と語られてきました。そのメッセージに変わりはないのですが、神に仕えるということが、富に仕える、いわば、富の奴隷になって仕えるということと同様に語られていることに注目したいわけです。 クリスチャンというのは、ある意味で、神に奴隷として仕えている者である。神の国を第一に求めなさいといった場合、それは神の支配を求めなさいということと同義ですから、神に完全に支配されること、いわば神の奴隷とされることを、私たちは求めなくてはならないのです。 ただ奴隷と言いますと、あまりよいイメージがありません。まして「神の奴隷」などというイメージは様々で、恐ろしさを感じるイメージを持つ者もいることでしょう。 古代の奴隷は、自分の体、自分の所有に対する権利を持っていませんでした。まったく主人の意のままでした。けれども、神は、私たちに自由な奴隷であることも許されているのです。ここに、今日のクリスチャン像のばらつきも出てくるわけです。だれもかれもが神の従順な奴隷かというとそうではありません。自分の思いを神のみこころとすりかえて、神の従順な奴隷を装う者もいる現実はあるのではないでしょうか。それだけに、神の完全な支配を求めるということは、神のことばに何よりも注意深く聴く心がなくてはなりたたないことでもあるのです。 そしてまた、神が、私たちに自由な奴隷であることを許されているというのは、私たちが神の所有である「自己」なり、神の所有である「私たちの所有物」なりを正しく管理することを期待されているということでもあるのです。 「富や金銭や物質を持つということは、罪ではなくして厳粛な責任である」と言われるように、私たちは、所有せるものを正しく用いていかなくてはなりません。あるいは、今までの自分史を振り返り、今の財なり所有がどのようにしてできたものであるかということを考えてみたらよい。その財なり所有が、正しく分かち合われることなく、あるいは、神に返すべきものを返しておらずにできてきたものである、とすれば、それは悔い改めねばならぬことです。神の国とその義とを求める、神の完全な支配を求める、神の奴隷であることを求めるということは、結局は人間として恥ずかしくない生き方をするということに通じるものでしょう。
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2003年04月
2003年04月06日
「私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心をあわせ、志を一つにしてください。(ピリピ2:2)」
思えば、14年も前、駅前のトイレ共同のアパートの一室を事務所にして始まった開拓伝道。それがようやく会堂を持つにいたりました。レンタルルームや、インターナショナルハイスクールの一教室、地区会館など場所を転々としましたが、今日まで礼拝の場を神様に守っていただいたなあと思います。それでただ礼拝を守るという意味では、いまさら会堂を持つ必要もないだろう、と思うのですが、私たちはさらに自分自身をささげて、神様のすばらしい福音を告げ広めてまいりたいと思います。キリストにある十字架愛を伝える、そういう志に、神様が祝福を与えてくださって、この場を与えてくださったと考えるべきでしょう。新しい会堂を主にささげ、感謝と喜びをもって主の救いの恵みがいっそう伝えられるために努力してまいりたいところです。 さて、フランシスコは、こういう祈りを残しています。平和の祈りというものですがその一部を見て見ましょう。「神よ。私をあなたの平和を実らせるために用いてくださり。私が憎しみのあるところに、愛をもたらすことができるように、また争いのあるところに和解を、分裂のあるところに一致を、疑いのあるところに真実を、絶望のあるところに希望を、悲しみのあるところによろこびを、暗闇のあるところに光をもたらすことができるように、助け導いてください。」 パウロは教会の一致を勧めるのですが、そのもっとも重要な点は、どんな内容で一致するかです。おおよそ宗教は価値のスリ合わせで成り立っている。一つの価値によって立つことで成り立っているのです。だからどんな価値によってたっているのかには、注意が必要。それで、キリスト教の価値のもっとも重要な部分は、十字架愛です。平和をもたらし、いのちをもたらす十字架愛です。フランシスコの祈りは、それをよく物語っている。 それでこういうことはわかっていると思われているふしがある。けれどもわかっちゃいないのが現実でしょう。だから一致を、十字架愛の一致に成熟をというわけです。 また、パウロは、「私の喜びが満たされるように」、という言い方をしている。教会が一致するということは、誰かに影響を与えることなのです。この教会も私たちの力だけで建て上げられたわけではない。さまざまな諸教会の祈りと支援によって今日まで至っている。私たちの働きを見守り、支え、喜びと苦難をともにする人たちがいるということを忘れてはいけません。私たちの十字架愛での一致ということが、よき証となることを心がけていきたいものです。
2003年04月13日
「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない(創世記28:15)」
私ちの人生には、一人孤独に思わされるようなこと、というのはいくらでもあることでしょう。孤軍奮闘、何の助けも期待できず、行き詰まり、希望をなくし、途方にくれる、そんなことがあるものでしょう。 ヤコブもまた同じであったといえます。色々と、人生のいたずらに翻弄されるように、彼は家を追い出されて、孤独な旅に出るわけです。誰も彼を味方する者もなく、一人でたっていかなくてはならない、そのような状況に追い込まれる中で、彼は、そんな彼とともにおられる神に出会います。 私たちは、「たった一人だ」と思わされるようなことがあっても、そこで肩の力を落としてはなりません。神がともにおられるからです。そして神は、約束されるのです。「見よ。私はあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない」 自分が惨めな思いをした地に神は再び連れ戻されるという。それはあまりうれしくないことのようにも思われます。しかし、神は私たちに恥じや不名誉な結末をもたらすような方ではありません。その後のヤコブの生涯が示すように、神は、ヤコブの顔が立つようにしてくださるのです。 大切なのは、そのように語ってくださる神を信頼して受け入れていくことができるかではないでしょうか。この世には、私たちのために生きて働かれる神がおられる。私たちを案じてくださる神がおられる。私たちに最善をなしてくださる神がおられる。 ヤコブは言いました。「主が私の神となってくださるので、私が石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜る物の十分の一を私は必ずあなたにささげます」ヤコブのいわんとすることは、神と共に人生の歩みを進めていこうということです。神とのかかわりの中で生きていこうということです。 神はすばらしいものであろう、と思っていても、実際に神とともに歩んでいくということをしないならば、そのすばらしさを本当に理解することなどできないことでしょう。山を眺めてすばらしいと思いはしても、山を登らなくては、そのすばらしさの深みというのはわからないのと同じです。神を信じるということは、神とかかわって生きていくということを決意し、神とともに、人生のあれこれを考え、行動していくことにほかならないのです。
2003年04月27日
「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪みに定められることは決してありません(ローマ書8:1)。」
罪に定められない、だからどうなのかということを、今日は考えたいわけです。聖書が教える最も大切な部分は、罪からの救いということです。人間が罪人であるという現実に私たちは立つわけですが、それはなんとも私たちにとっては耳痛いこと、あるいは、私たちにはどうも耐え難い事実を直視するようなことであるかもしれません。しかし、自分をごまかすことなく、正直に自分に向かい合うならば、だれしもがやはり罪人としての現実というものを、考えるにつれ、自分にも神の救いが必要であるということを思わされるものでしょう。 そこで聖書は、そういう罪意識にさらされた一人一人に、「あなたはもはや罪に定められない」と宣言してくださるわけです。あなたの罪は赦されていると。しかし、それでどうなのか、という部分が実はもっと大切なわけです。 ある先生とお話をしました時に、キリスト教教育の目標は何かということで実にきれいなまとめ方をしていただいたことがありました。それは、三つのことばでまとめられるわけです。第一に to christ であり、第二に in christ であり、第三に for christ であると。to christ ということは、キリストに導くということです。つまりまだ神様を知らない人を神様に導いていく。キリストの十字架の元へと導き、罪の重荷を降ろさせ、救いを得させるということです。そして in christ というこ とは、救いの完成のプロセスへと導くこと。罪の重荷を降ろしたということで終わりではないわけです。キリストの中へと導いていく、別の言い方をすれば聖化ということ、きよめの人生へと導くことです。その前提には、私たちとキリストとはかけ離れた者であるという前提があるわけです。キリストは光であって、私たちは闇である。だから、キリストの光の中へ中へと導かれていく、そして光の子として変えられていく。 それで大切なことは、もはや罪に定められないということは、この次のステップに入っていくということを自覚するということです。神様に救われた、罪赦された感謝で終わりではない。あなたはすばらしいで終わりではない。むしろ、私たちが自らが変えられていく、キリストに似たものとなっていく、キリストの品性に与っていく、キリストの愛なり聖なり、義なりといったものが、私たちのうちに確かに形作られていくということを大事にしていくということです。 今週も主の恵みに守られ、導かれながら、キリストのきよさへと前へ召しだしてくださる神様にお従いし、信仰的にすすませていただくこととしましょう。
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2003年05月
2003年05月04日
「そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル、サムエル」と呼ばれた。サムエルは、「お話ください。しもべは聞いております」と申し上げた。(Tサムエル3:10)」
榎本先生という方は、祈りには二つの種類の祈りがある、といいました。一つは、「しもべは話します。主よ、お聞きください」というものであり、もうひとつは「しもべは聞きます、主よ、お話ください」というものだ、というのです。 私たちの祈りは、いわゆる神社祈願の祈り、「しもべは話します、主よ、お聞きください」というものであることが多い。クリスチャンとしても同じです。何年クリスチャンとして信仰生活を続けても、祈りにおいて変えられていない、サムエルのように「しもべは聞きます、主よ、お話ください」ということにはなかなかならないことが多いのです。 しかし、今回私たちの中には、会堂の件でこの祈りそのものを教えられた、と思わされた人が多いのではないでしょうか。私たちはこの会堂取得の件で、色々な試みを通らされました。私たちはこの会堂取得に踏み出す前に、祈りを重ね、私などもへブル書を読む中で、主は前に召しだしてくださるお方であると、いうことを教えられて、その主を信頼して、一歩踏み出したはよいものの、次は、と思わされるようなことがあったわけです。そういう中で、私たちの祈りは、「これだけの必要がありますが、主よ目標額いくらいくらを与えてください」ということにはならなかったわけです。というのも、私たちは神は愛のお方であるし、私たちに最善をなしてくださるお方であるし、何よりも、私たちを前に召しだしてくださるお方である、私たちに必要なものはそのいっさいを与えてくださる、ならば神がこの事態を許されるのはどうしてか、その神の御旨はどこにあるのか、私たちの祈りは、神の胸の内を聴くというものでした。このようにして祈りというのは、願い事を並べ立てることではなく、私たちのために最善をなしてくださる神の胸のうちを聴くということである、と教えられたわけです。 こういう祈りがなせるということの前提に、やはり、私たちが神の愛を信頼するということがなくてはなりません。神は愛のお方である、十字架愛をもって私たちを愛してくださったお方である。そう思えばこそ、私たちの祈りというのは、願い事の祈りを脱却し、静かに神の胸の内を聴く、そしてその素晴らしい御業が私たちの思いを超えた形でなされることを願い、期待し、待ち望むというものになるのでありましょう。
2003年05月11日
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています(ローマ8:28)。」
神の胸の内を聴くというのは、神秘的な体験をするということではありません。むしろ、祈った後で、何が起こるのか、ということに注目していくことです。神様は私たちの祈りに確かに応えてくださるのですから、何かが起こるはずなのです。そういう身の回りの出来事に注意を払い、変化に注目していくということです。 私たちは祈ったら祈りっぱなし、ということが多いわけです。祈ったことと身の回りに起こっていることを結び付けて考えようとしないわけです。しかし、神は愛ですし、神は常に私たちのために最善をなしてくださっています。ならば、私たちが神様を呼び求めることで、神様はすでに働いてくださっていると信じなくてはなりません。そして信じている者らしく、神様の何事かに気づいていく、静かに見守っていく心をもたなくてはならないのです。 ただ、目を凝らせど凝らせど、神様の働きとが見えないという事実もあることでしょう。神様が全く沈黙してしまわれる時があるものなのです。ヨブの物語がそうでした。ヨブは苦難の中にあって、神の沈黙に直面するわけです。このようなときに、私たちはほとほと困ってしまう。私たちの教会の例もそうです。会堂のための祈りはまさに14年間も神の沈黙の前にさらされました。その間、この教会は色々なところを通らされました。通らされて、ほとほと困ってしまう、神の沈黙に苦しみました。 しかし今こうして会堂を得てよく考えてみると、14年間いろんな荒波を通りながら、もしはじめから神様がこのように最善へと導いてくださる、と固く信じていたならば、もっと気持ちのよい14年間を過ごせたのではないだろうか、と思わされます。まさに「信仰は目に見えないことを望み見ることである」とパウロは言いましたが、固く信仰に立ち、目に見えない栄光を望み見ていたならば、私たちはもっと、不信の荒波、怒りの荒波、不安の荒波をうまく乗り越えていたのではないか。 つまり、神様が沈黙してしまわれた、と思う時にこそ、神様をさらに信頼すべき時、静かに神様が口を開くまで、神様を信頼しつつ神様の沈黙にお付き合いすべきときであるということです。そして、苦難があってもこの苦難はいつまでも続くものではない、神様は、今ままに私たちを捨て置かれる方ではない、私たちに私たちの思いを超えた神の栄光と祝福、そして神の大どんでんがえしをもたらされるお方である、と信じるべきなのです。 そうすれば、私たちはいかなる苦難においても、悲しんだり、卑下したり、怒りに荒んだりせず、むしろ喜びを持って、小さな楽しみを見出し、この時をやり過ごすということを考えることでしょう。クリスチャンの生き方に希望があるのは、神の最善を信じればこそです。そして神の最善が事実だからなのです。
2003年05月18日
「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。(エペソ4:16)」
モーセの祈りのことばにしばし考えさせられます。モーセは祈りました。「主よ。なぜあなたはこの民に害をお与えになるのですか。何のために、私を遣わされたのですか。私がパロのところに行って、あなたの御名によって語ってからこのかた、彼はこの民に害を与えています。それなのにあなたは、あなたの民を少しも救い出そうとはなさいません。」 牧会者の祈りというのは、こういうものなのでしょう。自分の羊たちの涙、悲しみを見ながら、「主よ。なぜあなたは」と祈る。 親は、子どもの生活ぶりを色々と心配するものです。また親は自分の悩みについては、神様の最善を、と忍び待ち望めもしますが、自分の子どもたちが悩むことには、どうもじっとしてられないところがあるものでしょう。それは、牧師が羊を思うそれと似ている部分があると思います。 大切なことは、牧師と一緒になって、このような親心を持って人のためにとりなし、祈る人たちが教会に増やされていくということです。 私たちは元来罪人ですから、自分のことばかり考えがちです。自分のことで精一杯というのが私たちの当たり前の姿。しかし、イエス様の十字架愛を知るというのは、「自分のことばかりで生きていくのは間違っている」、と認めることでもあるのです。イエス様の十字架愛というのは、まさに自分を捨てる行為、人が生かされるために自分を差し出す行為であったわけです。そういう生き方が私たちにも求められている。そして私たちは、イエス様のように大それたことはできませんけれども、少しばかりでも、私たちの持てるものを差し出す、たとえば十字架愛の実践として、時間を割いてとりなしの祈りをする、自分のことだけではなくて、人のために祈る、そういう奉仕に参加していくことが大切なのです。 実際、私たちは一人で自分の信仰を完成させるわけではありません。子どもの成長と同じです。子どもは社会の子、色々な人々の手によって守られ、育てられていくところがあります。一人の人間の救いと成長も同じです。色々な人々の祈りの手で支えられながら成長していくところがあるのです。逆にいえば、一人の人が成長するために、一人の人を心にかける様々な祈り手が必要なのです。 私たちが互いに一人の人の成長のために祈っていく。自分に働いてくださった神様が、この人にも同じすばらしい御業をなしてくださる、と確信を持って祈りあう。そしてそこにすばらしい証が生まれることで、さらに祈りが活性化される。このようにして教会というのは祈りの場として強くされていくのです。
2003年05月25日
「そこでサムエルは一つの石を取り、それをミツパとシェンの間に置き、それにエベン・エゼルという名をつけ、「ここまで主が私たちを助けてくださった」と言った。(Tサムエル7:12)」
私たちの世界には記念碑というものがあります。その多くは、人の功績、業績をたたえるものであったりするわけですが、聖書におけるイスラエル人の記念碑の建て方は、私たちとは違った感覚があるわけです。記念碑をして神を仰がせる、神と人間というつながりを教えようとするところがある。 たとえばアブラハムの物語がそうです。アブラハムというのは何かあると記念碑を建てる、記念となる言葉を残すということをしている。大切なのは、その記念碑なり記念のことばから、何が出てくるかということです。アブラハムの業績ではなく、アブラハムの神体験が出てくるところです。神に出会い、神への理解を深めたアブラハムを見る、そこが聖書に描かれた記念碑のポイントとなるところです。イサク然り、ヤコブ然りです。 それからモーセ、ヨシュアを見てみます。彼らの記念碑の特徴は、彼らの体験ではなく、イスラエル民族の体験を知る。ここがポイントです。彼らが残した記念碑は、イスラエル民族の神体験を物語るわけです。サムエル然り。サムエルは言いました。「ここまで主が私たちを助けてくださった」ミツパとシェンの間の石を見るたびに、またエベンエゼルという名前を耳にするたびに、イスラエル民族は自分たちとともに働き、自分たちを守り導いてくださった、神ご自身を覚えるということです。 そういうことからすれば、クリスチャンというのは、神を経験する類の人間であるといえます。ですからクリスチャンもまた神を経験した記念碑というものを持っているはずなのです。人生を振り返ってみたときに、追想される記憶の道筋に、神体験というものを記念する一里塚というものが点々と続いてきているだろうか、いなそこに思い出されるのは、自分の業績を記念する一里塚だけである、とするならば、どこか神様とは無縁に生きてきたということの証でもあるのでしょう。 「神を愛する」、と口にすることは実に易しいことです。毎週礼拝に出席する、いわゆる行事をこなす信仰生活も、体が慣れてしまえば、それほど難しいことではありません。しかし、そのような信仰生活からは何も生まれません。神を経験してこそ、神を語り伝えることばに力も出てくるものでしょう。 神を仰がせ、神への信仰を抱かせる記念碑というものを、私たちの人生の節目、節目に持っていく、それ自体が大変大切な伝道となっていく、また、私たちの歩みがより神のものとされていくことにもなるのです。
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2003年06月
2003年06月01日
「確かに私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます(Tコリント5:7)」
人の行動というのは、その人の信仰を表しているものです。私がこの地で開拓伝道を続けて来たというのは、神様がこの地にご自身の教会を完成される、私がそういう信仰を持っているということを証しているわけです。もし私がこの地での開拓伝道を5年なり、10年なりで見限ったならば、私は、神様というのは、このような地価の高いところでは、あるいは私のような程度の人間では何事もできない、と私が神を信じているありようを物語っているわけです。 おおよそクリスチャンの行動は、その人の信仰そのものを物語っている、と私は思います。人はことばで美辞麗句を並べ立てることができますが、礼拝や祈祷会出席のありよう、献金のありよう、奉仕のありよう、祈りのありよう、一つ一つが、実にその人の信仰を如実に物語っているものでしょう。行動が伴わない口先だけの人というのは、やはりそういう信仰を自らの行動で証しているわけです。 ともあれ行動を見れば、その人がどれだけ神様を大事にしているか、どれだけ神様を大きくとらえているか、だいたいわかるものではないでしょうか。 そこで問題は、私たちが神様をどのような方として信じているか、です。先日、山形で新幹線に乗ろうとした際に、例の大地震に見舞われました。新幹線がストップし、その日は、山形に一泊いたしましたが、そのことを通して、また私は神の大きさというものを考えさせられた思いがしています。 私たちは、あれこれ、自分の人生を思い巡らしますが、神様というのは、みこころのままに、ご自身の力を持って向きを変えられる、私たちのありようを一瞬にして変えることの出来るお方です。私たちが信じている神というのは、無より有を生じさせる神です。神が意志されるところに、何かが起こる、神がおられるということは、とてつもなく大変なことであるわけです。 そこで思いました。私の今の行動というのは、そのような神様を期待するものであっただろうか、神様をそのように信じることを証するものであっただろうか、と。 信仰によって生きる。ああ、この人は本当に信仰を持って歩んでいる、この人は本当に神様を大事にして生きている、そう証されるような一週の歩みへと導いていただきましょう。
2003年06月08日
「それは、地のすべての民が、主の御手の強いことを知り、あなたがたがいつも、あなた方の神、主を恐れるためである。(ヨシュア4:24)」
「あなたができると思うからこそ、させるのよ」私たちはこういう言い方に慣れています。ですから、神様と私たちとの関係も同じであると考えていることがあるのではないでしょうか。『神様は、その人が出来ると思えばこそ、そのことをさせるのである。』と。しかし、その人にできることをするようにと励ますだけの神様であったなら、そんな神様は必要なものでしょうか。人が神様に求めるものというのは、人にできないものがあるからこそではないでしょうか。 実際のところ、聖書に基づいて神が与えてくださる任務というのは、常に神の基準で考えられたもので、人間が自分の力で何とかできるようなものではありません。そこを考え違いしてはいけないのです。 私たちは神様を小さく考えて、歩んでいるところがあります。しかし、神様を小さく考えるならば神様を信じない方がましです。神様は人間が想像する以上のお方なのです。その神様の大きさの中に、生きていくのがクリスチャンです。人がみな「もうだめだ」というような時にこそ、クリスチャンは神様の大きさの中で物事を考え、「いやもう一度やってみよう」というようなことが言えるのです。 神は世界中の人々が神を知るようになることを願っておられます。ご自身の力、性質、愛情などを、世の人々が知るようになることを願っておられるのですが、人々が神を知るようになる唯一の道は、神がみわざを行っていることを、はっきりとしめすことです。私たちにもできることではなくて、神のみが行える御業に私たちが与るときに、世の人々は神を見出すのです。 このようにキリスト教会が神の御業そのものを証していくときに、人々は教会に神がおられること、クリスチャンとともに神がおられることを知るのです。
2003年06月15日
「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い(イザヤ55:9)」
イギリスの宗教改革者ラティマーとリドレーがオックスフォードで火刑に処せられたことは、有名なお話ですが、年長のラティマーは、火刑に際して次のように語ったそうです。「リドレー君よ、男らしくふるまおう。今日。われわれは神の恵みによって、いつまでも消されないような灯火をイギリスにともそう」なんとも勇敢で信仰的で模範的です。こういうエピソードが聖書という正典に収録されず、情けない失敗談が収録されている、実に不思議なものです。 旧約聖書に出てくる預言者エリヤは、「王よ、あなたよりも権威のある神が、あなたに裁きをもたらす」と宣言していながら、王の抜き身の剣を見るや否や尻尾をまいて逃げてしまうわけです。なんとも情けない。預言者エリヤは神の預言者として立っていくにはあまりにも弱い自分に、ほとほと嫌気がさしたのでしょう。彼はもう死にたいと弱音を吐いています。 しかし、神は人間の弱さをご存知でありながら、あえて弱い者をご自分のしもべとして、お選びになるお方です。 神はエリヤをホレブの山へと導かれます。ホレブの山はその昔、神の霊感を受ける山として大切にされた山です。そこまで40日40夜かかっている。さっさといけば1週間ほどで行ける距離でしょう。それほど時間をかけたところに、エリヤの後ろ向きで、上げようのない落ち込みを感じもします。だらだらと歩いたのではないでしょうか。自分の弱さにのみ目が行き、自分の弱さに拘り、迷いに迷い続けて、神の前へと出て行った。 こういうことは私たちの普通の経験です。落ち込んだ時にこそさっと聖書を読めるか、神の前に立てるかというと、決してそうではないことが多いのです。しかしそのような私たちに神は語られるのです。 神はエリヤに語りかけられました。エリヤの思いを超えたご計画をです。エリヤもまさか世界情勢が変わっていくとは夢にも思わなかったことでしょう。アハブ王とイスラエル人の横暴が続いていく、堕落し腐敗した世の中が続いていくと思っていたはずです。しかし、歴史を握られるのは神です。 そのような神を覚えて、従いきれない自分に終止符を打つ。自分を変える決意をなすことが大切なのです。2003年06月22日
「立って、『まっすぐ』という街路に行き、サウロというタルソ人をユダの家に訪ねなさい。そこで彼は祈っています」(使徒9:10)
使徒の9章をパウロの回心の物語である、と考える人は多いはずです。しかし、これは回心ではなく降伏の物語なのです。 私などは思います。もしパウロがイエスの存在と主権を認めるだけであるなら、何も三日三晩盲目にさせられる必要もなかった、と。しかしそうさせられるところに、これが降伏の物語としての意味をもつわけです。 実際パウロは盲目という牢獄の中に閉じ込められた三日間で何を考えたであろうか、と私は考えます。キリスト者の復讐を考えたでしょうか。盲目の状況で、敵意にさらされることほど恐怖に陥れるものはなかったはずです。パウロは、そんな中で敵意ではなく、赦しをもって向かい合ってくれるアナニヤの到来を祈り続けたわけです。しかし実際のところアナニヤは、パウロの残虐さを覚えていました。パウロもそのことを重々承知だったことでしょう。なんら朗報を期待しえない立場に置かれ、彼は何を考えたか。そしてその成り行きはどうであったか、パウロの耳に響いたことばは、信じられないもの。「兄弟サウロよ」でした。もはや捕虜としてではなく、兄弟として、回心した者として、扱われた瞬間でした。 三日三晩、聖書においては象徴的なことばであるようにも思われます。ヨナの三日三晩、イエスの三日三晩、それは意味のある苦しみ、意味ある潜行の時でもあります。 パウロにとっては、その盲目の三日三晩は、ただたんにキリストの存在と主権を認めるためのものではなかった、むしろ、敵意を向けられ、告発され、囚人とされ、裁判にかけられていく、キリスト者が置かれた苦しみに共感しえた三日間であったのではないでしょうか。パウロが真にキリスト者の苦しみを味わい、キリスト者の友とさせられていく三日間出合ったようにも思われます。 また「多く赦された者は、多く愛する」と聖書は言います。パウロが苦しんだのは、わずか三日三晩。しかし、その苦しみの深さというのは、生涯に影響を与えるものでした。事実、パウロは、その後、全く変えられた生涯の一歩を踏み出すのです。キリストに自分自身をささげきっていく、兄弟姉妹の先頭に立って進んでいくわけです。神様の救いを感謝する人は多い、神様の愛や平安を口にする人は多い。しかし、パウロのように、身をもって神の愛や平安を語り伝えていく人は少ないものです。 私たちもパウロのような三日三晩に象徴されるような出来事を経験させられることがあるかもしれません。しかし、そのような経験を大事にし、真にキリストの命に生きる一歩を踏み出す者でありたいものです。
2003年06月29日
「あなたがたのうちに良い働きをはじめられた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです(ピリピ1章6節)」
いくつかの考え方を整理しておきます。第一に神というのは、私たちにはできないような働きへと、私たちを召しだされる。モーセが、イスラエルの指導者として召しだされたのは80歳でした。上昇志向の人間にとっては、ある地位に抜擢されるということは喜びでしょう。しかしモーセにはそうではなかった。ポストの背後に、芋づる式にぶら下がっている様々な責任を覚えたのかもしれません。物事の裏表がよく見える年齢であればこそ、モーセは神の大抜擢にすぐ従順になるというわけにはいかなかった、と考えさせられます。しかし、理性的に考えて、計算してためらう、断りたくなるような事柄へと、神は敢えて人を召しだされる。なぜか。神にしかできないような働きへと私たちが参加していくことで、私たちが神ご自身、神の目的、神の計画、神の力、神の愛、といったものを深く知るためなのです。 第二。神というのは、神が考えておられることに私たちを召しだしてくださる。仕事がうまくいくように、夫婦が幸せになるように、病気がよくなるように、と自分の頭の中にある欲求をストレートに神にぶつけて、物事がうまく動いていくこと、それを信仰だと思っている方がいるかもしれません。自分の考えたことを神のためと思って、奉仕に喜びを抱いていることがあるかもしれません。しかし、神が私たちの祝福のために、と考えてくださっていることがあるのです。 二番目の子どもが与えられた時、喘息という病のために、随分と病院通いをいたしました。薬の調整がうまくいって、今では随分楽をしていますが、一時期、看病に疲れ、この先どうなるのか、と途方にくれる思いをしたことがありました。しかし、そのことを通して、人の親の苦労というものを考えさせられたことがあります。親の立場に立ってはじめて親の様々な愛情を思い、親の思いの深さを知る、ということがあったわけです。 同じように、自己中心な願望を神にぶつけることをやめて、神の側に立って、神と共に歩んでみる。私たちのもろもろの要求を一度脇において、神に心を開き、神の思いに漂い、神の思いの中に生きていく、そうして初めて、私たちは神の情愛の深さ、神の目的、神の道というものを知るのではないでしょうか。 で、神の思いをどのようにして知るか。聖書、祈り、身の回りの出来事、そして教会という四つの手段によってです。大事なのは、自分に対する神の思いではなく、教会に対する神の思いです。絶えず信仰を個人的に考える癖を止めましょう。教会にかかわること、もっと言えば、歴史的な流れの中で今日までに至り、さらに神が完成に導こうとしておられる普遍的教会にかかわる神の思いというものを考えましょう。 教会が心を寄せ合って、神のご計画の遂行を求め、そのために祈り、示されたことをしていくならば、神の大きな御業にあずかることになります。そして神ご自身、神の目的、神の性質をよりよく、より深く知ることになります。
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2003年07月
2003年07月06日
「それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。 」(Tコリント12:25,25)
英国の説教家ジョン・ウェスレーは、「クリスチャンには最初から二つのタイプの人たちがいる」と言います。大雑把な言い方ですが、ただクリスチャンをやっているという人と、信仰を極めようとしている人、あるいは、ただ教会を出入りしている人と、あらゆるよい業に熱心で全面的にキリストと一つになろうとし、神に従って歩もうと勤める人、です。ですから、ウェスレーは言うのです。クリスチャンというのは、常に高い道に進むか、それとも低き道にとどまるかいずれかの選択を絶えず迫られていると。神様はクリスチャンをさらに勝る道へと絶えず招いてくださっています。 たとえば祈りにおいてさらに勝る道があります。あるクリスチャンにとっては祈りは単なる習慣であり日課です。しなければ気持ちが悪い、そういうものであったりします。しかし神様が招いてくださっているさらに勝る道は、心を注いで神の御旨に探り祈るということです。口を開けば、「どうぞ神よ、自分の仕事を祝福してください、自分の妻を支えてください、自分の家族を守ってください」と自分の関心の範囲内だけで自己中心に祈られるだけである、というのはクリスチャンにとって情けないことではないでしょうか。私たちは、全世界に目を注ぎ、全ての人々の心の必要に心を砕いておられる神様を信じているのです。神と共に目を高く上げ、神の庭をぐるりと見渡し、目にとどまるもののために心を注ぎだして、熱く祈るよう、あなたは召されているのです。そのためには、祈りの課題を共有することに、もっと自ら心を開かねばならぬ人もいるのではないでしょうか。祈祷会も、お互いの気持ちや望みや事情が深く語られていく時に、私たちの祈りをさらに勝る道へと進ませる場となることでしょう。 また、仕事においてさらに勝る道があります。クリスチャンはただ自分と自分の家族に必要なものを備えるために働いているのではありません。神は、クリスチャンをこの世にお遣わしになり、神のみこころを行うようにと期待しておられます。神様がゆだねられたものを神の御心に沿って正しく管理し、正しく発展させていくことを求めておられるのです。そういう意味では、仕事のみならずゆだねられた財産にも私たちは常に神のみこころを求める必要があります。クリスチャンにとってお金をもうけるということは決して卑しいことではないのです。むしろ大切なのは、もうけたお金をいかに神の愛と聖さと義に照らし合わせ、神の期待に沿って、正しく、用いていくかということです。 何事にも無関心である、という世的な心を持っていては、決して神にゆだねられたものを正しく用いることはできません。そのためにも、私たちは十字架愛においてさらに勝る道を進むようにと召されています。主の恵みによって尊い気づきが与えられるように、そしてさらに勝る道、信仰の高嶺へと今週も進ませていただくこととしましょう。
2003年07月13日
「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。」(ローマ12:9)
ブラッカービー牧師は、ある思いやりのない夫に腹を立てた奥さんの事例を取り上げています。ブラッカービー牧師は、腹を立てた奥さんに対して罪の悔改めを迫るわけです。ちょっと驚きです。なすことが逆さまではありませんか。悔改めを迫られるべきは夫ではありませんか。しかし、そうではない。というのも、「思いやりのない軽率な人間に」傷つけられたから傷つけ返すというのであれば、それはまるでこの世そのものではありませんか。「目には目を、歯には歯を」の世界を引きずっているのです。しかし、クリスチャンはそういう古い生き方を脱ぎ捨てて、十字架愛の新しい生き方へと召しだされているのです。自分をまさに剣で刺し殺そうとしている人たちに向かって、「父よ、彼等をお許しください。彼らは何をしているのかわからないです」と祈ったキリストの弟子となるように、と召されている。 しかし、こういうことはなかなかできたものではありません。できたものではない、と思われるような出来事に遭遇する時にこそ、私たちは私たちの罪人の現実、クリスチャンとしての未熟者の姿を認めさせられるのです。 そう考えてみると「思いやりのない軽率な人間」の存在というのは、手厳しいものに違いはありませんが、クリスチャンの霊性をより純化させていく坩堝のようなものとすら言えます。ですから、私たちは、そういう「思いやりのない軽率な人間」に痛い目に合わされるようなことがあったら、そこで非難しかえすのではなくて、むしろ、その人を正しくお裁きになる神の御手にゆだねて、実際にはそうできない自分自身を問う機会とする、ことが大切なのです。そのことによって、私たちは自分自身の罪認識というものを深めます。私たちがいかに変えがたい頑な心の現実を持っているか、ということがわかるようになる。そういうことがわかってはじめて、私たちは真剣に自分自身の心の奇跡のために神に祈るのでもありましょう。 神を信じるなどということは自分の選択であって奇跡でもなんでもないという人がいますが、それは間違っています。信仰というのは自分で持つものではなくて、神に与えられるものである。神のいのちに触れられて、新しく変えられていくことである。神の奇跡がなされることである。そのようにして、私たちが日々、神のみことばの真理に触れて、神様に変えられた生き方をしていく時に、私たちの生活は真に平和で円満なものになり、また私たちの教会をも強くし建てあげられていくということになるのではないでしょうか。
2003年07月20日
「それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。 」(マルコ16:15,16)
イエス様は、私たちにはっきりと全世界に出て行って福音を伝えるように、と示されている。全世界に、といっても、私たちの現実は、なかなかそうはならない。実際、家族にすら信仰を伝えられない現実があることでしょう。その原因は色々でしょうが、最も考えるべきことは、クリスチャンが具体的な生活の場で、十字架愛に生きていない問題です。先週の例ではありませんが、たとえば夫婦がお互いの問題を十字架愛で乗り越えられない。ただお互いに攻め立てあう。そういうことは世の中では当たり前のことであっても、十字架愛を語るクリスチャンが同じでは、周りで見ている人たちは、結局、クリスチャンに興味を持つことなどできないでしょう。 同じように、教会の問題を十字架愛で処理できない。世の中の組織と同じに、陰口や批判をしているようでは、まずその人の家族が教会に来ることはないでしょう。家族に伝道をうまくしていこうと思ったら、生活の隅々にまで十字架愛に生きていくことなのです。 実際、信仰というのは頭の中だけのことではありません。毎週礼拝で説教を聴いて、信仰図書も読んで、内面が豊かになる、心大きくなったつもりになる、そういうことがキリスト教信仰なのではありません。あるいは、毎週まじめに教会に出席する、礼拝儀式をこなす、そういうことがクリスチャンなのでもありません。クリスチャンであるというのは、常にキリストの十字架愛に生き抜くことである。十字架愛に生き抜けない自分の現実、罪人の現実に向かい合いながら、神の力によって日々変えられた生き方をしていくことです。 自分を捨てて生きている人は、誰の目にも明らかです。同様に自分に執着して自分のことだけを大切にして生きている人も、明らかでしょう。まず十字架愛に生きることが、家族に福音を伝えることになる。それは、決して大それたことではなくて、具体的な生活上のことです。 その上で、神が私たちを家族の外へと召しだしておられることにも思いを寄せていかなくてはなりません。そういう意味で、私たちは、他人に無関心でいてはならない。色々な方々へ心を配る必要がある、世界宣教のビジョンというのは、そういう中で起こってくるわけです。全世界に出て行きなさい、というので、じゃ、明日から、パプアニューギニアに行って福音を伝えますとか、アフリカに行きますとか、そんなことができるわけではない。むしろ、私たちの手となり足となって海外のフィールドで活躍している宣教師と共に祈ることを通じて、宣教に参加できる、あるいは、その宣教師の必要に答えることで参加できる部分があるのです。 私たちに潜在する無関心をなすがままにするならば、教会の働きというのは、わずか志のある者たちだけのものになってしまいます。それはとてもいい働きに違いないとしても、弱いものです。やはり人間はたくさんの力を必要としている。多くの人たちの好意と協力の中で一切の事柄は進んでいく。そういう意味で、私たちが自分だけではなくて、他人にも、さらには大きく視野を拡大して世界の人たちに目を向けて、共にその必要を担う者でありたい、それがまさに、十字架愛に生きることにもなります。
2003年07月27日
「地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります」(マルコ4:28)
「神の国は、人が地に種を蒔くよなもので」とあります。まず、「神の国」というのは何か。これは天国であると考えると同時に地上の教会でもあると考えるべきです。つまり地上の教会は天国の先取りであり、その一部であるということです。しかし、地上の教会は、しばしば、天国などとは思えない様相を呈していることがあります。コリントの教会がそうであり、テサロニケの教会がそうでした。教会が教会らしくないというのは、別に驚くほどのことでもありません。むしろ、教会は教会らしくないところから教会らしくなっていくのだ、いわば神様の助けによってしみやしわや、そのようなものの何一つない聖いものとして完成されていくものなのだということです。そうなりますと、「教会がごたごたしている、ぎすぎすしている、こんな教会は教会ではない」と教会を飛び出してしまうというのは、聖書的な考えではない、ということがわかるはずです。他の教会へ飛び出ても同じこと、その教会の一員となって、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとされていくこへの献身が求められることに変わりはありません。ありもしない理想の教会を探して転々としてしまうようなことがあってはならないのです。 それでは、栄光の教会へどのように変えられていくのか。「人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません」とあります。つまり当たり前のことを当たり前にするということです。実が実るためには、種を蒔かなくてはなりません。そして、実が実るまでの期待を待たなくてはなりません。「夜は寝て、朝は起きて、そうこうする」という部分も大切なのです。パウロは、言います。ガラテヤ6:9,10「善を行うのに飽いてはいけません」失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。ですから、わたし達は機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行いましょう」結果を出してくださるのは、神様です。私たちに求められているのは、当たり前のことを当たり前にしていくということです。「夜は寝て、朝は起きて、そうこうする」という部分を持つということです。そう考えていくと、教会の働きというのは、取り立てて難しいことではありません。もっとゆったりと構えて取り組んだらよいのです。 農夫は、自分の蒔いた種が豊かな身を結ぶことを願うことでしょう。しかし、その種は、もしかしたら大雨に打たれて流されてしまうかもしれないし、せっかく芽を出したものの日照り続きで枯れてしまうかもしれないし、大切な実を鳥に食べられてしまうかもしれないし、農夫の責任の外にある要因で結果が左右されるということはたくさんあるわけです。ですから、結果を自分の責任にしてことさら自分を責める必要などないのです。むしろ、神の深いご計画のもとですべてがなされていることを覚えて、主の恵みと守りにゆだねて、種を蒔き続けて、夜は寝て、朝は起きて、そうこうして、日々を静かに受け入れ、豊かな実に希望を抱き喜びをもって祈りつつ歩むことが大切です。
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2003年08月
2003年08月03日
「その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を まかせよう。主人の喜びをともに喜んでくれ』」(マタイ25:21)
今週は、別の角度から神の国についての真理を学ぶことにします。聖書がはっきりと語っていることは、神様は、教会に集っている一人一人に、何かを預けてくださっている、ということです。こういうことをはっきり自覚できるようになることが、このたとえ話を読む利点です。あるクリスチャンたちは、何年もただ教会に通うだけの信仰生活をしているかもしれません。神様が何かの使命なり責任を与えてくださっている、ということに非常に無関心で、ただ自分流にクリスチャンらしい生活をしている、ということがあるかもしれません。しかし、私たちに求められていることは、聖書から学んで、神様の期待に一つ一つこたえていくことです。
そこで、聖書は、私たちが、神様に預けられたものがある、というのです。そして神様は、しばらくして、その預けられたものをどう用いたか、その報告を求められるということを言っている。
能力に応じて、ある人には5タラント、ある人には2タラント、そして別の人には1タラント、と預けてくださったものがある。タラントというのは何か、結論から言えば、救いのことばを語ること、種まきをする、ということです。そして5とか2とか1とかいう量は、救いのことばを語る機会と理解すべきものです。簡単に言えば、ある人には能力に応じて、5人の人に福音を語る機会を種まきの機会を与えられた。別の人にはその能力に応じて、2人の人に、あるいは1人の人に機会を与えられたということです。
問題は、その機会をちゃんと生かしているか、神様がその報告を求められた時に答えるものがあるかどうか、ということです。三人の内、二人は喜ばしい報告をしましたが、最後の者はそうではありませんでした。最後の者は言うのです。思い切り開き直って、神様に対して、あなたは悪どい方だ、腹黒い方だ、とわかっていたので、私はその機会を生かさなかった、と。こういうことはありえないと思うでしょうか。否そうではありません。事実、自分がそうしないのは、ある人のせいである、と他人を攻撃して、なすべきことをしない、そういう人間がいるものでしょう。「こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です(ヤコブ4:17)」。神の国、つまり教会というのは、神に委ねられたものを自覚し、そのことへの責任を喜んで果たすことが求められている場なのです。
2003年08月10日
「そこで、イエスは彼に言われた。『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』」(マタイ22:37)
神を愛するということは、どういうことか。私たち日本人には、一つの目に見えないものを大切にするという風習があります。私は小さなころ、仏前に何かを備える時には、真っ先に、よいものを、と教えられたものです。旧約聖書に は、同様のことを教えているところがある。目に見えない神様を大事にするというのは、最初のものを、最良のものをささげる、ということだと。
ところが人間形のことを言い出すと、形さえ整っていればよい、ということになりかねません。心が神様から遠く離れていながらも、礼拝は立派にこなす、立派なささげものをする、ということがあるわけです。(イザヤ1:11)そこで、私は、神様を大事にするということは、自分にとって最も大事なものをささげることだ、と言い換えたいわけです。レプタ銅貨のたとえにあるように(ルカ21:1−4)、自分にとって命であるものをささげていく、そういう関係を神様と結んでいるかどうかです。
第二に、神様を愛するということは、神様の命令を守ることです。聖書は、このことを率直に語っている(ヨハネ14:23)しかし、これもまた命令を守るということを言い出すと、どこか人間は律法主義という極端に走りかねません。そこで、これも、神さまを大事にするということは、神様の命令を守ることだけど、それは人を愛するということで言い換えられているということに、やはり注目したい(Tヨハネ4:20,21)。
こういうところで、神を愛するということと人を愛するということは同じことになるわけです。ただクリスチャンが人を愛するといった場合、それは好きな人を愛するというのとは違います。敵を愛する愛を持つということです。しかし敵などなかなか愛せないのではありませんか。けれども、そういう乗り越 えがたいところを乗り越える時に、私たちは、イエスキリストが、私たちのためにどんな苦しみをしてくださったか、どんな愛し方をしてくださったか、ということを理解するのではないでしょうか。
それで、結局は、神を愛するとい うことは、あれをする、これをするということよりも、神の愛の心に感じる、心通じるものをもつというところにあるようにも思います。私たちが敵を愛する十字架愛に生きていく時に、神と心を通じる部分を持つわけです。心を通いあわせることができる、それこそ、愛するということではないでしょうか。
2003年08月17日
「こういうわけですから、キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。」(ローマ15:7)
連合宣教師 R.イスリブ師 特別説教
自分を受け入れられない人というのは、様々な問題を引き起こします。たとえば自分の存在価値を認められなかったり、自分に自信をもてなかったりするために、自分の弱さを隠そうとしますし、自分をよく見せようとしたり、有能に見せようとしたりします。それで完璧主義。権威主義に陥ります。また、人を恐れますから、人と気持ちを通じ合うことができず、心からリラックスしたり楽しんだりすることができず、いつも喜びがない、といった調子です。
こういう問題をどう解決したらよいでしょうか。それは自分についての間違った信念(belief) を見つけ出し、神のみことばの真理に沿って修正することです。そのために、私たちは正直にならなくてはなりませんし、勇気を持たなくてはなりません。その作業の過程で、私たち自身が危機的状況に追い込まれることすらあるからです。
そこで、私の場合ですが、私は、クリスチャンカウンセラーの助けを借りて自分の心を探り、自分が間違った信念を持っていることを発見することができました。神は私を受け入れてくださっており、愛してくださっている、ということを自分の頭では、理解していたつもりですが、心底わかっていたわけではなかったのです。「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」聖書のことばを暗唱しながら、私は、深い感情のレベルで神が私の味方であることを覚えることができたのです。
神はいつも私たちの味方です。何年もクリスチャン生活を続けながら、今頃こういうことを実感できるようになる、というのはおかしなことですが、クリスチャンも成長していくにすぎないということでしょう。しかし、神に受け入れられているということを、しっかりと実感できるようになってから、私は自分を受け入れられるようになりました。そしてさらに他の人をも受け入れられるようになりました。 また、人に受け入れられるという経験を通して、自分自身を受け入れられるようになりました。わたし達は、聖書が勧めるように、互いに受け入れあうことが大切です。キリストが受け入れてくださったように、つまりその人のよいところも悪いところも知った上で受け入れるという、十字架の愛によって、私たちも互いに受け入れあうのです。
2003年08月24日
盛岡聖書バプテスト教会若井啓治師
詩篇119篇というのは、ヘブル語の言語で読むと、「いろは歌」であることがわかります。最初の読み出しが同じ音で始まる短い詩が、アルファベット順に並べられてできているわけです。それで詩篇の中でも最長のものになっているわけです。
「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です(詩篇119:105)」
さて、「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」とあります。みことばということばには、「み教え」、「戒め」、と色々な意味の広がりがありますが、神のことばがこれまでの私の人生においても、本当に私の足のともしびであった、道の光であった、と思わされることがあります。
昨年、直腸癌と診断され、直腸摘出手術を受けました。私は主治医に申し上げました。私はキリスト教会の牧師ですから、どんな問題でも受け止める心備えはできておりますから、すべてはっきりとお話ください。主治医は、直腸癌である、摘出手術が必要であるということを率直に話してくださったわけです。このことで、私は、動揺するというよりも、むしろ神の平安の内に、自分の身に起こったことをあるがままに受け止めることができたわけです。今日は、手術後、初めての遠出でしたが、こうして皆さんにお会いでき、メッセージできることを幸いに思っています。
ともあれ、私の人生において、いつも神のみことばが私を支えてきました。これは確かなことであり、皆さんにも確かなことであると言えるでしょう。主のみことばは、私たちの人生を導く光です。主のみことばを素直に受け入れて歩むことが幸いなのです。
2003年08月31日
「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。」 (Tコリント3:6,7)
パウロの頭の中には、二種類のクリスチャンが考えられていたようです。御霊に属する人と肉に属する人。成熟したクリスチャンと未熟者のクリスチャンということでしょうか。レッテルを貼って、人を固定的に見るというのは、私も好きではありませんが、考えてみればやはり、クリスチャンにも成長の段階があるように思います。やはりクリスチャンと言っても色々の現実はあるわけです。もちろん、いつまでも未熟者であるわけではないのでしょうが、このコリントの教会の場合は、未熟者ばかり、しかも年季を重ねた未熟者ばかりという問題があった。
で、何をもって未熟者というのか。根拠は、3節。ねたみと争いにあけくれる、いわばこの世の人となんら変わらない現実のことです。具体的に、4-9節。パウロが好きだとか、嫌いだとか、アポロが好きだとか、嫌いだとか、牧師とのつながりで信仰を持っている現実。目に見えない神様に直接的に結びついて信仰生活を営むのではなくて、目に見える牧師との関係で信仰がなされていく。
そういう問題に対して、パウロは、私があなたがを救いに導いた、そしてアポロがあなたがたを養育した、けれども、大切なのは、そういうあなたがたの成長のための伴走者よりも、実際に成長させてくださる神なのだ。植物が、農夫の協力を得ながら、大地の恵みとさんさんと降り注ぐ光の祝福の中でぐんぐん天に向かって成長するように、大切なのは、農夫よりも、大地と光の恵みだ、というわけです。だから、イエスキリストにしっかりと根ざして、神に太く結びついて、成長しなさい。誰がコーチであるとか、誰がインストラクターであるとか、そういうことにあまりこだわらないようにしなさい。というわけです。
そしてどのように成長するかに注意せよ、どのように成熟するかに注意せよ、と進める。イエス・キリストにしっかり根ざして、金・銀・宝石であなたの生活を形作れ、木・草・わらはだめだ、という。金・銀・宝石というのは、人に大切にされるものです。つまり人に大切にされる生き方をしなさい、というわけです。人に愛される、人が模範とする、人が長く記憶にとどめる、そんな信仰生活、教会生活をしていきなさい、人ががっかりする、人が悲しんで目を背けてしまう、そんな信仰生活、教会生活じゃだめだよ、というわけです。 場所や人に左右されず、本当に生きて私たちとともにいてくださる、目に見えない神を信仰の目ではっきりと受け止めて、今週も歩ませていただきましょう。
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2003年09月
2003年09月07日
「まことに、その人は種のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わわった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える(詩篇1:2,3)」
一般のカウンセリングとキリスト教カウンセリングの違いは何か。問題の把握については同じであっても、やはり問題の理解の仕方に差があるように思います。キリスト教カウンセリングは、やはり心の「罪」の問題に目を向けていく、そして聖書のことばを適用し、神に信頼を置くようにさせていきます。
心の罪が解決されることが、問題の解決につながる、という考え方です。心の中の憎しみや妬み、競争心、高ぶり、そういったものが、神の力によって癒されていくこと、聖められていくことが、様々な人間の争いごとや悩みを解決していく、というわけです。
世の中では、物事がうまくいかなくなると、場所を変える、人を変える、物を変える、そういうことが当たり前です。しかし、クリスチャンはそういうことをしなくても問題解決できる術を知っているわけです。この世も悟れば極楽、悟らなければ地獄という、言い方もあるそうですが、ある意味で物事はその人の考え方次第というところがあります。そして自分が変われば、回りも変わるところがあります。自分を変えずにして、場所を変え、物を変え、人を変えたとしても、結局は同じことの繰り返しでしょう。
大切なのは、自分を変えるということが、奇跡に近い、難題であるという認識があるかどうかです。罪の手強さに対する深い認識があるかどうかです。罪を軽く見ているクリスチャンは、自分を変えることが、神の力を必要とする奇跡であるという認識にも十分ではありません。そういう人は、神を知らない人と同様に、自分を変えるためあらゆる限りの努力を尽くします。そして何度も行き詰まり万策尽きた絶望感に陥り、結局は世の人々と変わらぬ問題解決の仕方をします。場所を変え、人を変え、物を変えていく。そして場所を変え、人を変え、物を変えても変わらずにまとわり付くフラストレーションの悪循環の中に陥ることになります。
むしろ、神のことばを信頼しなさい。神のことばに親しみなさい。あなたの生活にいのちをもたらし、あなたの生活を大きく変える力のある神を信頼しなさい。神には物事を解決する力がある、そして何よりもあなたを変える力があることを知らなくてはなりません。
2003年09月14日
「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです(ヨハネ16:33)」
イエスは、ご自分を裏切る弟子たちが誰であるかを見抜いていました。しかし、最終的には、皆が自分を見捨てていく、ということをあらかじめ知っていたのです。 ところがイエスは、このようにして去っていく者たちを責めませんでした。むしろ去っていく者たちが、どのようになるかを見ておられた。
実際のところ、本当に人間らしい心のある人は、人が最も困っている時に見捨てるなどということは絶対に出来ないものでしょう。もし見捨てるようなことがあれば、それは墓場まで背負い込む苦悩となるものです。イエスは、弟子たちがそういう苦悩を背負い込むことを知っておられたのでしょう。そして自分の下に戻ってきて、自分が亡き後、自分が受けた十字架の苦しみを一緒に担う者となることを、あらかじめわかっておられたのでしょう。 ですから、イエスは、「わたしがこれらのことを(あらかじめ)あなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです」と語るのです。 イエスが最愛の弟子たちに見捨てられ、一人孤立無援な形で、十字架の前に立たせられた時、イエスはどのようにしてその恐怖、不安、苦しみを乗り越えたのか。イエスは、ゲッセマネの園で、「苦しみもだえ、汗が血のしずくのように地に落ちる」そんな祈りをしているわけです。つまり神に祈り、神に平安を与えられることでこの時を乗り越えたのです。
結婚・家族カウンセラーであるブラント師は、人間は四つの方法で、苦しみを逃れようとする。場所を変える、活動や行事に参加する、物を手に入れる、人を変える、という四つの方法である、と語っています。しかし、それらは決して根本的な解決にならない、祈り神に自分自身を変えられることが、根本的な解決につながる、と語っています。 イエスは、弟子たち、そして現代の私たちに実例を示されたのです。わたしがこれらのことを(あらかじめ)あなたがたに話したのは、わたしにあって、つまり私の実例によって平安を持つためです、と。事実、イエスを見捨てた弟子たちは、イエスの下に戻り、イエスの側に立つことで同じような苦しみを味わいます。しかし、彼らは、そのことでくじけることはありませんでした。むしろ喜びを持って、いっそう福音を証しする者となったのです。
なぜか。イエスはあらかじめ彼らに言われました。「あなたがたは世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。私はすでに世に勝った」神に平安をいただいたイエスの実例に従い、人に勇気を希望を与える、本当に人間らしい歩みをしたいものです。
2003年09月21日
「神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。 互いにしのびあい、だれかが他の人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。(コロサイ3:12,13)」
クリスチャンカウンセラーのブラント博士は、うまくいかない夫婦の問題を取り上げています。妻の言い分。夫がもう少し感謝と愛情を注いでくれたら、自分はもっと夫を愛せるのに。夫は思いやりがなく、自己中心的ですぐ怒鳴る。夫の言い分。妻は自己中心的で自分の要求ばかり押し付ける人間。結婚当初から今日まで何でもかんでも自分の思い通りにならないと気がすまない人。だから自分は仕事に精を出すことに決め、家庭と家族は妻の好きなようにさせた。
私は、このケースを読み湯浅教授の研究を思い出しました。この夫婦は実に日本的な問題を抱えています。つまり、日本人の男性は結婚3,4年目から幸福感が上昇、妻も同じですが、ところが15,6年目からどちらも幸福感が急激に落ちていく。その意味するところは、結婚当初を過ぎると、夫は仕事に生きがいを見出し、妻は子どもを出産、子育てに生きがいを見出していくのだ、といわけです。お互い、幸福そうでありながら、その幸福の根拠にはずれがある。それが、夫は、40,50を過ぎて人生の先が見えてくると、仕事で幸福感を見出せなくなる、妻は、子どもの自立によって、同じように幸福感を失っていくというのです。
ともあれ、夫婦がうまくいかなくなったときに、どうしたらよいのか。世の中の一般的な対処というのは、お互いのあり方をうまく調整することでしょう。ですから、お互いに「話し合う」という気持ちがなくなってしまえば、もうそれで終わりです。
ところでクリスチャンの方法は、話し合いに基づく調整でお互いの関係改善を図るのではありません。私たちが怒るのはあの人のせいである、あの人に変わって欲しいというような言い方をせず、むしろ、人が変わろうが、場所が変わろうが、全く関係なく私達の心の中に深く潜在する怒りの罪、憎しみの罪、ねたみの罪に向かい合うのです。そしてその罪を神の御力により頼んで、捨て去ることを心がけます。パウロは言いました。「あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨て去ってしまいなさい」そしてこう勧めます「神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」脱ぎ捨てて、新しいものを身に着ける。
自分自身をよく吟味したいものです。苦々しい思いの処理のために、場所を変え、人を変え、物を変え、と逃げ回るような生き方をしていないか。あなたがキリストを信じるならば、まず自分の罪と向かい合わなくてはなりません。そして罪の癒しを体験してこそ、私たちは、クリスチャンだと誇りを持って証しすることができるのではないでしょうか。
2003年09月28日
「まことに、まことに、あなたに告げます。人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。(ヨハネ3:3)」
残念なことですが、形ばかり、口先ばかりのクリスチャン、そんな現実があります。イエスのことばを借りれば「白く塗った墓」、「偽善者」と称される人々です。問題は、そういう偽善の塊の状況に少しも気づかない、むしろ、自分は誰よりも誠実に生きている、とすら思い込んでいる、「兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかない」人間の現実でしょう。
しかしながら、ここに登場してくるニコデモという人物、彼は他人からいかなる「目の中のちり」を見つけられるような人ではありませんでした。それはもう完璧な人生を送り、誰からも尊敬を集める、大変立派な人物であったのです。ところが、そのニコデモは、自分の心を見つめ、自分がイエスの指摘される「白く塗った墓」である、「偽善者」であるという現実に誰よりもよく気づいていた人であったようです。 イエスは、そんなニコデモに「新しく生まれる」ことを語ります。つまり、偽善性を背負った自分自身に死に、神の力で新しく生まれる、ということです。
ケンブリッジ大学とオックスフォード大学で英文学を教え、キリスト教についても多くの書籍を著したCSルイスは、「新しく生まれることなく」、つまり見せかけのクリスチャンたちを指して、はっきりとこう語ります。「天国が環境的にどんなにすばらしいところであったにしても、それは彼らにとっては「天国」にはなりえない。つまり、神がわれわれのために備えたもう深い、強烈な、不動の幸福を幸福として味わうことができない」どこか人間社会の中で、正々堂々と正しいことをきちんとできないクリスチャンというのは、「新しく生まれる」ところとはどこか違うところを歩んでいるのかもしれません。
ともあれ、イエスは、それがどのようにして起こるのかというニコデモの質問に、あくまでも「信仰」を強調するのです。新しく生まれるというのは、これから起きる現実、そして新しく生まれた生活もこれからできていく現実です。その現実を現実とするために必要とされるのは、ただ信じることです。まだ腑に落ちないニコデモに、イエスは、十字架の刑罰が、私達の罪と新しい命の代償であると諭します。CSルイスは、こういう説明が理解しにくくければ、借金返済の理屈で考えるとよいと言います。十字架の業は、私たちの不足を補う行為である、と。イエスの十字架をどのように理解しようと、大切なのは、神の聖霊の働きにただ信頼することです。あなたが真にクリスチャンとして変えられた人生を歩みたいのならば、古い罪の思いや行いを認めて、それらを脱ぎ捨てて、主が新しい命と思いと行いを与えてくださることを、どこまでも単純に信頼してゆかなくてはなりません。
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2003年10月
2003年10月05日
私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
クリスチャンというのは、二つの対比される生き方を常に意識し、よりよい生き方を目指している存在です。光の生き方と闇の生き方、命の生き方と死の生き方ということです。
具体的に言えば、光、命というのは、神の御霊の実を結ぶ生き方、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制、こういうもので心が彩られていく生き方です。闇や死の生き方というのは、憎しみ、ねたみ、怒り、憤り、分裂、飲酒、酩酊などなど、いわゆる人間にとっては、当たり前の古い性質、肉の性質そのものの生き方です。
それで、絶えず光の歩みをしたいところですが、私達の現実というのは、色々なことがあって、いつもいつもキリストの平安に満たされたものであるか、というと決してそうではありません。まあ、そういうところを突っつかれて、まるで俗人であるかのような言われ方をしてしまうと、クリスチャンとしては一番苦しいものでしょう。 キリスト教には、仏教のような解脱の概念はないわけですから、つまり「完成」に向かってひたすら精進しているのがクリスチャンの生き方なのですから、俗人的な部分があるのは当たり前、そういうところをことさらつつく必要はないわけです。
自分も同じ穴のむじなぐらいの謙虚さをもって、兄弟姉妹を霊的完成に向かって励ますべきで、落胆させるようではいけません。 そして自分の霊的欠落に対しては、厳しくあることです。自らには厳しくあって悔い改めを繰り返し、完成されていく道を踏み続けていく、ということです。
ともあれ、自分の過ちを認めることには、素直でありたい。そして悔い改めの道を進むことにおいては、敏速でありたい。悔い改めには、少なくとも二つのステップを踏んでいきたい。第一に、自身の過ちをしっかり認めることです。それも心から認めることです。第二に、変えてくださる主に信頼することです。それも心から信頼することです。ペテロは言いました。「私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方をわたしたちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです(Uペテロ1:3)」
変えてくださるのは主です。真のいのちと敬虔さというのは、神の、上からの賜物です。ですから、御霊により頼むことなきクリスチャン生活は演技というべきものです。いわば祈りによらずにして真の実を結ぶことはありません。そういう意味で互いに集まりあって祈りあうことの大切さもわかっていただけるのではないでしょうか。
2003年10月12日
「すべての人との平和を追い求め、また聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることはできません。(ヘブル12:14)」
聖書で、「聖め」ということを言います時には、「区別される」「分離する」ということを意味します。ある意味で、クリスチャンは世の人と区別される、分離される者である、と。どのように区別されるのか、どのように分離されるのか。ヘブル人の手紙の著者は三つの点を上げている。
第一に「神の恵みから落ちない」これは旅行者が旅団から遅れないことを意味すると教えられることがあります。つまり、神の恵みの座を常に大切にしている。みことばの分かち合い、祈りあい、そういうものを大切にするということで区別されるわけです。
第二に「苦い根を出さない」このことばは申命記29:18から出てきたことばですが、誠の神を拝むイスラエル人の中で外国の神を拝み、これをもたらし、悪影響をもたらした人のことを苦い根と呼んでいるわけです。そういう意味で、人を悲しませ、人を悩ませ、苦しめる、そんな人に悪影響をもたらす人にはならない、ということで区別されるわけです。
第三に「俗悪な者にならない」ここで取り上げられている例は、エサウの例です。エサウは、空腹のために、イスラエルで大切にされている長子の権利を軽んじるような言動をし、それをとがめられています。つまり目先の楽しみ、この世の事柄だけ、お金や仕事、色事、食べるもの、住むもの、乗り回すもの、こういうことばかりに関心があるような生き方をしている人を俗悪な者と聖書は言うわけです。目に見えない神を大事にする、目に見えない心遣いを大事にする、目に見えない信仰を大事にする、こういうところでクリスチャンというのは、区別されていく。そういうことが聖められることだ、というわけです。
18節以下、ヘブルの著者は、なぜ、こういう生き方をするのか。目標をはっきりと示します。私たちクリスチャンはどこに向かって進んでいるのか、というと、それは、「天にあるエルサレム」、つまり新しい世界へと招かれている、今の世界の延長ではなくて、全く新しい世界、黙示録にはそのようなビジョンが描かれています。さらに、「無数のみ使いの大祝会」に近づいている。ギリシャ語でパネーギュリスということばは、国民がこぞって神々をたたえて祝う楽しい祭日のことを言いました。この祭日には、すべての国民が神々を祝い、喜び楽しんだ。そういう喜びの場へと私たちは招かれているのだ、というわけです。
そこで皆さんにお勧めする、区別されるような生き方をしていきなさい。神の恵みを大事にし、苦い根を出すような人にならず、目に見えない神とその価値を大事にする生き方をしなさい。そして皆さんで互いに祈りあいながら、そうしなさい、と。
最後に、聖くなる、というのは、教会全体の業です。一人が聖くされる、というのではなく、皆が互いに聖くさせられていく、ことが大切なのです。そういう意味で、教会が、互いにあるがままを出し、祈り合い、支えあえる、成長しあえる人間関係ができる、ということは大切です。
2003年10月19日
「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:45)
クリスチャンは不当な苦しみを受けても、我慢しなさい、赦しなさい、喜んでいなさい、と教えられている。どうもそれは奇麗事のようで、破壊的な気持ちを吐き出させる、ののしりたいだけののしらせる、そういうことも大切ではないか、と思われる方もいることでしょう。
世の中には色々と理不尽な出来事というのはたくさんあります。憎しみと怒りと復讐心にかられるようなことがあります。そしてそのような怒りと憎しみと復讐心にかられた方々の心のストーリーを聞くと、まったくそれは肯定されるものである、と思われることはあるわけです。
しかし、これ以上憎めないと思うぎりぎりのところまで憎しむ、そういう経験に陥ると、人はどうなるでしょうか。結局は、憎めば憎むほどに、それが非生産的な破壊的な力として自分に跳ね返ってくる。つらい体験に負けて、自分がどんどん意地の悪い偏屈な人間になっていく、そういう苦しみを味わうものではないでしょうか。
何年も何十年も悩み続けると、もう相手がどうであるとか、そんなことではなくて、自分で自分の気持ちにけじめをつけなければいけない、どんなに相手を憎しんでも、失ったものを悲しんでも、過去を取り戻すことはできない。やはり、どこかできびすを返して、今これからを新しく生きることに心を向けていく、だけだな、というところに行き着くのではないでしょうか。
聖書はあらかじめ正解を語るわけですが、人が正解を前に、いつそのようなけじめをつけるか、については、もう人それぞれのペースに任せていることを知らなくてはなりません。人の荒んだ心が整理されていく、ようやく準備ができていく、と言えるようになるまで、神様はじっと待っていてくださるということです。
また、もうひとつ大切なことは、人間は痛みがなくなったら平安を得る、喜びを得る、というわけではないということです。実はキリストにあって、痛みの中にありながら、平安を持つことができる。喜びを持つことができるものなのです。ビリー・グラハムは言いました。「喜びとはほとばしりでるものではない。喜びとは陽気さでもない。人のたましいは神にあって喜ぶのであるから、喜びとは神の御心に完全に聞き従うことである」と。
神は、私たちが憎しみ、叫び、怒り、そしりを捨て去り、心優しい人となるようにと招いてくださっています。神の招きに応じて、自分自身を明け渡す、「主よ、私の心を癒してください、私の心を新しくしてください」と祈ることが、今のあなたにとっても機会として訪れるのではないでしょうか。
2003年10月26日
怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。
「怒り」に、よい怒りも悪い怒りもありません。義憤という言い方がありますが、正当で絶対の怒りというものはないような気がします。正当な怒りを振りかざす人間ほど、どこか見落としや偏りがあったりするものではないでしょうか。ともあれ、「怒り」が害悪なのは、それが自分自身を食い尽くす破壊的な力として跳ね返ってくるからです。ですから、聖書は怒りを捨て去りなさいと率直に勧めるわけです。
で、世間では、怒りをコントロールするいくつかの方法が語られることがあります。ひとつは深呼吸をする、落ち着けというわけです。また、怒りの原因を認識して、合理的に怒りを回避していく方法もあります。このほか、怒りを建設的な行動や活動で発散する、怒りを行動化するのではなくてことば化するといった方法が教えられます。
聖書は、率直に怒りを捨て去りなさいと教える。どうやって、怒りを感じたら、その場で祈るのです。「主よ、私は怒りを感じています。どうぞこの怒りを捨て去らせてください」と。ただ口先で祈るのではありません。主が捨て去らせてくださる、主が怒りの心を取り除いてくださる、と信仰をもって祈るのです。怒りを感じるときには、いつでもそうするのです。そのことによって、あなたは神があなたを怒りから解放してくださることを経験することでしょう。
ただこれはクリスチャンに語られていることに注意しましょう。まだ神様を信じていない人は、イエス・キリストを自分の主として受け入れるところからはじめなくてはなりません。神に祈り癒されるという経験は、その後のことです。そういう意味で、クリスチャンは日々、神の力を感じて生きる者であるはずです。今週も神の力に支えられて歩むことにいたしましょう。
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2003年11月
2003年11月02日
何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願いごとを神に知っていただきなさい。 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安があなた方の心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ4:6,7)」
キリスト教信仰を始めるということは、多分にその人の決心いかんにかかっていることが多いわけです。入信の決心というのは、与えられるものだ、とはよく言われることですが、やはりどこかで聖書の言葉の前に応答していく、というこちら側の態度にもかかわってくるのです。かつてペテロが、「この曲がった時代から救われなさい」と勧めましたときに、3000人の人々がこれに応じたというのと同じです。「救われなさい」という勧めに「よし」という決断が必要です。で、そこまでいたるには、時間がかかる、そういうことがあってよいわけです。みことばにじっくり取り扱われて、あれこれ考え決断を固めていく時間というのは必要です。早計に決断して後で悩まなくてはいけない部分をもう一度やり直すよりはずっとよいことです。
さて、キリスト教信仰の入信というのは、最初の一歩であっで、何か完成されてというのとは違います。これから一歩一歩稚拙な信仰の歩みを進める、そういう中で信仰の何であるかを教えられていくということが大切なのです。ですから、クリスチャンになるといつも主の平安に生きることができるとはいいますが、実際にこれが主の平安である、これが主の平安に生きることなのか、とわかっていくのは、人によって千差万別ですが、時間がかかることもあります。何もかも入信した瞬間にクリアーになるわけではありません。そういう意味で、クリスチャンは他人を裁くということを慎まなければならない。時々信仰を持つと、この人はクリスチャンらしいとかこの人はクリスチャンらしくないとか、何もかもわかったような言い方をする愚かさと高慢さに陥ってはなりません。いつでも謙虚に教えていただく、謙虚に導いていただく、という姿勢をもたなくてはなりません。
いつも例にあげるブラント氏は、そういう意味で、牧師となって35年目、奥さんの死に関連して、主の平安に生きるということを学ばせられた、その細かな心の遍歴について証しています。苦痛にさいなまれながら、ゆっくりと死んでいく奥さんとともに、どのように平安を持つことができるか。祈っても神に導きを求めても、沈黙しか帰ってこない時にどういやって平安を持つことができるか。また心から気にかけてくれる多くの友人や仲間からまったく異なるアドバイスを受けて混乱させられるような時に、どうやって平安を持つことができるのか、ブラント氏は試練にさらされるわけです。そういう中でブラント氏は、「平安とは神が自分たちの望むことをしてくださるかどうかで左右されるものではないことを学びました。主こそが神であり、すべての状況において最善のことをご存知であるということを知っているからこそ、私たちは平安でいることができるのです」と結論するのです。確かに、神の決定に従う、というところに平安を見出す、このような訓練を私たちはどこかで受ける必要があるのです。
2003年11月09日
ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと大きな力があります 。(ヤコブ5:16)」
すっきり祈れたら、と誰もが思うものです。祈った後も、何かが尾を引いていて、すっきりしない、こういうことはクリスチャンの共通経験としてあることなのです。ただ、すっきり祈れていない人を見ていると、同じ問題を抱えています。そういう人は、たいてい祈りの結果をぎっちり握りしめていて、神にゆだねるということができていないのです。自分の思い通りにならないと、だめだ、と言う人です。こういう祈り方ではすっきりすることはできません。
ブラント博士は言います。「私たちは祈りによって自分たちの願いを神に伝えます。けれども決定を下されるのは神様です。自分たちの願い事が創造主のみこころにそったものになるよう、私たちの方が調節をしていくことが必要なのです」しかし調節などできない、自分の都合ばかりを最優先させていく、神様に自分の言うことを聞かせていこうとするのが、罪人の現実ではないでしょうか。
そこで少し考え方を整理しておくことが大切です。神様は、祈りに三つの答え方をされる。一つは、祈ったとおりのことが返ってくる。こういうことを私たちは望むのでありますが、こういうことは、調子よく続くこともあればめったにないということもあります。それで二つ目に、神様は、祈ったことについてそれはOKだけれども、もう少し待てというような応え方をされることがある。何事にも時があるというように、神様は最善の時を供えておられるのです。ここで14年開拓し、14年目にようやく私たちは会堂を得ました。それで振り返ってみますと、やはりこれが神の最善であった、と私は思います。遅すぎもせず、早すぎもしない、本当に神様の最善の時があるのだ、と私は改めて思わされているところがあります。
そこで三つ目。神様は祈ったことにはっきりとNOと言われることがある。こういう時には、私たちは悲しくなるわけです。祈ったとおりのことが起こらないと私たちがどんなに困るかを神様はご存知であえてNOと言われる。しかしそれは、NOが私たちにとって最善だからそうされる。神様のNOは、別の最善があるからこそNOなのだ、と言うことに過ぎません。こういうことがわかってまいりますと、私たちは祈りの結果が自分の思い通りになるということにあまり執着しなくなります。これが霊的成長です。祈った事柄についてその結果を神にゆだねられるようになる。そしてすっきり祈れるようになるのです。
またすっきり祈れるためには、それなりの時間を聖別することも大切です。片手間の祈りではすっきりできるはずがありません。とことん祈りこんで御覧なさい。声が嗄れるまで祈って御覧なさい。心のわだかまりが霧散するまで祈りこんで御覧なさい。私も皆さんのためにとことん祈り支えたく思います。
2003年11月16日
「私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。(ローマ15:1)」
人の弱さを担うというのは、そう簡単ではない、ということは、誰もが感じていることでしょう。その難しさは、私たちが人の必要をどんなに総合的に見ようとしても、実際には、一面的にしか見ることができない、という人間的な限界にあります。ものの見方の足りなさ、ということが、私たちにはよくあるものです。
ですから、人の弱さを担うためには、弱さを担えるような関係の深まり、つまりその人をよくよく知っている、ということが必要です。そこで勘違いしてはいけないのは、人を知るというのは、年数の問題ではないということです。何十年教会でお付き合いがあろうとも、一週間に一度、ただ顔をあわせ、世間話をする程度では決して弱さを担い合えるような関係にはなりません。しかし、たとえ短いお付き合いであろうと、お互いが、お互いの関係を深めようとする合意がある、この仲間と一緒に生き抜いていこうとする意思がある、そういう関係は弱さを担う関係へとぐっと深まっていくものです。
家族に病人が出て、苦しむことがあったら、共に苦しみます。それが家族です。教会も神の家族であるとするならば、同じです。家族の場合には、共に生き抜く、という無意識の合意がありますが、教会の場合は、その合意を一度どこかで意識化しなくてはなりません。そうしないと、「私たちは神の家族」と甘いことばに酔いながら、何か思い通りにならないことがあると、この世の集団と同じで、平気で関わりを断ち切るようなことになってしまいます。美しいことばを使うだけに、その結果は大変悲しいものです。
また、弱さを担うためには、結局一人一人が、神の力によって変えられて、弱さを担うにふさわしく整えられなくてはなりません。野尻宣教師は、宣教師の必須経験として必要なのは、失敗経験であるとし、こう語っています。「自分の持っているものだけではだめなのだ、自分には頼れないということを知っていなければ、主の恵みによって強くされ続けるということを知らなければ、本当の仕事はできません。また、自ら失敗経験を味わった人にして初めて、他の人の失敗、弱さ、問題、弱点を許し、許容することができます」人の弱さを担うというのは、能力や才能、また財力の問題ではありません。神の力を知り、神の力に生きているかどうかの問題です。人が人を支えるというのではなくて、一緒に寄り添いながら、神に支えられる経験へと助力できることです。
そういう意味で、人の役に立ちたいと願う人は、神のお取り扱いを十分に受けなくてはなりません。急ぐことはないのです。信仰は一生のことなのですから、ゆっくりと時間をかけて、神様に変えられていく、そして神の恵み深いその経験によって、自らの教会を支えていくものとさせてもらう。この教会の一人一人が神の恵みにあって、真に人の弱さを担う個々とさせていただき、主の教会を築き上げることができるよう、祈りましょう。
2003年11月23日
「キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身を押す手になりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです」(ガラテヤ1:4)
本日よりガラテヤ書の連続講解メッセージに入ります。パウロという人物は、もともとイエス・キリストが大嫌いな人、嫌それ以上に憎み、キリストにつく人は皆、縛り上げて投獄した恐ろしい人であったわけです。それが、復活のキリストに出会って、全く180度変わった人となってしまった。キリストの伝道者として、その先陣に立って行く人となっていくわけです。彼はすさまじい熱心さをもって、回心してからローマの投獄にいたるまでの約30年間に、ローマ帝国をあまねく旅し、福音を伝え、地中海世界一帯にキリストの諸教会を建てあげてしまう。パウロの諸教会への心遣いは細やかなもので、多くの手紙を書きました。この聖書に収録されているのは、その一部に過ぎません。そして、このガラテヤ人への手紙は、パウロが、その宣教活動の最も初期、だいたい、紀元48,49年ごろに書いたものである、と言われています。
さて、その冒頭、パウロは、いささか自分が使徒であることへの拘りを見せているわけです。なぜか。それはパウロの語る福音が危険にさらされていたからです。使徒的権威を振りかざすパウロに、少々心配な思いをもたれる方もいるかもしれません。しかし、パウロが擁護した福音の意味を考えたい。パウロは、権威を振りかざして、信者をコントロールしようとしているわけではないのです。福音の本質に人々をして注目させようとした。その本質とは何か。4節。「キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました」日本人は、罪は洗い流すものだ、と考えるでしょう。ユダヤ人は、罪は命の犠牲によって赦されるのだ、と考える。そういうユダヤ人の精神的土壌の中で、キリストは、全人類の最終的で決定的な犠牲としてご自身の命を神におささげになるわけです。つまりキリストのこの行為を信仰をもって受け入れる者は、みな罪赦される、みな救われる、みな新しくされるのです。
ところがこれじゃ足りないと言い出す人たちがいた。完全な救いのためには、ユダヤ人の割礼という儀式やモーセ律法を守るということが大切だ、と言い出す人がいた。そしてパウロは何もわかっちゃいないんだ、という人々が現れた。そこでパウロは私はキリストの使徒として、宣言する、「キリストの十字架に何一つ付け加えるものなどない、キリストの命の犠牲は完全なものである」というわけです。このキリストの恵みに心を開き、受け入れて信頼していくことこそが、信仰の第一歩にほかなりません。
2003年11月30日
「以前私たちを迫害した者が、そのとき滅ぼそうとした信仰を今は宣べ伝えている。」と聞いてだけはいたので、彼らは私のことで神をあがめていました。(ガラテヤ1:23,24)
パウロは、あなたがたは、キリストを裏切ったのだ、実に驚くことだと語っている。また、だれでもキリストの十字架に余分なものをつける者はのろわれよ!と語っています。激しいものの言い方をしているわけですが、それほどパウロはイエスの十字架を大事に考えたわけです。
パウロに反対する人たちは、口々に言いました。イエスの十字架を信じることのみによって救われるだと!そんな簡単なことでいいのか。やはりユダヤ人の慣習に従って、割礼の儀式を受け、モーセ律法を完全に守って、修行をつまなければ完全に救われることはないのだ!と。そしてパウロは、イエス・キリストの十字架のみなどと、耳に優しい福音を語り、救いのハードルを勝手に引き下げている、人の人気を得ようとしているのだ!と。
しかし、パウロは、そういう反対に向かって、「いらないものはいらないのだ」人が罪赦され、神に受け入られ、愛され、祝福される要件は、ただ十字架上のイエス・キリストを自分のためのいけにえとして受け入れることだ。一人の人間のいのちが完全な最終的な、決定的ないけにえとしてささげられたのだ。その重さを考えよ。だれでもイエス・キリストの十字架を軽んじる者は、のろわれよ!というわけです。
こうして、私たちは、イエス・キリストの十字架のみを信じる信仰というものを伝統的に大切にしているわけです。そしてパウロにとっては、この十字架によって自分は変えられたのだ!という確信があったからなおさらのことだったのでしょう。
パウロは、非常に残忍な人でした。キリストを信じる者たちの家を荒らし、血も涙もなく、キリストを信じる人たちの拷問や処刑に真っ先に賛成票を投じる、そんな人でした。しかし、イエス・キリストに出会って、彼は180度人生の方向性を変えられていくわけです。人生が完全に逆回転していくのです。逆回転も色々、たとえば、何事も物事に出し惜しみするような人が心豊かにされ、人に豊かに施すようになる、これも逆回転です。いつも人のことを悪く受け止め、思い込みで非難するような人が、人の様々な事情を考えられるようになり、人を前向きに受け止められるようになる、これも逆回転です。居酒屋を飲み歩いていたあなたが、そんなことをちっとも楽しいとも思わなくなる、そしてそのお金を人が活かされるために使い始めたとすれば、これも逆回転でしょう。とにかくキリストを信じたパウロの人生には逆回転が起こったのです。死からいのちへ、闇から光へ、と。キリストを信じるあなたの人生も「変わる」のです。
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2003年12月
2003年12月07日
「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます(マタイ7:7)」
連合宣教師イスリブ師特別説教
人生において痛みの経験は当たり前のように起こるものです。毎日のように、私たちには感情を害し、怒りを覚えるようなことが起こりえます。しかし、不幸なことは、それによって、私たちは他の人たちを代りに傷つけてしまうことでしょう。他の人を傷つける前に、どのように自分の痛みを癒したらよいものか。他の人々に傷つけられた時に、どのようにして健康的に応対できるのものか。他の人々の心の傷を癒すのに、どのように助けることができるのか。 2つ点が大切です。第一に、変化のための計画的な方法、そして第二に、変化のための力です。
計画的な方法は、HEALS(いやし)計画というもので、それぞれの文字に覚えやすいように計画の要点が示唆されています。米国人は、こういう言葉の遊びが好きで、よく利用されます。
まず第一にHはHealing、癒しを求める祈りです。感情を害されたならば、まず「癒し」の文字を思い浮かべ、癒しの必要を意識するのです。クリスチャンである私たちには癒しを祈ることが大切です。次にE、Explain、痛みを明確化する。あなたが感じている「深い痛み」の内容を明確化する、感情が害された理由を考えるのです。たいていはそこに誤ったメッセージがあるものです。第三にA、Apply。慈しみを適応すること。誤ったメッセージを訂正し、神の慈しみを適応するのです。たとえば、私は人に助言をしてそのとおりにしてもらえなかったことがあります。そこで私は自分が拒否された、というだけではなく、自分は価値がないのだ、とすら感じたことがありました。しかしそれは誤ったメッセージです。アドバイスが受け入れられようが受け入れられまいが、神は、私を価値ある者と見てくださっていて、私に価値があることは変わりはないのです。そこで第四に、L、Love。神の慈しみを深く感じることです。祈りの中で神の愛を深く味わう。そうすれば、神の愛に動かされて、自分を傷つけた人を愛することを考えられるようになります。最後にS、Solve、問題の解決を得る、ということで、よく祈り、機会が導かれるならば、自分を傷つけた人と話してみることです。私は実際に、そうしてみて、自分に思い込みがあったことを発見し、和解に導かれる幸いを得ました。
こうした変化の計画であるHEALSプロセスに、変化のための神の力を求めることが大切です。神の力抜きのHEALS計画には限界があります。変化のための力は神のみから来るからです。神にあってこそ、私たちは自分たちの心の傷をいやすのに必要な愛と赦しを見出すのです。
2003年12月14日
「人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです(ガラテヤ2:16)」
パウロは、人間が救われるのに、キリストの十字架の業以外何も必要としないのだ、ということを言います。エルサレム教会のある者たちは、パウロのこの主張に反対し、割礼やユダヤの律法を守るということを付け加えない限り、救われたなどとはいえないのだ、と語るのです。
ユダヤ人にとって割礼やユダヤの律法というのは、骨身にしみる教えであったことでしょう。同じように、日本人にも仏教的な修行意識が深く深く心に根付いています。仏教には六波羅蜜という教えがあって、第一に人を思いやる布施、第二に戒律を守る持戒、一生懸命努力を続ける精進、耐え忍ぶ心の忍辱、心静かに自分を見つめる禅定、そしてそららが身について至る智慧、この六つの修行が大切でこれが悟りを与えるのだ、という考え方があります。これは日本人の潜在意識にまで浸透している考え方のようで、せっかくキリスト教を信じても、キリストを信じるだけではだめだ、何かをせねばだめだ、と考えているような人がいるのです。
ところで、キリスト教が語る神の救いというのは神との関係ができる、ということにほかなりません。救われる、というと、何かとてつもなくしんどいところから引き出されるようなそんなイメージがあります。ですから、キリスト教の救いが語られても、今の所困っていることもありませんし、特に結構でございます、というような人も多いでしょう。しかしキリスト教の救いというのは、基本的に神との関係ができることです。また、日本人は、どうも神というものに人格を認めることができません。仏像を前に、手を合わせて祈りたいという気持ちにはなっても、仏像に自分がどう思われているか、相性があいそうか否か、などということはまず考えません。石や木でできた神、仏に慣れ過ぎていて神を人格的な存在として考えることができないのです。ですから神との関係ができる、といってもなんだかよくわからん、という人の方が多いことでしょう。
で、神との関係というのは、キリストイエスの十字架によって形作られるのであって、ユダヤ式に割礼を受けるとか、律法を守るとかでは絶対できないことである。あるいは日本式に六波羅蜜の修行をして形作られるようなものではない、ということです。
ただイエスの十字架を自分の罪の赦しと新しい命の歩みのための祝福のわざとして、信仰を持って受け入れていく、これに尽きるのだというわけです。福音に対するパウロの拘りに注意したい。そして同時に、頭で理解しても行動がその信仰を否定している、ということがあることにも注意を向けておきたい。
自分が不幸になると、自分の救いの確かさを疑うような人は、頭で理解していることを否定しているわけです。物事がうまくいかないのは、救いの確かさと関係があるのではなく、神のご計画と関係がある事柄です。また、ペテロのように自分の弱さのゆえに、福音の真理を否定するような生き方も、警戒したいものです。クリスチャンとして救われた者でありながら、福音の真理に従ってまっすぐ歩んでいない、ということが私たちには起こりえます。主が哀れみを持って、私たちの歩みに霊的な深い識別力を備えてくださり、福音の真理に従ってまっすぐと歩ませてくださるように、祈りましょう。
2003年12月21日
きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。(ルカ2:11)
クリスマスおめでとうございます。クリスチャンにとっては非常に喜ばしい日です。ふりかえってみれば、クリスマスの受け止め方も随分変わりました。クリスマスは教会がにぎやかになる、そういう楽しみ自体を楽しみとする時代がありました。しかしいつしか、クリスマスの主人公であるイエスを覚える楽しさを、私もだんだん確かに感じるようになりました。
さてこのイエスについて、福音書は神の子、いわゆる神そのものとして書き上げています。ヨハネにいたっては、20章31節、「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることをあなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によって命を得るためである」と断言しています。
イギリスの著名な作家CSルイスは、キリストの前にあいまいな態度は許されない。こんなことを求めるイエスを精神異常者として扱うか、それとも誠の神として受け止めていくか、いずれかをはっきりとしなければならない、ということを言っています。
私は、イエスを神の子として受け止める十分な理由が、私たちのうちにあると信じています。誰も自分が立派な人間であると思って生きている人はいないでしょう。人間というのは、どこか人生にぶち壊しや、敗れ、穢れや罪というものを感じて生きているものです。そういう私たちにイエスは救いをもたらす。
私はどの宗教がよくてどの宗教が悪い、というようなことを言うつもりは全くありません。ただ、キリスト教は他の宗教が全く語らないようなことを言っている。つまりイエスが十字架でそのぶち壊し、敗れ、穢れ、罪のために苦しんでくださったから、もうあなたは苦しまなくてもよい、あなたは新しく生きることを考えなさい、と語っている。また、あなたの損失を私が支払おう、などと申し出ている、そんな宗教はどこにもありません。私たちが一生懸命努力すればそれに応じた報いを与えよう、という宗教はいくらでもあります。そしてさらに、クリスマス。それは神ご自身が私たちの人間の生活をつぶさに味わった上で、私たちの助け手になろうとする、物語です。それは不思議な美しい物語ですが、事実として受け入れるに値するものでもあります。
今日、このクリスマスの日に、まことの神キリストに向かいあい、キリストを受け入れることができるように、祈りましょう。
2003年12月28日
しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる といううことを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです(ガラテヤ2:16)」
「義と認められる」とあります。このことばはキリスト教