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これまでの礼拝説教要約(2001年度)


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    2001年4月1日 「あなたを罪に定めない」(ヨハネの福音書8章1-11節)

    イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(ヨハネの福音書8章11節)

    新改訳聖書では、括弧付きで注釈のある疑惑付きの物語です。 写本にバリエーションがあり、テキストが安定していません。 しかし、内容から、これもイエスの教えを伝える信頼性のある物語として学ぶことにします。 姦淫の現場で押さえられたとあります。が、この女性は罠にはめられたに過ぎません。 律法学者やパリサイ人たちは、この女性を、イエスを陥れる道具にしたのです。 イエスは、モーセ律法を守るべきか、それともこの女性を救うべきか、板挟みの状況に追いつめられたようです。 しかし彼らがその証言の確かさを求められた時、立場は逆転していきます。 それにしても、道具にされ、嫌々引きずり出され、面目を失った女性の痛みを思います。 またそこに、現代にもありがちな出来事−どうでもよい過去を噂され、暴露され、職場で面目を失うことなど−を思い浮かべます。 「私もあなたを罪に定めない」と語るキリストの命のことばを握る教会には、自然と、世とは違う風が吹くものです。 教会は過去を問わない場です。問題にするのは、「今から」です。世の光と言われるゆえんです。 誰に対しても、イエスにある罪の赦しを語り、イエスのように先を示す歩みへと導いていただきましょう。


    2001年4月8日 「神のわざが現されるために」(ヨハネの福音書9章1-12節)

    イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。(ヨハネの福音書9章3節)

    「なぜこの人は盲目に生まれついたのか」弟子たちの質問は、当時の神学的な論争を背景としていたようです。 胎児期にこの人が罪を犯したためか、それとも両親が罪を犯したためなのか。 イエスは、「神の業が現れるためである」とお答えになり、この目の見えない人に声をおかけになります。 それは、始めて人間として扱われ、心に触れられた瞬間だったことでしょう。 ここに私は、「あなたは私の目には高価で尊い、私はあなたを愛している(イザヤ43:4)」という神のことばの真実さを思うのです。 しばしば人は全く価値なき者のように扱われることがあります。 しかし、神は決してそうではないことを、この物語はよく伝えています。 この神が味方である以上、私たちは、決して希望を失うことがありません。 また、彼は生まれ付き盲目であったと言います。その苦悩はどんなものだったでしょう。 ヘレン・ケラーは、サリバン女史に出会い、三重苦から救い出されるまで、暗やみの中で、「光を」と叫び続けていたと言います。 世にはこのような叫びがあります。 不可能を可能にする神、無から有を造り出される神を信じるキリストの弟子として、私たちは世に置かれています。 人が棄て去る多くの事柄に、私たちは「神の業が現れるためである」と取り組むことができるでしょう。 そのような信仰と勇気ある人々によってこそ、歴史は支えられ、開かれてきたのではないでしょうか。 


    2001年4月15日 「見ずに信じる」(ヨハネの福音書20章1-31節)

    信じない者にならないで、信じる者になりなさい。(ヨハネの福音書20章27節)

    本日はイースター礼拝です。クリスチャンにとっては、イエスの復活を祝う、大変喜ばしい時です。 しかしさめた目で見て、どんなものでしょうか。 イースターを祭りごとにするのはよいとして、おとぎ話のような「復活」を信じ、喜ぶのは、何か子どもじみているようにも思われます。 そこで話題を転じて、「死」について考えてみることにしましょう。 かつて作業療法士として働いていた時、私は人の死が自然なものであると感じたことがありました。 その後私は、牧師となって、死を目前に心の平安を切実に求める老人に出会い、死についてもう一度考え直させられたのです。 死は、私たちが身に着けてきたあらゆる付属物、名誉、業績、地位、財産など、一切のものを剥ぎ取り、ただ私たちにあるもの、つまり裸身の心を見つめさせます。 そして自身の心の歩みを巡らします時に、死後に何もよいことを期待できなくなる人は少なくありません。 人が死を恐れ、死を語りたがらないわけがそこにあります。 しかし聖書は、人が死後復活し、神のもとに帰ることを伝えます。しかもそれは、イエスの十字架の恵みに保障された祝福の復活なのです。 また、復活があるというのは、私たちの生が永遠に残されるということです。永遠に残るものならば、それは大切にされなくてはなりません。 日々最善の今を積み重ねるということです。 復活を信じて生きる人には、明るい未来があります。また、現在にあっては一つの美学があるのです。


    2001年4月15日(2001年イースター記念パーティ説教要約)

    神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。(使徒の働き2章32節)

    多くのクリスチャンは、イエスが復活されたことを信じています。しかしそれは、単にそう教えられているからそう信じているに過ぎないことがあります。 ペテロが、「私たちはみなそのことの証人です」と語ったことばを、私は考えます。 この単純なことばに、いかに様々な思いが込められていたのかと。おそらく、私たちはその一端を知るのみでしょう。  たとえば、ペテロは、イエスを裏切る経験をしています。 イエスが裁判に連行される際、ペテロは呪いを込めてイエスとの関係を否定します。 その様をイエスに見つめられているのです。何とも罰の悪い経験です。 裏切りの苦しみの最中に飛び込んできた復活の知らせ。ペテロの心の緊張の高まりは大変なものであったはずです。 しかし、イエスの復活は、裏切りへの復讐劇とはなりませんでした。 むしろ、ペテロの心の苦しみを取り除き、さらに失敗だらけのペテロに信頼を置き、大切な使命を託される、命を与えるものでした。 ペテロにとって、キリストの復活は個人的な経験、命を与えられる、生かされる経験だったのです。 これは、私たちにとっても同じです。私たちにとっても、キリストの復活は、私たちを生かす経験であることを、味わうことが大切なのです。 


    2001年4月22日 「キリストにある祝福の約束」(ヨハネの福音書10章1-18節)

    羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。 彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。 すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。(ヨハネの福音書10章3-4節)

    旧約聖書を背景とし、象徴的な意味で言葉を使用する、これがヨハネ文書の特色であるように思います。ことに黙示録ではそうですが、福音書も同じです。 「牧者」と訳されたギリシャ語は、ポイメーン。 旧約聖書のヘブル語ではラアーです。旧約聖書では文字通り「牧者」、「羊飼い」と訳されますが、 象徴的に「神」、「来るべきメシヤ」、「霊的な指導者」などを意味することばとして使われ、ヨハネが意識しているのはその意味です。 ですから、当時の人々にとって、イエスのたとえは、霊的指導者としてのイエスを思わせ、その中でも「よい」霊的指導者であり、 さらには、「唯一の」霊的指導者、すなわちエゼキエル預言の「メシヤ」であることを思わせることばでした。 イエスの正体を巡ってユダヤ人が気をもんだり(24節)、激怒したり(33節)する出来事へとつながっていくのはそのためです。 大切なことは当時の人々は、イエスのたとえに、イエスをメシヤとして受け止めるかどうかの決断を迫られたことです。 それは私たちにとっても同じです。このイエスを前に、自分たちの救い主として受け入れるべきかどうかを考えなくてはなりません。 そして受け入れるということは、羊飼いと羊の関係を受け入れるということでもあります。羊は、羊飼いの声を聞き分け、彼について行きます。 そして羊飼いは、羊の先頭に立って行きますとあります。この祝福の関係の内に今週も歩ませていただきましょう。


    2001年4月29日 「イエスにあるいのち」(ヨハネの福音書11章1-45節)

    もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。(ヨハネの福音書11章40節)

    「神の栄光が現れるために」とヨハネは繰り返します。 生まれつきの盲人の時もそうでした。これがイエスと、イエスの弟子であるクリスチャンの物の見方です。 あらゆる出来事を見ながら、いつでも、私たちはそのような物事の見方に成熟しなくてはなりません。 次に、イエスのマルタとマリヤへの対応は、人間関係の知恵を示唆します。冷静沈着なマルタと感情的なマリヤ。 イエスは前者には、霊的な道理を説明し知的に支えられ、後者には、共に涙を流しその感情を受容されます。 理路整然とした助言で支えられる人、情緒的共感で支えられる人、様々です。イエスはそのような人の心の違いに実によく対応されています。 しかし聖書は人間関係の知恵を学ぶものではありません。ここでは、やはり神への信頼を深める霊的な真理を捉えることが重要です。 つまり、何事も神にとって遅すぎることはないという真理を、しっかり受け止めることです。 TVゲームでは、結果が気に入らない方向に流れていくと、リセットできます。しかし人生をリセットすることはできません。 それだからこそ、過去の軌跡が気になるものです。そんなことを考えていると、自分の人生を積極的に改革していく力をそがれてしまいます。 しかし、リセットなど必要がありません。神に遅すぎるということはないからです。私たちにはこれでもうだめだと思うことがあります。 でもだめだという結果が起こってしまったとしても、神はそこからいくらでも人生の流れを変えることができます。 そこがまさにラザロの復活の出来事が伝えている要点です。 最後に、ラザロの復活は、神が神であることを示すものであることを押さえておきましょう。



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    2001年05月


    2001年5月6日 「謙遜であること」(ヨハネの福音書13章)

    それで、主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。(ヨハネの福音書 13章14節)

    十字架前夜、最後の晩餐での出来事です。 普通イスラエルでは、戸口に水瓶が置いてあり、家によっては、水差しと手ぬぐいを持った召使が、客を迎え、足を洗いました。 この日、晩餐の会場となった家には、客を迎える召使がいなかったようです。 このような場合には、自分たちで足を洗い合うのですが、この日弟子たちは、汚れた足のままに、二階の部屋へと上がり込みました。なぜでしょう。 そういえば彼らは、道々、自分たちの中で誰が一番偉いのかと議論していました。とすると、人の足を洗うなど躊躇われるようなことであったのかもしれません。 ともあれ、そのような彼らの様子と汚れた足に、イエスはお気づきになりました。 そして、水差しと手ぬぐいを持って、弟子たちの足を洗い、「上に立つ者は仕える者である(ルカ22:26)」ことを教えられるのです。 しかし「仕える」というようなあり方は、何か自分を低くするようなイメージがあり、抵抗のある方もいることでしょう。 けれども、「仕える」と訳されたギリシャ語は、ディアコネオーで、「配慮する」とか「思いやる」とか幅の広い意味を持つことばです。 また、日本語の「仕える」にも「察する」という意味が含まれていることに注目すべきでしょう。 つまり、イエスがおっしゃったことは、へりくだる、自分を低くするというよりも、察する心、配慮する心、思いやる心、 そういう親のような心が上に立つ者には必要なのだということではないでしょうか。 そういう意味でイエスは弟子の必要を察する方であり、配慮し、思いやる方でした。 現代社会では、上司の在り方への変化が求められているようです。 頭のよい機械のような上司から、カウンセリング・マインドを持った上司へと。 しかし聖書には、そのようなリーダーシップの在り方が、すでに示唆されていたのだとも言えるでしょう。 


    2001年5月12日(結婚式説教要約)

    妻たちよ、主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。夫たちよ。妻を愛しなさい。(コロサイ人への手紙3章18-19節)

    聖書は、妻に対しては夫に従順であること、夫に対しては妻を愛することを勧めています。 これは決して古くさい教えではなく、今日の私たちもまた耳を傾けるべきものです。 妻が夫に仕えるというのは、女性が一段低い地位におさまるという意味ではありません。 むしろ仕える豊かさを味わいなさいということです。 事実、家族が豊かになり、職場が栄えるのは、そこに仕える人がいるからです。 結婚は夫と妻が協力して互いに新しい喜びと新しい将来を築き上げていくためにあるものです。 新しい喜びと新しい完成を生み出すために喜んで仕えよ、というのです。 同じように夫も妻を愛しなさいと勧められます。キリストに倣って、という点が肝心です。 第一にキリストは教会のためにご自身をささげられたとあります。 同じように、自分のいのちをかけて妻を愛するということを教えています。 いのちをかけるということは文字通りいのちをかけることもあるでしょうが、 実際的、日常的には、妻に対する時間のかけ方、関心のかけ方に工夫を凝らすということでしょう。 第二に、キリストは教会を聖く、傷のないものにしようとされたとあります。 同じように、妻がその魅力を保ち、清らかな人間として生涯を送っていけるように愛していくのです。 第三に、キリストは教会を養い育てたとあります。若い時には様々な意味において未熟な部分があります。 ですから互いに心を通い合わせ、何事かを学び、養い、建てあげ合うことが必要でしょう。 今日ここに結婚の誓約をなさいましたお二人が従順と愛の教えを大切にし、人生の様々な歩みを、 力を合わせて、神さまに喜ばれるものとして勧められますことを祈ります。


    2001年5月13日 「道・真理・いのち」(ヨハネの福音書14章)

    イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。 わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません(ヨハネの福音書14章6節)

    高校生は大学受験をゴールとし、大学生はよい就職をゴールとし、社会人はよい結婚と昇進をゴールとする。 具体的なゴール設定とそこに向かう努力、そんな毎日を送っている自分を思わされます。 しかし、刻々と変わり行くもの、この地上にいる間だけのものに目標を置くことは禁物です。 私たちは、裸で生まれ、裸でこの世を去っていくものです。 裸身のままに、神の御前に立つ日が来ることを忘れてはなりません。 そのような心得から、今の人生で、何を大切にしていくべきか、何を受けて行くべきかを考えて歩んでいく必要があることでしょう。 そういう意味で、私たちは今、神の御前に立つ「道」をしっかりと歩んでいるでしょうか。 イエスという道は、十字架の道です。自分を捨て、神に仕え、死にまでも従われた道です。 また、私たちは今、イエスを「真理」として歩んでいることでしょうか。 どこかでイエス以外のものを「真理」とし、自身の思考と行動の礎としていることはないでしょうか。 さらに、私たちは今、イエスを「いのち」として歩んでいることでしょうか。 初代・使徒教父時代は、まことにイエスがいのちとされた時代です。 私たちがその時代の人々同様にイエスをいのちとして生きているかと言いますと、どうも、そこには一種のあやしさがあります。 それは、罪人として、致し方のない部分もあるわけですが、しかし、主にあるものとして進歩・前進を大切にしたいと思います。 反省すべき所を反省し、決意すべきところを決意し、実行すべきところを実行することにいたしましょう。


    2001年5月20日 「実を結ぶ人生」(ヨハネの福音書15章1-8節)

    わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。 人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。(ヨハネの福音書 15章05節)

    いつも言うことですが、聖書を読む場合には、LBC(リンギステック・ミ−ニング、バックグラウンド、コンテキスト)に注意しておく必要があります。 当時のユダヤの文化の中で書かれたものを、その著者の感覚で理解する、その上で、私たちに対する意味を考えるということです。 そのようにして容易に推察されることは、弟子たちが、イエスのことばに旧約と自分たちの時代への連想を働かせたであろうことです。 つまり、酸いぶどうの実を成らせ、神の嘆きを繰り返した旧約聖書史(イザヤ5章)、 そして、「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」ように勧告するバプテスマのヨハネの働き(ルカ3章)。 さらに宗教的偽善(マタ15:8,23:25)を鋭く指摘したイエスの言動などです。 色々なごまかしがあり、不正があり、偽りがあり、的外れな生活があり、神を恐れない状況がある、それがまさに、神の目に実を結んでいない状況なのです。 それは今日の私たちの状況にも通じることです。 そのような中で、やはり神を恐れて、義の実を結んで歩みたいと願う、弟子心のある者もいることでしょう。 ただ、人間には自分で自分を裏切るという状況もあります。どうしたらよいのか。イエスはおっしゃるのです。私の愛の中にとどまりなさいと。 クリスチャンの人生は、神さまの義、正しさにあずかる人生です。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制といった実を結ぶ人生です。 このような人生が完成されていくには、イエスの十字架にある尽きない赦しと恵みと刷新が必要です。まさに、イエスに留まることが必要なのです。 そして私たちが完成に向かって経験する様々な痛みは、神がぶどうを「刈り込む」働きであると受け取るべきものです。 神は死と病の枝を取り除かれます。また敢えて生きた枝をよりよい収穫のために刈り込まれます。艶やかで大粒の葡萄の実を成らせるためです。 さらに私たちが実を結ぶということは、自己完結的なものなのではなく、また私たちが誇るためのものでもありません。 むしろ、他者を活かし、命を与える再生産的なものであることをも覚えておきましょう。


    2001年5月27日 「勇敢でありなさい」(ヨハネの福音書16章)

    あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。(ヨハネの福音書16章33節)

      聖霊は、大きく二つの働きをします。第一にキリスト者が語る聖書のことばを通じて、世の人々に罪と義を知らせ、また「裁かれた」事実を伝えるのです。 多くの人は、キリスト教は「裁き」を伝える宗教であると理解しています。しかし、キリスト教の中心的なメッセージは十字架の赦しです。 一切の裁きが十字架と共に決定的に成されたということです。 キリスト者は、聖霊の助けと共に、全ての人は、その過去・現在・未来一切の罪を赦され、神の義と自由へと招かれている事実について、 もっともっと語らなくてはなりません。 また聖霊は、キリスト者に対して、聖書のことばを解き明かします。聖書は祈りと信仰によって理解されるものなのです。 しかしそこに、「思い込み」という問題も起こり得ます。イエスは、聖霊は「キリストの栄光を現します」と語りました。 つまり思い込みを避けるためには、キリスト論的に聖書を解釈することが大切です。 さて、このような聖霊の働きは、弟子たちにとって、大きな慰めと励ましを与えるものでした。 というのも、この時、イエスは彼らから去っていくこと(十字架の死)、そして彼らに大きな迫害が起こることを予告したからです。 弟子たちは、イエスなき後、その偉業を受け継ぐなど全くもって不可能であり、また、多くの苦難に耐え抜く力のなきことを痛感していたことでしょう。 しかし、イエスは、「心配するな、聖霊という助け主が来る」と励まし、 さらに聖霊の働きを説明し、「聖霊を求めよ、聖霊に任せて勇敢であれ」とお勧めになるのです。 弟子たちがそうしたように、聖霊に信頼し、その働きに委ねて人生を歩むならば、私たちの人生は、底知れぬ可能性と活力、そして喜びと楽しみに満ちるのです。



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    2001年06月


    2001年6月3日 「神との平和」(ローマ人への手紙5章1-19節)

    ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。(ローマ人への手紙5章1節)

    パウロは、クリスチャンになるということは、「義と認められることである」、その結果として「神との平和」を持つことだと述べます。 基本的に日本人には、神というのは祝福してくれるお方、救ってくれるものだという考え方があります。 その前に神との関係が修復されるなど考えもしないのです。 けれども、聖書は、神と人間との関係は断絶している、神と人間は敵対関係にあるという前提から話を進めるのです。 確かに、天地を創造し、真実な義と愛に満ちた神に人間ほど不釣り合いな存在はおりません。 そこがわかりませんと、キリスト教信仰の要、義と認められ、神と平和を持つという理解には至りません。 さて、聖書は聖書によって解釈されるとあるように、パウロの語っていることを、ヨハネはどう語っているか、そのような視点で読み比べてみることが大切です。 そうしますと、この箇所で語られていることは、Tヨハネ書で非常に実際的に語られていることがわかります。 まさしく、クリスチャンになるというのは、神との関係が修復され、神と共に歩むことで、生き方が変わっていくことである。 神の愛の中にいきることで、神と同じ愛の器になっていくことであるということがわかります。 またパウロが「患難」と語った時、その頭の中にはどのようなイメージがあったのか。 ローマ書よりも先に書かれたUコリント書がヒントを与えてくれます。 パウロは、キリストの伝道者として、キリストの苦しみに与った多くの体験を様々に思い浮かべているわけです。 そしてそれらは皆私たちの誇りとなると語ります。また、究極的祝福を示しつつ、キリスト者として生きることに恥じてはならないと諭します。 罪人のためにご自身の尊い命を与えてくださった、主イエスの十字架の愛を思えばこそ、確信を持って語られ、勧められることと言えます。


    2001年6月10日 「いのちを与えられる」(ローマ人への手紙5章12-21節)

    こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、 いのちを与えられるのです。(ローマ人への手紙5章18節)

    ローマ書を学ぶにあたり、1章からの流れを説明しておきます。5章に至るまで大きく三つの要点があります。 一つは、1章1〜17節まで。ローマ書全体の前置きで、ローマの人々に対するあいさつや、願いが述べられています。 次に、1章18〜3章18節。パウロの人間理解が語られます。1章、つまり前半は、異邦人の罪人としての現実。 神を神として認めない神に対する罪、いわゆる不敬虔と、種々の人に対する罪、つまり不正が挙げられます。後半はユダヤ人の罪人としての現実。 異邦人に優越性を抱き、裁き、内面的な罪深さに沈潜する、偽善的な在り方を痛烈に批判します。そして、全ての人は罪人であると締めくくります。 さて第三の要点は、このような罪人に対して示された神の愛、いわゆる救済論の展開です。そして実に、ここがキリスト教のオリジナルな部分です。 世の宗教は、それぞれに救済論を申し立てます。こうすれば人間は救われる、幸福になれると。 そしてこの救済論の中身こそが、それぞれの宗教の特色にもなっています。宗教はどれも同じというわけではありません。 キリスト教は、ここであくまでも十字架に拘るのです。 パウロは、十字架を信じることによる救いを語ります。 さらに、信じることがなぜ救いにつながるのか、つまり神との和解を果たすという結果に至るのか、その合理的な説明を試みます。 ヨハネは青銅の蛇の例を挙げながら説明しましたが(ヨハネ3章)、パウロはアダムの例を挙げて説明します。 アダムを人類の代表者として見なすわけです。代表者が犯した罪は、連帯責任として皆のものになると。 そしてイエスは代表者として、十字架の死を通して神との和解を果たしたのだから、連帯して私たちもその恩恵に与るのだという説明です。 この神からの恵みを信じて受け入れるならば、神との関係は回復され、神の祝福に与るのです。


    2001年6月17日 「新しい歩み」(ローマ人への手紙6章1-11節)

    私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。 それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちもいのちにあって新しい歩みをするためです。(ローマ人への手紙6章4節)

    キリスト教には、バプテスマ(洗礼)という儀式があります。今日の個所には、その意義が明確に語られています。 まず第一に、バプテスマにはお葬式としての意味があります。 それは神を認めず、いわば自分を神として生きてきた過ちを率直に認め、そのような古い自己と決別する記念式です。 自己中心な私たちの一切合財をここで葬りさるというわけです。 第二に復活式としての意味があります。 神がおられることと、神が生きて働かれる方であることを認める者に、神はご自身の御力を現してくださいます。 つまり、死せる私たちの魂に新しい命を与えてくださるのです。それを確認する記念すべき時です。 そして最後に、キリストと共に人生を歩む誓約を交わす結婚式としての意味があります。 私たちがいったい誰を心の支えとして生きていくか、これは重要な問題です。 ともあれバプテスマには、お葬式、復活式、結婚式、という三つの意味がありますが、いずれにせよ、けじめをつけているのです。 ですから、クリスチャンになった人が、自分史を書くとすれば、必ず上下の二巻本になると言えます。 前編は自己中心な古い自分の生き方の記録です。そして後編は古い自分に決別し、与えられた新しい命によって育っていく新しい歩みの記録です。 大切なことは、前編が閉じられたということです。後編が書き始められたということです。 主の助けによって、今週も新しい後編をどんどん書き進めていくことにいたしましょう。


    2001年6月24日 「キリスト者の自由」(ローマ人への手紙7章1-25節)

    あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。 (ローマ人への手紙6章19節)

    何事もそうでしょうが、信仰に熟達するにしても、戦いを避けることはできません。 私は、一部の教派が主張するように、信仰生活が進んでいくと、ある点からいわゆる悟りの境地に入り、揺るがない信仰生活に至るとは考えていません。 むしろ、信仰は一生涯かけてのことと考えるべきですし、アップダウンも、バックスライドもありと心得るべきです。 また、信仰生活の個人差を決めるものは、やはりその人の意識です。 ことに神のみこころに対する意識。神のみこころをどうとらえているか、何を善であると考え、何を悪であると考えているか、 その差が、個人の信仰の態度、在り方、振る舞いをも決めます。 クリスチャンと一言で言っても、その実態は様々です。あれでもクリスチャンかと驚くほどのこともないのです。意識と実践の差なのですから。 さて、パウロは、私たちに、回心する前と後では、生き方に差が出ることを明快に語り、前者を「罪の奴隷の人生」、後者を「義の奴隷の人生」と語ります。 しかしながら、それは非常に実際的なことを言っているのです。聖書の教えを「宗教」の教えと特別視し、実際生活と別に考えてはならないのです。 つまり、少々乱暴な言い方になるかもしれませんが、パウロは、「欲望のままに生きる人生」と「規律を持って生きる人生」を対比しているのです。 そして何が規律となるのかが問題です。日本人の多くは、「自分」を規律としています。 しかし、それは自分の欲望を規律とすることとあまり大きな違いもなかったりします。自分ほど危ういものはありません。 パウロは、神の義を規律としてあげるのです。 欲望のままに生きる人生は、死んで終わりです。何も残しません。 しかし、目に見えない神の愛と義と聖潔に生きる人生は、死んで終わりということはない、と聖書は約束します。 そこには、義の人生を生きた証が残り、その永遠の性質の故に、永遠の命という実が結ばれると約束するのです。



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    2001年07月


    2001年7月1日 「キリスト者の自由」(ローマ人への手紙7章1-25節)

    私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。(ローマ人への手紙7章23-24節)

    バプテスマには、お葬式の意味がありました。キリストの死に与るという意味です。 それは、ユダヤ人にとって、律法に縛られて生きてきた、これまでの人生からの解放を意味したと言えましょう。 律法はもはや不要だと言わんばかりです。しかし律法にもそれなりの意義はあったのです。第一にそれは、人々に違反を明らかにしました。 違反に罰はつきものです。ですから、第二に、それは私たちをキリストの死へと導いたのです。 ただ律法は、どうも私たちをますます違反へと駆り立てるようです。禁止されると、ますますそのことをしたくなるのが人間でしょう。 そこでパウロは言います。本当の問題は律法ではなく、「私たちのうちに住みついている罪」であると。 パウロが言っているのは、あれをなした、これをなしたという結果としての罪ではありません。 私たちの心にうごめき、私たちを神に逆らわせ、引き離し、悪へと誘い込む力です。 そんな「罪」に真剣に向かい合った心の叫びが「私はほんとうにみじめな人間です」ということなのです。 実際、パウロの自己認識というのは、クリスチャン生活の深まりの中で研ぎ澄まされていきます。 「使徒の中で最も小さい者」から「聖徒の中で最も小さい者」へ、さらに「罪人の頭」へと。 約10年の歳月の中でパウロの自己認識はどんどん変わってまいります。 それに応じて、キリストにある赦し、十字架の完全な救いへの理解も深まったようです。パウロが「神に感謝します」と語るのはそのゆえです。 クリスチャンとして真摯に生きる者に何よりも必要なのは、十字架のメッセージ、赦しのメッセージなのです。


    2001年7月8日 「命溢れる歩み」(ローマ人への手紙8章1-17節)

    兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。 しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。(ローマ人への手紙8章12-13節)

    あくまでも便宜上と思われますが、パウロは、クリスチャンを二分してとらえているようです。 肉に従う者と御霊に従う者。肉的なことをもっぱら考える者と御霊に属することをひたすら考える者。 死に向かっていく者といのちと平安に向かっていく者。神を喜ばせることのできない者と神を喜ばせる者。 これは非常に現実的な問題です。 クリスチャンといえども、その実態は様々です。恐らく、ローマ教会の中には、パウロの目に肉的に見える人々がいたのでしょう。 しかし、パウロは言います。「あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいる」私たちの死ぬべき体を生かしてくださる御霊が共にあることを明言します。 この世にある限り、世の様々な影響を避けることはできません。 享楽を求め、自己中心化する世の流れは、大変なものです。 しかし、クリスチャンがそのような中で「地の塩、世の光」と言われるのは、迎合しやすく、安逸を求めやすく、 死に向かいやすい私たちの心を力強く導く聖霊が共にいてくださるためです。 パウロは言います。

    「私たちは肉に従って、歩む責任を、肉に対して負ってはいません」

    十字架により罪の支配が打ち破られた以上、いつまでも罪の虜になる必要などないのです。 こういう単純なことにはっきりと気づかなくてはなりません。 また言います。

    「もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです」

    欲に身を任せた怠惰で安逸な生活は身を滅ぼします。 しかし、そのような欲を滅ぼすことは、私たち自身を生かすことになります。 そこで新しい行動を起こすことにしましょう。 これまでの自分であったら絶対ありえない、しか神には必ず喜ばれるであろう新しい行動をです。 聖霊はあなたの行動を導き、あなたを天の高嶺へと歩ませるのです。


    2001年7月15日 「共に生きるとは」(ルカの福音書9章10-17節) 特別伝道集会:日本国際飢餓対策機構 清家弘久総主事

    今日の箇所から三つのことを学ぶことができます。 第一に、イエスは人を訓練し用いられるということです。 私たちが旅に出る時には、様々なものを携帯いたします。 しかし、当時の弟子たちは、イエスに「何も持っていくな」と命じられました。 これは大変なことです。しかし、そこにすべての必要を備えられる神に信頼する訓練があったと考えるべきでしょう。 そして彼らはその訓練の結果を、イエスに報告しているのです。 第二に、イエスは、私たち自身の手で何かをするように求めておられるということです。 イエスは、弟子たちに「あなたがたで、何か食べるものを上げなさい」とおっしゃいました。 私たちに与えるべきものがあるということです。無関心であってはいけません。 カルカッタにありますマザーテレサの施設(Home for Die)には、こんなことばが掲げられています。 「I thirst」、十字架上でイエスが語られたおことば「私は渇く」です。しかし、これは「あなたの愛に渇く」と理解すべきことばでしょう。 第三に、私たちは、痛みを持って与えることを学ばなくてはならないということです。 神様の祝福は、腹八分目の祝福ではありません。また擦り切れ一杯の祝福でもありません。喜びあふれる祝福です。 しかし、その祝福は差し出すことによって得られるものでもありましょう。 神様のご計画は偉大です。それに比べ私たちは小さなものであるかもしれません。 しかし、自己卑下することなく、惜しむことなく、差し出すならば、主は、思いもよらぬ祝福を与えてくださいます。


    2001年7月22日 「すべてのことを働かせる神」(ローマ人への手紙8章18-39節)

    神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。 (ローマ人への手紙8章28節)

    「神がすべてのことを」と言った場合、それは神の視野から見て「すべて」であると考えなくてはなりません。 私たちは、自分の頭の中で考えられるだけのことをもって「すべて」と理解しがちです。 しかし、実に神の知恵は偉大であり、神の思いは測り知りがたいものなのです。 神の導きの深さ、働きの広さを覚え、自身の偏狭さでもって、薄っぺらな未来を予測してはいけません。 それは失敗において、ことにそうであることを強調しておきましょう。 私たちは失敗多きものです。「覆水盆に返らず」と言われますように、一度犯した失敗は、取り消すことができないものです。 そのために私たちは、しばしば生きる勇気を挫かれてしまうことがあります。 人によっては、何をやってもうまくいかないことが続いて、本当に過去の失敗の痛手を感じ、もう一歩も先に進めないように思われることもあるでしょう。 しかし神は、神を愛する人々のために、「すべて」のことを働かせて益となるように導いてくださると約束してくださっています。 そして、人は皆、イエス・キリストの十字架の故に、神に愛されているものです。 イエス・キリストの十字架の死により、神に愛されている者であることを自覚し、神を呼び求めることが大切なのです。 神はすべてのことを働かせて失敗した事柄が益となるようにしてくださるということが、よくわかるようになることでしょう。 こんな失敗をした私に、この先、何のよきものが期待できようかと思われる人があるかもしれません。 しかし、それは、先に話したように、その人が自分の頭の中で考えられるだけの事柄で、物事を判断しているからそう思われるのです。 もっともっと、神を神として知り、信頼しなくてはならないのです。


    2001年7月29日 「神のご計画の中で」(ローマ人への手紙9章16節)

    したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。(ローマ人への手紙9章16節)

    ローマ人への手紙の流れをふりかえることにしましょう。 まず、1章前半1-15節までは、ローマの人々へのあいさつが語られます。 続く16,17節は、ローマ人への手紙の主題とも言うべきものです。 パウロは「福音」について語ろうとしているわけです。さて、18節から本論です。

    最初に1章の後半で、パウロは人間の現実について語ります。 それは不敬虔と不正ということばに要約されるもので、人間のおろかさ、 汚さ、罪というものは、皆、神を神として認めないところから出てくるものなのだと説明します。 2章は、ユダヤ人の問題をとおして、人間のもう一つの現実について語ります。 つまり目に見えて悪いことはだれにも悪いとわかるものですが、人間はそんなに単純ではありません。 体裁に隠れた心の問題があるのです。殺意をもてば殺人を犯したのとおなじ、こういう聖書が語る罪意識の深さというものを理解しなくてはなりません。 こういうわけで、「すべての人は罪人」という聖書のことばが理解されます。 また、人が救われるということは、神の国にふさわしい、聖い心、しみもしわもない人格を得ることであることなのだなとわかります。 3、4章は、そのような罪人が救われる道を説きます。神の恵みと、信仰による救いです。 人が救われるために、お金の力など何の役にもたちません。業績や地位や名声も、魂の救いに関しては無力なのです。 人が救われるためには、そのような罪びとを愛するがゆえに、無条件で救いを提供し、新しい命を与えてくださる神様を信じなくてはならないのです。 そしてそれが唯一の方法なのです。 6章は、信じた証としてバプテスマを受けることへの勧めとその意味の説明です。 さて、信仰を持ったとしても、その人はいぜんとして、罪深い社会の中で生きていくわけですから、やはりさまざまな戦いを経験します。 世俗的な影響は大変強いもので、現実の前に、「心の聖さを求める」という生き方は観念的な願いに過ぎないということにもなりかねません。 7章において、パウロは、そのようなクリスチャンの葛藤を率直に認めています。 そしてその葛藤に、神様の助けによって勝利するようにと勧めるわけです(8章)。 事実、私たちは勝利することができます。なぜなら、新しい命を与えられているからです。 クリスチャンというのは、ストイックな生き方を志す道徳家なのではありません。 新しい命というのは、自然に気づかぬうちに成長するものなのです。神のみことばの恵みによってその命を大切に成長させることが大切なのです。 クリスチャン生活の始まりが神の恵みによって始まったのならば、クリスチャン生活の継続もまた神の恵みによってなされなくてはなりません。 努力してクリスチャンらしい生き方を、つとめてふるまう必要などないのです。 常にあわれみの神を覚えて、神によって、私たちの人生を聖さへと導いていただくことにいたしましょう。



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    2001年08月


    2001年8月5日 「聞くことから始まる」(ローマ人への手紙10章17節)

    遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。 「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱなのでしょう。」(ローマ人への手紙10章15節)

    パウロには、同胞のユダヤ人に対する思いがあります。パウロは同胞のユダヤ人にも救われて欲しいのです。 というのも、それは同胞のユダヤ人が宗教的無知に陥っていることを憂えるからです。 そういう意味では、日本人も同様であるといえるかもしれません。 天国に入るための、あるいは神と和解するための、正しい知識がありません。 難行苦行、お布施、念仏、そんなもので、私たちが神と和解できると考えてはならないのです。 もっともっと神がどのようなお方であるかを理解する必要があります。そうすれば私たちがいかなる行動を取らねばならないかということもわかります。 神は霊であり、聖であり、義であり、愛なのです。 そういうお方に受け入れていただくためには、まず悔い改めと、キリストにある十字架の赦しの恵みを受けなくてはならないのです。 キリストにある無償の救い。これが聖書の中心的なメッセージであり、クリスチャンが、語らなくてはならないことばです。 さて、クリスチャンは伝道活動をするわけですが、伝道は聖書のことばを伝えるということが大切であり、素晴らしいことなのであって、 その結果にあまりこだわるようであってはなりません。 1970年代以降の、合理的な教会成長論の影響を受けた日本の福音派教会は、とくにその傾向にあるかと思いますが、伝道の成果を挙げることに拘り過ぎます。 伝道において大切なのは聖書のことばを伝えることであり、結果は神の領域である、神様が導かれることなのです。 こういうことをわかって、神の時にゆだねつつ伝道を進める教会に、喜びや明るさが失われることはありません。 しかし、こういう基本が押さえられていない教会では、成果の上がらない伝道に、 「プログラムが悪い、人が悪い、皆が協力的でない、この手の集会をする意義があるのか」などと議論と批判が生じ、 皆が痛み、余計なエネルギーを消費してしまうことになります。 そもそも人を救いに導く働きは、一生をかけたものであって、世間一般のマーケット戦略的発想で考えるようなものではないのです。 私たちにとって大切なのは、神様をもっと信頼することです。 そして神の時を覚えつつ、祈ることなのです。聖書のことばを伝えること、それ自体が麗しい事なのです。 しかし結果は神の領域であり神にゆだねなくてはなりません。


    2001年8月26日 「自分を活かす」(ローマ人への手紙12章3-8節)

    一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、 大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。(ローマ人への手紙12章4-5節)

    「汝自身を知れ」ということばがあります。私たちは自分のことをわかっているようでわかっていないものです。 心理学者のジョーとハリーは、そのように自分で分かっていない(他人には分かっている)領域を「盲点」、 また自分も他人も分かっていない領域を「未知」と規定し、「対人関係における気づきのグラフ式モデル」を作成しました。 ともあれ、自分の分をわきまえて、慎み深い行動をする。これがクリスチャン生活の原則です。柔道には、無差別級という試合形式がありますが、まずは、自分に適切な重量級で対戦をし、勝敗を決めるということに似ています。神様が与えてくださった信仰の「目方」を心得えて、日々の歩みをすべきです。 また、神様が与えてくださった賜物を知りましょう。 パウロは、預言(これは聖書を正確に公に伝える能力と理解すべきでしょう)、奉仕、教え、勧め、分け与え、指導、慈善と賜物のリストをあげます。 神様はこういう賜物を一人一人に与えてくださっているのだということです。 しかしながら与えられた賜物を理解するということは、教会での役割理解を深めることにほかなりません。 あるいは教会の居場所を見つけることなのだとも言えるでしょう。 聖書には、ただ礼拝に出席するだけのクリスチャンというような存在は出てこないわけです。 教会に集う一人一人は、教会を建て上げる役割と責任を担う者である、それが当たり前の理解です。 というのも、一人一人がキリストの身体の器官であって、 それは相互に依存し合い、相互に一つの目的(神の栄光を顕わす)を果たす役割を担っているという理解があるからです。 では、まず自分の賜物を知るにはどうしたらよいものでしょう。 いつも言うことですが、まず自分が喜んで取り組み、楽しんで工夫できる奉仕を探すことです。 いわゆるマニアック性の発揮です。しかし、教会というのは家庭と同じで、それは霊的に幼い時までのことと心得なくてはなりません。 家庭の構成員は、成長と共に、家庭の様々な役割を担うことを期待されます。 しばしば嫌なこと、気の進まないこともしなくてはなりません。 マニアック性を発揮しつつ、教会全体の働きに関心を持って、自分におっくうと思われることでも必要に気づいたら手を貸す。 これが霊的に成熟した信徒のあり方だと言えるでしょう。信仰の「目方」と「賜物」を知る。これが自分を最大限に活かす力となるのです。



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    2001年09月


    2001年9月2日 「愛には偽りがあってはなりません」(ローマ人への手紙12章9-21節)

    愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。(ローマ人への手紙12章9節)

    ギリシャ語は非常に厳密なことばです。日本語が一言で「愛」とまとめることばについても、いくつかニュアンスの違うことばが使い分けられます。 パウロは、9、10節で、アガペー、フィラデルフィア、フィロストルゴイの三つのことばを用いて、クリスチャンの愛の実践がいかなるものであるかを考えさます。 まずアガペー、それはイエスの十字架の愛、もっと日本的な感覚で言いますと、「人が生かされるために、自分の命を差し出す」あるいは、ギブ&ギブの愛のことです。そういう愛には偽りがあってはならない。原意は、俳優が演じるようなものではないという意味ですが、見せ掛けではない与え尽くす愛に生きるようにと勧めます。 10節では、「兄弟愛を持って」と、フィラデルフィアという単語を使います。つまりギブ&テイクの愛です。 私たちの生活では非常に当たり前の、むしろ、私たちはこういうところで生きているのだと思いますが、そういう愛も大切なのです。 そういう愛を用いつつ、「互いに愛し合いなさい」と、続けてフィロストルゴイという単語を使います。 これは「家族愛」を意味することばです。ですから、ギブ&ギブの愛を用いて、またギブ&テイクの愛を用いて、一つ家族のようになっていきなさいというわけです。 次に15節。意外と世間にも良く知られた一節。「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」注意すべきは、「喜ぶ者」「泣く者」いずれも原語では複数形です。またいっしょにということばは、「二者間でいっしょに」というよりは、「ある集団の中でいっしょに」を意味することばです。 つまり、パウロの頭にあるのは「教会」です。教会全体の喜びと痛みをその輪の中でいっしょに喜び、痛むことについて、宛先人(ローマ教会の人々)に勧めるのです。


    2001年9月9日 「義務を果たす」(ローマ人への手紙13章1-8節)

    人はみな、上に立つ権威に従うべきです。(ローマ人への手紙13章1節)

    このことばは、政治的権威に対する服従を語るものと捉えられることがあります。 なるほど、政治が、正義を実現しているのであれば、問題ありませんが、もし政治が正義を踏みにじることがあったら、 たとえば、過去の戦中のようなことが起こったなら、このことばはどう受け止めていくべきでしょうか。 あくまでも政治的権力には絶対服従をしなくてはならないのでしょうか。私はこう考えます。 パウロのこの手紙が書かれたのは、AD58年の2月とされています。この時代のローマ皇帝はネロでした。 かの母殺し、妻殺し、部下殺し、キリスト教徒の迫害者で、悪名高きネロだったわけです。 しかし、ネロの執政のはじめは、善政であったと言われます。 ネロが残忍になっていくのは、AD62年以降、ことにAD64年のローマ大火からであったと言われます。 つまり、この手紙が書かれた時は、ネロの裁判を待っているパウロが寛大に扱われていることからもわかるように(使徒28章)、 社会は平和そのものであったということです。そのような時代に、パウロは、人はみな、上に立つ権威に従うべきですと語ったわけですから、 これは政治的権威に対する服従を勧めるというよりは、秩序維持を勧めるものと理解すべきでしょう。 というわけで、政治が正義を踏みにじるような時代における神のみこころは別の聖書箇所を根拠として考えるべきです。 たとえばTペテロへの手紙2章13節以降が、そうです。書かれたのは、AD65年、ネロの残忍なキリスト教徒迫害の最盛期でした。 ここでペテロは、キリストの十字架の足跡に従うように勧めているようです。 信仰のために命をかける?自分を犠牲にする?…。と思われるでしょうか。 山本七平という評論家がこう言っています。日本にクリスチャンはいない。いるのは、「日本教徒キリスト派」だと。 クリスチャンのまねごとをする日本人はいるが、真の意味で信仰を持つ者はいないということでしょう。実に痛いところをついています。 信仰よりも自分を優先させてしまう。自分の何かのために、信仰を犠牲にしてしまう。何のための信仰でしょうか。 信仰というのは、その人の生き方そのものであり、命であるはずです。 パウロの晩年の告白、ネロの迫害下で殉教をまじかにしたことばはこうです。

    「私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました」

    今週も、主のあわれみによって、「信仰にかけて生きる」姿勢へと導かれてまいりましょう。


    2001年9月16日<岸尾師特別礼拝説教>

    もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。 (ヨハネの手紙第T1章9節)

    祈りには、様々な内容があります。一般的なのは、願い事の祈りでしょう。しかし、今日は、罪を告白する祈りについて考えていきます。 というのも、人間には、心の中に罪の思いというものがあり、罪の呵責にさいなまれることがあるからです。 これをどう解消したらよいものでしょうか。聖書は、罪の思いを消すために、告白の祈りを勧めます。 聖書が言うように、私たちが罪を言い表すならば、神は赦してくださるとある。 なぜなら、神は真実で正しい方だからとあります。何に対する真実さでしょうか。 それはイエスの十字架による契約に対する真実さです。神はすでに、私たちの一切の罪の責任を、イエスに求められたわけです。 イエスが人類のすべての罪の責任を、十字架で担ってくださった。尊い命をかけて担ってくださったわけです。 このイエスの苦しみによって、私たちの一切の罪は赦された、その事実を自身のためであると受け入れる時に、神は私たちの罪をも赦してくださる、 それは、まさに契約的信仰であったわけです。 神は、この契約に真実である、私たちが罪を犯し、それを告白するならば、このイエスの十字架の契約を引き出し、それに基づいて赦してくださるというわけです。 私たちがたとえ忘れていたとしても、神はこの契約を忘れることがありません。そして一切の罪を赦してくださいます。 また、きよめてくださるとある。神は、私たちの心を新しくしてくださるというところが大切です。 もう一つ大切な点は、2章1節。こうあります。「もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。 それは、義なるイエス・キリストです」 ある牧師は、このことばを解説して、父親に怒鳴られている息子の間に、母親が入って、とりなしている、そういうイメージであると言いました。 イエス様は、今日も、私たちのために、御父の御前で弁護してくださっているのです。 主イエスのとりなしに感謝し、罪の告白の祈りをささげ、赦しの恵みの中に、今週も新たな歩みを進めることといたしましょう。


    2001年9月23日 「昼が近づいた」(ローマ人への手紙13章7-14節)

    夜はふけて、昼が近づきました。でるから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具をつけようではありませんか。(ローマ人への手紙13章12節)

    7節は納税の義務について語るものです。当時は、直接税、間接税、宗教税の三つの税金がありました。 今日的に言えば、国に収める税金と教会にささげる献金を一緒にしたようなものです。 それにしても、現代的な状況に通じる勧めです。権利ばかり主張し、義務を怠る。 こういうことのために、日本の国は財政赤字に悩んでいます。教会も窮乏しています。 「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返す」、イエス様のことばにもあるように、聖書はまことに実際生活に即したことを語っています。 ただ、私たちは罪人です。払うべきものを払う、ささげるべきものをささげる、そう意識したり、心に誓ったりしても、そのようにはしないものです。 どこか損だと思う心がある限り、行動も変わらないのです。 ですから、まず神様の十字架の愛に満たされることです。 与えること、犠牲を喜びとする新しい心をいただかなくてはなりません。 今の時代は、金にならない仕事を仕事と思わなくなった時代です。またグルメとセックスばかりを求める時代であるとも言われます。 それは自己愛的生き方の反映です。自分を大切にするあまり、自分だけを大切にし、他者への心遣いを喪失した、そんな生き方の結果です。 なんとも残念な世の中になりました。聖書が比ゆ的に語るように、「夜はふけて」いくばかりです。しかし、それで終わるわけではありません。 聖書は「昼が近づいた」と言います。神様にお会いする時が近くなったと言うのです ですから、私たちは、肉の欲のために心を用いずに、正しい生き方をしようではないかと勧められます。 相田みつおさんのことばに「自分の番、命のバトン」ということばがあります。 私たちは、次の世代に渡すべき命のバトンを握っている。問題はどんな命のバトンかです。 子どもを持つ者にとっては、切実な問いです。しみやしわや傷のない、愛と喜びと感謝と真実さに満ちた命のバトンをこそ、渡していきたいものです。


    2001年9月30日 「義と平和と聖霊による喜び」(ローマ人への手紙14章)

    神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。(ローマ人への手紙14章17節)

    ローマ教会には、良心と宗教的な確信から、ある食物を食べることを避けている人々がいましたが、 そういう人たちは信仰的に細かいことに拘る弱い人だと評価され、軽蔑されていたようです。 なんとも今日的な問題ではありませんか。クリスチャンのポリシーを問われる問題。 たとえば、お酒の付き合いをどうするか。 神社参拝や、お焼香など日本文化との接点において、クリスチャンとしてのアイデンティティをどう保つか。 非常に難しい問題です。何でもOKという人とそうではない拘りを感じる人はいるわけです。 そこでパウロに考え方の原則を学ぶことにしましょう。 第一に、パウロは自分の心の中で確信を持つように勧めています。本当はだめなんじゃないかと迷いながらする、これが一番悪いのです。 また自分の確信を相手に押し付けないことも大切です。 信仰というのは、人それぞれが神の御前にそのあり方を問われているのであって、皆で一緒というようなものではありません。 大切なのは、信仰の自立性です。自分はどう確信し、どうするのかという部分です。 第二に、自分の確信を、自身の生き方から吟味することです。 クリスチャンには、やがて人は皆神の御前に立つという終末史観があります。 つまり今自分がやっていることは、やがて神の御前で申し開きをする時に、きっちり説明できることか、そういう吟味が必要なのです。 第三に、自分の確信や行動を、愛という観点から吟味しなくてはなりません。教会はあるがままにいれるところですし、どんな言動も自由なはずです。 しかし時と場によっては押さえるという常識感覚まで失ってはなりません。人は様々ですから、躓きを与えないように配慮していく心がけは必要でしょう。 実際強い者というのは、弱い者の立場や気持ちを理解し、自制できるからこそ強い者といえます。 ただ人を躓かせない、そんなことを考えてばかりいると人間はどうも萎縮してしまいます。 ですから、もっとプラスに物事を見なくてはなりません。 つまり、人を活かす、人の徳を立て上げる、そういう観点から自分の確信なり言動なりを吟味していくのです。 「しない」ではなくて、お互いの霊的成長に役立つものを積極的に求めていく。 まさにそのような態度こそ、義と平和と聖霊による喜びに満ちた教会にふさわしいものではないでしょうか。



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    2001年10月


    2001年10月7日 「人を活かす人生」(ローマ人への手紙15章1-3節)

    わたしたち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。(ローマ人への手紙15章1節)

    今日は三つのことを教えられてまいりたいと思います。 第一に弱さを担うということ。パウロは非常に具体的に語ります。自分のことばかりではなく、隣人に対してもっと配慮せよと勧めます。 なんとも、私ども人間は自分のことを中心に考えやすいものです。 クリスチャンは救われたなどといっても、やはり救われた罪人ですから、何かあると自我が出てまいります。 そして自分を守ろう、自分を正当化しようと争ってしまうことになるものです。 何事もそうだと思いますが、どこか「痛み分け」。「折れ合い」というものがなくては、人間関係というものはうまくゆきません。 ところが、パウロが言っておりますことは、「痛み分け」といったものではなくて「痛み損」をしろということです。 人の弱さを担えというのは、そういうことです。 実際、教会というのは、忍耐と希望と励ましを必要とする場です。そういうものが教会からなくなってしまったら、本当に希望がありません。 しかし、忍耐と希望と励ましを教会に満ちたらせようと思ったら、「痛み損」をする親心がなくてはなりません。 人を活かす力というのは、そういう、子どものそしりを一緒になって受けるような親心がなくては起こって来ないものなのです。 そのような、痛み損が出来る教会は、祈りの結果として建てあげられるものです。 実際、人と人が手を取り合うためには、様々な感情的なすれ違いや、個人的なトラウマ(傷)が癒されていかなくてはなりません。 率直な話し合いも必要かもしれませんが、それ以上に、神のあわれみと祝福が必要なのだ、 そしてそのためには祈らねばならないという自覚がクリスチャンにあることが大切です。それが第二のこと。 最後にもう一つのこと、パウロには終末史観があります。やがてすべての教会が一つとなることを願う、そういう心がはっきりしています。 パウロは、ローマからイスパニヤ(スペイン)にまで伝道する計画を持っていました。 しかし、パウロは、伝道のしっぱなしをよしとしません。教会が出来ればそれでよしというわけではない。 すべての教会が一つになる。神の支配のもとに服従し、皆が助け合いながら諸教会の歩みを強めていくことを願うのです。 自分の教会のことばかり考えているようではだめでしょう。 日本の教会、あるいは世界の教会全体を考える、それがやがて一つになる、そういう発想から自分の教会の働きを見直し、考えていくことが大切です。 自分がやっていることは、日本の教会全体、さらには世界の教会全体の必要にかなうことなのだという意識が大切なのでしょう。


    2001年10月14日 「平和の神、永遠の神、知恵に富む唯一の神」(ローマ人への手紙16章)

    知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって御栄えがとこしえまでありますように。アーメン。(ローマ人への手紙16章27節)

    ローマ人への手紙は、本来15章で終わりです。 この手紙は、フィベによってローマへ運ばれたと考えられていますが、16章は、そのフィベをローマの教会に紹介するための、紹介状であったと考えられています。 つまり独立した手紙です。 最初に、フィベの推薦があります。「主にあってこの人を歓迎し…助けてあげてください」とあります。パウロの親心が感じられます。 誰でも、新しい土地、不慣れな土地への旅には、不安があるものでしょう。そんなフィベを歓迎し助けて欲しいというわけです。 普通、教会員が転出する際、牧師は、転出先の教会に推薦書を書き送りますが、しばしば形式的になされてしまいます。合理化されすぎた現代であればこそ、 一言添える、人間的な配慮や心遣いを大事にしたいものだと、思わされます。 次にパウロは、自身の友人のリストをあげ、挨拶のことばを書き連ねます。 しかし、それはフィベがローマで人間関係のきっかけを得、信仰を成長させるに役立つ人たちのリストであったようにも思われます。 聖書に習熟し、開かれた心、開かれた家庭を持ったプリスカとアクラ。アジヤ最初の信仰者エパネト。 主のために、自身を消耗し尽くすほどに労苦したマリヤとペルシス。無名のよき働き人アンドロニコとユニアス。解放奴隷のアムプリアト。 イエスの十字架を負ったシモンの息子ルポス。フィベの不安を一掃し、信仰を刺激し、ローマへの旅を喜びと期待に膨らませる面々であったといえるでしょう。 最後の勧告が述べられます。分裂とつまずきを引き起こす人を警戒し、遠ざかれと。教会は救われた罪人の集まりですから、様々な問題が起こるのはやむをえません。 問題のない教会などありえません。ですから問題をどのように解決するかが大事なことです。 パウロは、お互いに議論を重ねたり、苦労しながら意見を調整したりすることよりも、解決を神に委ねことを勧めているようです。 事実、人をさばくのは神のみであり、すべての過ちは神が正してくださることでしょう。人は神に教えられることがないならば、決して悟らないものです。 最後にパウロの神観に学ばせられます。 平和の神、永遠の神、堅く立たせることができる方、知恵に富む唯一の神。どのような神を信じているかが、その人の人生は大きく左右するものです。 私は自分が小さな者であると思っています。自分に、特別、何か優れたところがあるなどとは思いません。 しかしだからといって目標を低く見積もり、チャレンジを怠るようなことはしません。 というのも、知恵に富む神が共におられることを覚えるからです。 自分の知恵などたいしたものではありません。他人から拝借した知恵も限りがあります。だからこそ、神の知恵に導かれ、支えられ、大胆に歩みたいものです。


    2001年10月21日 「神の主権」(ヨブ記1章)

    私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。(ヨブ記1章21節)

    私たちの人生には説明のつかない苦しみというものがあるものです。 そのような苦しみをどうとらえていくべきか、ヨブという人物の物語は、そのケーススタディとして読み解いていくことができます。 ヨブは、非常に立派な人物でした。第一に彼は順風漫歩の歩みの中で、神に忠実に従う、神のしもべでした。 こころのたがが外れやすい繁栄の中にあって、神を恐れる生き方のできる者であったということです。 そして第二に、彼は逆境においても、神に従い続ける者でした。人は、裸で生まれてくるものです。 しかし人生の歩みを進めるにつれて、様々なものを身に付けていきます。 財産であったり、名誉であったり、肩書きであったりと、様々に着膨れしていくわけです。 もともと何も持たない者であるという自覚がこうして失われていくことがあります。 裸身の自分を忘れ、様々に重ね着した付属物を自分であると思ってしまうのです。 しかし、ヨブはそうではありませんでした。 ヨブは、東の国の中で一番の富豪という付属物を引き剥がされても、あるがままの自分を素直に受け入れたのです。 「私は裸で母の胎から出てきた。また裸で私はかしこに帰ろう」と。 このようなただしさを持ったヨブがさらに試練を受けることになります。 自分の生き方を揺るがされるような試練です。あまり病気を患ったことのない人には、わかりにくいことかもしれません。 しかし、病がいかに人を狂わせることか。 いかに悲惨な結論に、人を導くことか。ヨブも同じでした。 あれほど神のもとに服従し、神のご計画を尊重したヨブも、とうとう弱音を吐いてしまいます。 そして友人たちとの議論によって、自分の正当性と神の不当性を訴え出る始末に至ります。 これに対する神の答えは、神のみこころの計り知れなさ、また神の愛の深さをどこまでも信じ続けよというものでした。 こうやって考えますと、信仰というのは、非常に前向きなことでありますし、勇気を必要とすることです。 しかし、勇気を持って、従い続けたその期待は決して裏切られることがありません。ローマ書に「この希望は失望に終わることがありません」とあるとおりです。


    2001年10月28日 「教会1(教会がある理由)」(イザヤ書55章)

    どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。 それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。(ローマ人への手紙15章5-6節)

    なぜ人は存在しているのか。この問いに対する聖書の答えは明確です。それは身をもって神の栄光をあらわすためです。 ウェストミンスター小教理問答書にも、そうあることを覚えておられるでしょうか。そして、これは教会においても同じです。 教会は神の栄光を現すために世に存在すると言えます。では、神の栄光を現すとはどういうことなのか。一般的に聖書は三つの意味でこれを説明します。 第一に、神の栄光は、まばゆい光という超自然的現象、つまり「神の臨在の輝き」として語られています。 第二に、それは天体、人間など神に創造されたすべてのものを指して、いわば「神の創造物の輝き」をさして語られています。 第三に、それは、自身を低め、神を高めること、いわゆる「神に栄誉を帰す輝き」をさしています。 バプテスマのヨハネは、神に栄誉を帰した、つまり神の栄光を現した、もっともよい例であるといえるかもしれません。 ヨハネは言いました。「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません」 そこで私たちは、神の栄光を現すために、次のことを考え実践してみてはどうでしょうか。 たとえば、私たちは、神に帰せられるべきどんな栄光も、期待したり受け取ったりすることを拒否するように決心するということです。 また、世にあるどんなものよりも、神との関係を優先させることを、より重要なこと、第一のこととすることです。 そのためには、私たちは、神様ご自身にしばしばお会いし、神様と個人的な時間を持つ、いわゆる静まるということをしなくてはなりません。 また、自分の栄誉を期待したり、受けないために、自分の弱さを霊的に語り合える友を持つことです。 さらに、いつも、私たちは、あらゆる事柄に、「これは神に栄誉を帰すことであろうか、それとも自身に栄誉を帰すことであろうか」 と自問自答してみる心がけが必要です。 ソクラテスはかつてこういいました。「悪者は飲み食いするために生きる。しかしよい者は、生きるために飲み食いする」 パウロはこう語ります。「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい(Tコリント10:31)」 教会は神の栄光を現す場として、世に、存在するのです。そして教会とは、そこに集う一人一人のことであることを忘れてはなりません。



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    2001年11月


    2001年11月4日 「教会2(教会に求められるもの)」(使徒の働き2章42-47節)

    そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。 そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。(使徒の働き20章42節)

    神の栄光を現すとは、神が今ここにおられるということがはっきりとわかる、そのような状況であることをお話しました。 確かに、私たちにとって最大の務めは、生ける神を証しすることです。さて、今日は、教会に求められる四つの機能についてお話します。 第一に礼拝。やはり教会の中心は、神を礼拝することにあります。 最近、シアター(劇場)型の礼拝があると聞きます。 つまり劇場に通うような感覚で礼拝が守られるということで、具体的には、素晴らしい説教、素晴らしい賛美に触れるために、教会に通うというものです。 けれども、初代教会の礼拝には、まず参加者の献身的な姿勢がありました。 ある英訳聖書では、”They devoted themselves to the apostles' teaching and to the fellowship(使徒の教えと交わりに自分たちを捧げていた)” とあるように参加者の姿勢自体に学ぶものがあります。 また、彼らの礼拝には、神への畏れがあり、心を一致させる姿勢がありました。 礼拝において、何か自分が満たされるということを求めて参加するというのではなく、 それこそ私たちは、「神様に礼拝をおささげする」という根本的な姿勢を養い、育てていきたいものです。 第二に教育という教会の機能を見ていきます。 教会における教育というのは、聖書的価値・思考・行動・習慣の修得です。 聖書的価値の中心は十字架の愛に尽きると言えますが、これがなかなか修得されないのが人の世の現実ではないでしょうか。 実際、聖書は、「考えさせられた」、「感動した」、「元気が出た」といったレベルで読まれていることが多いのです。 しかし、初代教会においては、聖書の教えは、「堅く守る」べきものとして大切にされました。 みことばが教えられ、記憶され、従うものとして、つまり堅く守られるものとされていくときにこそ、 その教会は神の栄光を現す教会、いわば神がおられる教会であることを示すことになるのです。


    2001年11月11日 「教会3(教会に求められるもの)」(使徒の働き2章42-47節)

    そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。 主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。(使徒の働き2章46-47節)

    今日は教会の4つの使命の残りの二つについて交わりと伝道についてお話します。 まず交わりですが、初代教会において注目されるのは、「共有」という考え方です。彼らは分かち合う群れでした。何を分かち合うのか。様々な物でした。 けれども、大切なのは、物を分かち合う心遣いなのでしょう。物を出し合うというよりも、お互いの必要に気づいて、必要に答えてあげるという部分です。 私たちの人間関係はギブアンドテイクで成り立っています。しかし、ギブアンドテイクは、親密さ、親しさを深めるところに、本当の意義があります。 見返りを期待するのではなくて、お互いに親しさを増し、いわゆる村社会、さらには家族のようになっていく、 そういう愛の共同体を育む行為として「共有」があるわけです。限りなく共同体の愛を深める交わり、そのあり方が大切です。 第二に伝道。まず、初代教会において伝道そのものが交わりでした。 交わりといいますと、現代の教会では、クリスチャンが仲間内でお茶を飲みながら雑談をし、楽しい一時を持つそんなイメージで語られます。 しかし、パウロがピリピ教会の人たちに感謝していることは、伝道することで交わりを保ってきた点です。 伝道活動に伴う、様々な痛み、悩み、悲しみ、喜び、感謝、そういう伝道活動に勤しんだもろもろの日々を、交わりと考えているのです。 次に、初代教会の伝道は、教会に人を「連れてくる」伝道ではありませんでした。言ってみれば「巻き込む」伝道です。 私たちが持つべき関心は、「教会へいかに人を連れてくるか」というのではなくて、 教会を構成しているクリスチャン一人一人に人を「巻き込む」力があるかということです。 教会を構成しているクリスチャンそれぞれが「世の光・地の塩」としての機能を果していれば、人は教会に巻き込まれてくるのです。 というわけで、伝道において何よりも大切にされなくてはならないのは、クリスチャンの自己啓発・成長です。 クリスチャンが、神様を喜びとし、畏れ、愛し、従っていることを何よりも大切にしなくてはなりません。


    2001年11月18日 「教会4(教会が持っているもの)」(テサロニケ人への手紙第T2章1-13節)

    では、わたしもあなたにいいます。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。 ハデスの門もそれには打ち勝てません。(マタイによる福音書16章18節)

    クリスチャンはいかなるものか、パウロの姿勢から教えられてまいりましょう。 第一の特徴は、聖書的な考え方をするということです。宗教というのは、凡そ価値を伝えるものです。 キリスト教の場合は、聖書的な価値観で物事を考え、行動することを教えていく。 つまり、教会というのは、聖書的な価値を共有するところなのです。 こういう基本的なところが、よく理解されていませんと、「船頭多くして、船、山に登る」ではありませんが、 何かあるたびに意見がぶつかるばかりで、教会が混乱するものです。 教会というのは、聖書的な価値を学ぶ場でありますし、聖書的な価値を共有する場だということを理解しなくてはなりません。 第二に、クリスチャンは、聖書に忠実に生きている者です。己に正直な生き方をする、こういう生き方がしばしば日本人には好まれます。 聖書に忠実な生き方というのは、何とも、自分を生きていないようで不安に思う人もいることでしょう。 しかし、フランスの精神分析学者ジャック・ラカンが「人間は他者の欲望を生きる」と語ったように、自分と思っていることも、 実際には自分でなかったりするものです。 人間は、謙虚になって、歴史によって裏打ちされた深い叡智に学ばなくてはなりませんし、それが真実であると思いましたら、従うことも大切です。 第三にクリスチャンは教会で家族的意識を養う者です。教会というのは、パウロにとって会社ではなく家族でした。 家族的な営みがなされる場だったのです。現代の社会において「絆」を学ぶことのできる場というのは、そんなに多くはありません。 キリスト教会というのは、そういう意味においては、リレーション作り、しかも家族的な親しさをもった人間関係作りの学習の場でもあるのです。 第四に、クリスチャンは、神をどこまでも信じていく者です。 クリスチャンも人間ですから、様々な現実の問題に直面し、不安になることも、恐怖にかられることも、逃げ出したくなることも、あるわけです。 自分に偽って、いつも平気の平助を装う必要などないのです。 しかし、誰もがもうダメだと思うような状況で、クリスチャンは、「神が働いておられる」と信頼し続けることが大切です。 クリスチャンが信じているのは、全能の神です。それこそ天地万物を無から生じさせた、創造主を信じているのです。 このような確信に生きている一人一人によって「教会」というのは建てられていくのです。イエスはおっしゃいました。 「私は私の教会を建てる」と、そしてその教会は「ハデスの門も打ち克つことができない」と。 教会が建物のことであったらこんな言い方はしなかったことでしょう。 まさに、教会が人であり、目に見えない部分に価値を置くものであるが故に、イエスはこう語られたのです。


    2001年11月25日 「教会5(祈りと証し)」(テモテへの手紙第U4章2節)

    あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。 しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。(ルカの福音書18章8節)

    問題のない教会などありません。初代教会にも問題が起こっていました。 教会でなされていたやもめに対する配給に、偏りが生じたというのです。使徒たちの対応から四つのことを教えられます。 第一に、問題は起こるべくして起こることです。当時使徒たちは、何から何まで一切合切の責任を負っていたようです。 目が行き届かない、つまり状況把握がきちんとされず、ケアーの質が落ち、種々問題が生じるのも無理はなかったわけです。 第二に、責任分担が一つの解決策でした。 自発的な気づきこそが求められる、そういうことは誰もがわかっていることですが、人間の現実はそんなに甘くはありません。 やはり人間は自己中心な者ですから、仕事を明確にして役割意識を持たせることも大切なのです。 第三に、責任をしかるべき人に任せることです。マネージメントの世界では、「2,6,2の法則」があるそうです。 つまり組織を、おみこしかつぎにたとえると、声をからしてリードするような人が2割いる。 リードに従って、汗をかきながら一生懸命おみこしを担いでくれる人が6割。 最後に、おみこしの棒によりかかったり、ぶらさがったり、組織の足を引っ張る人が2割いるというのです。 実際、現状批判はよくするけれど、その改善策を示さない人、権利の主張は熱心だけど、果たすべき役割意識が抜け落ちている人、 立派な理屈はこねるけど、理屈を実行しない人、こんな人に責任を任せたら大変です。 使徒たちも仕事を委ねるべき人を選びました。聖霊と知恵に満たされた評判のよい人です。 それは聖書的考え方ができる、霊的な判断力がある、神を愛する心から奉仕に専心する、人とうまくやっていける人だと言えるでしょう。 そうやって使徒たちは、自分たちの本来の職務、「祈りとみことば」の働きへと専心していきます。大切なことです。 教会は祈りとみことばによって建てられるわけですから、彼らは教会のエネルギーを生み出す働きに専念したわけです。 なお、セルグループ、コーチング、マネージメント、カウンセリングこういう手法を教会運営に取り入れていく、 私は、それ自体悪いこととは思いません。玉川の教会は、そういうことがよくわかっている。 よくわかって、ちゃんとしかるべき訓練を受けた上で導入もできる。けれども、それらどんなことよりも、祈りとみことばに教会の原動力を見出す。 神に信頼することで、教会が立ち上がっていくことを証する、そういう教会でありたいものです。



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    2001年12月


    2001年12月2日 「天地を造られた神を礼拝する」 (ヨハネの福音書4章19-26節)

    「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません」(ヨハネの福音書4章24節)

     本日より降誕節に入ります。巷では、忙しさと、刹那的な騒がしさに浸る季節となります。一方、教会では静かにイエス様のみ業を覚え、そのご降誕を喜び祝います。世の中と教会のギャップが大きくなります。 そんなことから教会の内と外の顔を使い分けたジキル・ハイド的な生き方をなさるクリスチャンもおられるかもしれません。どのような歩みをなさるかは、その人の自由ですが、人の行動はすべてその人の価値観、考え方を表すものです。神を愛し、神の聖さと義さを求めて歩む者として、この月をどのように過ごすか、それぞれ聖書から教えられたいところです。

    さて、本日の事柄、イエスのことばの要点は明快です。礼拝で祝福を受ける、受けないは、礼拝者の心がけ次第だということです。 しかし、幼いクリスチャンには、こういうことはわかりません。よい説教、よい賛美、よい交わり、そういうことで礼拝の場を定めようとします。それはちょうど子どもがおまけでお菓子を選ぶようなものと似ています。 礼拝において大切なのは、与えられることばかり考える受身的なあり方ではなく、むしろ、「霊とまことを持って礼拝する」つまりささげるという前向きで積極的なあり方です。そのような真の礼拝者こそが、神からの祝福を豊かに受けるのです。場所や人、設備の問題ではありません。

    積極的に礼拝をささげ、祝福を受けるために、三つのことを覚えましょう。 もし、前向きな態度で礼拝をささげようと思うならば、礼拝は礼拝の前からすでに始まっている、と心得るべきです。週日に次週の礼拝の祝福を祈る、当日に礼拝の祝福を祈る、神様のお招きのことばである招詞に心から応答する。そんな心がけが大切です。 第二に、礼拝を前向きな態度でささげる証しとして、ささげるべきものを準備しましょう。自身の一週を振り返り、神のみこころにそぐわぬものがあると思うならば、悔い改めの心をそのまま神にささげることです。あるいは、よい決意をささげる、供え物を用意してささげる。 最後に、これは司会者が心得るべきことですが、司会者の役割は、礼拝プログラムを順序よく進めることではありません。司会者も礼拝をささげるのです。霊とまことによって礼拝をささげるのですから、司会者はそれ相当に、霊的に訓練を受け、整えられている必要があるのです。

    2001年12月9日 「みこころがなるように」 (ルカの福音書1章26-38節)

    神にとって不可能なことは一つもありません。(ルカの福音書1章37節)

     今朝開きました箇所には、キリスト教会では「処女降誕」と呼ばれる出来事が描かれています。 まだ男性といかなる接触もない女性が妊娠したというのです。不可思議な出来事です。 ただクリスチャンといっても、色々です。同じ聖書を手にしながら、ある者は「処女降誕」を受け入れて信仰を持っています。そしてある者は、これを否定しながらもクリスチャンであると自称しております。 これをどう考えるか。聖書に対しては、少なくとも二つの態度が取られているのだ、と考える必要があるでしょう。 「聖書」に絶対性を置き、聖書に書かれていることを書かれているがままに理解しようとする立場が一つ、これに対して、「読み手」に絶対性を置き、自分の思考の枠組みで聖書に書かれていることを理解しようとする立場です。 私はプロテスタントキリスト教の聖書解釈の伝統は、前者であると思います。不可思議なものは不可思議なままに、「聖霊によって(神の力によって)」と語られている以上、それをそのまま受け止めていく。妄信しているわけではありません。信じられないことがあるとわかった上で、信仰によって受け止めていくのです。 さて、保守的なクリスチャンは、このように奇跡に対する許容力を持つわけですから、気をつけなくてはならないことがあります。 つまりクリスチャンの思考は常識を逸することがあるかもしれませんが、非常識であってはならないということです。 奇跡の神を信じているとしても、神は便利な「ドラえもん」なんかではないのです。「神にとって不可能なことは一つもありません」というので、「何でも祈ればかなうのだ、よい結果にならないのはあなたの不信仰のためだ」などと言うような人は、神の主権を忘れてしまっています。神を畏れなくてはなりません。 それから、神にとって不可能なことはないというのは、何もしなくても、祈ればことが成るということでもありません。必要な努力はしなくてはなりません。スマイルズという方は、「天は自ら助くる者を助くる」と語ったそうですが、クリスチャンの生き方も同じです。神の奇跡の御手は、人間にとって不可能なことにこそ働くのです。

    2001年12月16日 「救い主の誕生」 (ルカの福音書2章1-7節)

    ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。(ルカの福音書2章6-7節)

     クレニオがシリヤの総督であった時のことです、住民登録とありますが、いわゆる課税のための戸籍調査です、がありました。当時、この14年ごとに行われる戸籍調査のために、人々は自分の生まれ故郷に帰るという、まあ、大変な移動がありました。 マリヤもなんと臨月にありながら、ナザレからベツレヘムへ、約120キロの大変な旅をしなくてはなりませんでした。まあ、今日では車で2,3時間の旅ですが、当時は徒歩でしたから、なんとも身重のマリヤが気の毒です。ともあれマリヤは、男の子を出産します。 イスラエルのベツレヘムに行きますと「聖誕教会」というイエスの聖誕地を記念する教会があります。その地下に洞穴がありまして、イエスが降誕なさった場所として保存されています。すっかり観光地化されて、ただの伝説で、事実とは区別すべきであるというのが学者の意見です。 ともあれ、当時の馬小屋には、この洞窟型を含めて幾種類かあったようですが、それにしてもろくな場所ではない。天地万物の支配者であり、神の子である、そんなお方が生まれるべき場所ではありません。 もし、皇室や王室に世継ぎが生まれるとしたら、こんなことは決してありえないことでしょう。家族専用の病院に、黒塗りのリムジンかなんかで運ばれて、専門の担当医がついて、生まれた子どもは、かいばおけなんかじゃなくて、それこそ最高の肌触りのベットに大切に寝かされるんじゃないでしょうか。 けれども、ここが大切なところ。つまり、神は、人を救いに導くために、人とまったく同じようになられたと聖書は言うのですが、人とまったく同じようになられることにおいて、特別な人生を選ばれなかったということです。私たちの普通の経験、否それ以下の人生を選ばれたということです。 イエス様は、この後、父親を亡くし、大工として働き家計を助けたようですね。色々と家族のために犠牲を払い不自由な生活をなさった人は、こういう苦労がよくおわかりでしょう。 しかし、神様が天地の支配者であるという神様のあり方を捨てて、そういう生活を自ら選んでくださった。有名大学の健康管理専門医や家庭教師がつくような生活ではなくて、しもじもの人間の生活をこそ選んでくださった。 こういう神様が、「私を呼び求めるならばいつも私はあなたとともにいる」と語っているわけです。また「信じてついてくるならばあなたを天国に連れて行ってくれる」と語っているわけです。 神様というのは、遠くにおられる、わけのわからない存在ではありません。私たちの生を味わい、私たちの人生の何であるかを知っておられるお方です。その方が、私たちを慰め、励まし、助け、また導くといっておられるのです。

    2001年12月23日(礼拝説教要約) 「クリスマスのよき知らせ」 (ルカの福音書2章8-20節)

    きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。(ルカの福音書2章11節)

     イエスの降誕に招かれた羊飼いの物語から学びます。 日本人には、聖書を読むにあたり、一つの限界があるように思います。 やはり聖書は、2000年前のパレスチナで書かれたものです。 そうした文化の差、時代の差、民族の差というものを、わきまえないで聖書を読みますと、どうしても表面的な理解で終わってしまいます。 聖書を、聖書を書いた著者の観点から理解するためには、少なくとも、ユダヤ人が羊飼いをどのように受け止めていたかを知らなくてはなりません。 そうやって色々と調べてみますと、どうも羊飼いというのは、ユダヤ社会では、差別される存在であったようです。 ユダヤ社会では、厳しい生活上のあるいは衛生上の規範というものがありました。 実は、古代からこうした生活規範を持っている国民というのは珍しいと思います。 日本でも、子どもが歯を磨いて寝るとか、食前に手洗いをするとか、そういうしつけが当たり前のように言われたり、なされたりするようになったのは戦後のことです。 アジアには、まだまだそういう点で、指導が必要な国々があるものです。 ともあれ、そのような社会で、どうも野から野へと放牧し仕事をする羊飼いたちは、そうした社会規範を守ることができないでいたようです。 そのため、彼らはユダヤ人の仲間内でも、異邦人と同じように扱われる傾向にあったようなのです。 そこで大切なのは、神様がイエスの降誕の喜ばしい機会に、そういう社会からつまはじきにされているような人たちを選んだということなのです。 どんな人でも、パーティにしろ、誕生会にしろ、喜ばしい機会に誰かを招くとしたらそれなりの意図を持って呼ぶことでしょう。 誰でもいいなんてことはありません。そこで神様は、羊飼いたちを、ユダヤ社会ではあまり相手にされないような人たちを招かれたということに、 私は色々と考えさせられるわけです。人間社会では、誰からも相手にされないような人たちを神様は招かれた。 誰も気にも留めないような人たちに、実は神様はずっと心配りをしてくださっていた、気にかけていてくださった。 そして真っ先に、イエス様の降誕をお知らせくださったということです。

    日本の社会も、ユダヤの社会と同じで、ある画一化された価値観に支配された社会であるように思うところがあります。 ユダヤの社会では、モーセの律法を忠実に守られる人、品行方正な歩み方のなせる人、内面はどうであれ、体裁はきちんとしている人、 そういう人がよくて、それ以外の人はだめだという考え方があったように思います。 一方、日本は、物事を合理的に考え手際よくなしていける人、いわば頭がよくて要領のよい人がいいんだという考え方が支配的です。 そういう路線から外れてしまった人というのは、どうも生活しにくい社会ではないかと私は思うわけです。

    けれども、世間がどうであれ、神様の心配り、気配りというものは、公平です。 すべての人に神様は関心を持っておられますし、すべての人の必要に答えようとされておられる。 そのよい証拠が、まさに、羊飼いに真っ先にイエスの降誕を伝えたということにあるのではないでしょうか。 背景を理解しますと、そこに神様のパーソナリティというべきものが見えてくる、 つまり、神様は愛であり、すべての人を平等に扱われ、気にかけてくださっている、これを今日の大切な学びとしましょう。

    2001年12月31日 「神の恵みの中を歩む」(マタイの福音書2章1-12節)

    そういうわけですから、兄弟たち。私は神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる 聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。(ローマ人への手紙12章1節)

    日本では、クリスマスが終わりますと、あっという間に、年末年始の準備に入り、せわしくなります。昨日までクリスマスツリーの店頭飾りが、も うしめかざりという状況で、日本人の文化の多彩さと言えばよいのでしょうか。ともあれ、私たちは、もう少し、イエスの降誕の恵みの余韻を味わう ことといたしましょう。

    今回は、博士たちに対する神の招きの物語を見ていきます。実に、イエスの生涯事態もそうですが、イエスの誕生においても、招かれる人というのは、 特殊な人ばかりです。羊飼いたちは、ある意味で、ユダヤ社会のつまはじきものの例と言えます。博士たちは、東の国の人々。ペルシャの国の人々であると いわれます。つまり、ユダヤ人にとっては自分たちをかつて支配し、奴隷とした忌むべき敵国の人たちです。

    日本人には、そういう感情というものがどこまでわかるか、私もわからない部分があるのですけれど、戦争により侵略され、支配された国の敵対感情というものは 根強いものがあるのではないでしょうか。中国の盧溝橋、日中戦争のきっかけとなった場所ですが、そこには抗日戦線博物館というものがあるそうです。多くの日本人の 観光客が盧溝橋を訪れながら、ここに寄る人は稀だそうです。不思議な場所です。それもそのはず、日本軍のなした様々な残虐行為が、写真や文書、ミニチュアなどで 再現されているそうです。日本人にとってはあまり知られるところのない場所、歴代の総理でも社会党の村山元首相ただ一人訪れたと聞いていますが、この博物館に 実は、中国人は小学校の学習の一環として必ず一度は訪れることになっているそうです。そうやって、歴史教育をしている。また、たとえばフィリピンの歴史教科書 にも、3年ほどの日本人の侵略行為が、やはり記載されて教えられているそうです。

    加害者というものは、被害者の気持ちをよくわかっていないことがあります。危害を加えたということに無頓着でいることがあります。しかし被害を受けた者は 決して忘れない。中東を始め様々なところで起こっている地域紛争、テロは、そうした激しい感情をやはり思い出させてくれます。 そういう視点からこの博士たちの物語を読みますと、神様が博士たちに、イエスの誕生を知らせたのは実に驚くべきことであることがわかります。 ユダヤ人に救いをもたらすイエスの誕生を、よりによって、敵国の人たち、異邦人と忌み嫌っていた人たち、神ののろいを受ければよいと思っていた人たちに、 神様は真っ先に知らせたわけですから。マタイも、どんな心境でこの物語を自らの福音書のはじめに書いたものでしょう。

    けれども、そのようなところに、やはり、神様の計り知れない全人類に対する愛と配慮を感じるわけです。私が第三者であるから、こんなことが言えるのかもしれま せんが、聖書は実に公平な恵みを伝えている。やはり全人類に対する救いの招きを伝えているのです。

    人間は、信仰を持った、善人であることを心がけるようになったなどと申しましても、やはり、自我の塊、罪の塊のようなものです。嫌な者は嫌ですし、好きな者は好き ということがあります。曲がったものを伸ばすことができない、そんな心が私たちにはあります。やはり人間は神様にはなれない。愚かな罪人に過ぎません。神に敵も味方 もおりません。しかし、私たちは、自身が敵を作り、自ら敵となっている、そんな状況があります。そういうわけですから、本当は、誰一人神の祝福を受けるにふさわしい者などいないのです。 けれども、神様は、そのような私たち一人一人に、イエスのもとに来るように、と招いておられるわけです。イエスのもとに救いがある。イエスのもとに、いやしがあり、 新生があると。イエスのもとに来るならば、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物になりうるのだと。ご自分の恵みに招いておられます。 私たちが人間らしく生きるために、本来人間に与えられた美しい品性に生きるために絶対に必要とされるものは、イエスであり、イエスの十字架です。イエスのご降誕に 喜びと感謝を表し、主の恵みを覚え、今年も閉じることといたしましょう。



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