人生と信仰
人生と信仰の問題に関する聖書からのヒント
生と死
なぜ自殺してはいけないのか
自殺に関しては、その自殺願望がどこまで具体的に考えられているかをまず聴いていく必要があります。
そして緊急な状況があれば、それなりの対処が必要です。
また、色々な問題を背景として自殺願望が出ているとわかるようであれば、その問題の具体的な解決方法を共に考えてあげることが解決の道筋となるように思われます。
しかし、ここでは哲学的な疑問、人生の意味を問う、なぜ自殺してはいけないのかという質問に答えてみます。
「いのち」の問題は論理的に答えられない部分がありますが、あえて論理的に考えると、このように言えないでしょうか。たとえば時計は自分が買ったもの、ですからそれを売りに出すのも、その人の自由に違いありません。
自分で得たものは自分でどうするのかを決められるわけです。ところが「いのち」は自ら努力して得た物ではなく、むしろ与えられたものと言えます。
ですから自分でどうするというものではないという理解が成り立ちます。
一方、聖書は、神様が人間に「いのち」を吹き込まれたと教えます。つまり神様の授かりものだという理解です。だから与えられたいのちを粗末にしてはいけないという結論になってしまうわけです。
ところが私たちの人生は非常に複雑で、いろいろな問題が起こり、不条理な苦しみを味わうことがあるものです。
そうしますと、やはり「いのち」を投げ出したくなることがあるものです。けれども、与えられた「いのち」を粗末にしてはいけないのですから、悩みます。
そこで聖書がさらに言っていることは、神様のご計画と時を待ちなさいということです。
神様は常に最善をなさっており、無駄に思えるいのちを、そのままにしておかれることはないと約束してくださっています。
信仰を持つということはいのちに意義を見いだすような部分があります。
自分というもの
後悔ばかりで先に進めない
自分がとても幼く見えてしまう時があるものです。
同年代の人々に比べて、自分の考え方が幼く、なぜもっと早く色々なことに気付かなかったのかと後悔してばかりで、先に進めないということがあります。
しかし、後悔して過去は戻ってくるものでしょうか。うさぎと亀が競争し、ウサギが負けてしまったという話しがありますが、抜かれて負けたウサギが名誉挽回するためには、もう一度勝負してみるしかないように思います。後悔の悩みのエネルギーを、明日を生み出すためのエネルギーに転換することが大切でしょう。
性格の悪い自分が嫌い
自分の振る舞いに、屈折した自分を感じ、そんな自分が嫌だと思うことが思春期にはあるものです。
そこで、青年の人格的な成長と問題解決のあり方について考えてみましょう。
心の中で欲動に基づく葛藤が生じると、人は、三つの問題解決方法を選択します。一つは合理的解決。
問題を克服するために必要な努力をしたり、妥協したり、あるいは馬鹿になるということで、他人に受け入れられる形で合理的に解決するということです。
二つ目は気晴らし的発散とでも言うべき解決方法で、好きな音楽を聴く、スポーツで発散する、おしゃべりをして解消するというもの。
最後が問題行動、人をいじめたりいびったりすることで、自分の問題を解決するという、残念な方法です。
それで色々と自分の振る舞いに、自分の性格の悪さを覚え、こんな自分は嫌だと落ち込んでしまうのは、心のもやもやを解決するその方法が問題行動として認識されているのです。
ですから、別の健康的な解決方法で、心のもやもやを整理できるようになることが大切です。しかしそれこそが、青年期の課題でもあるのでしょう。
性と愛
マスターベーションが止められない
マスターベーションは、ただ単に性的快楽の追求というだけではなく、心の癒しの手段としてなされていることがあります。
そういう場合には、心の問題を解決することが、マスターベーションから解放される近道です。
また、性的欲求をコントロールする「昇華」という発達課題をこなしている時期の問題である場合もあります。
つまり、心の成熟が求められているための問題であるということです。
マスターベーションを解決するために、早く結婚をしなさいということが冗談混じりで言われることがあります。
聖書にもそれらしいことばがありますが、それが聖書の考え方であるとすれば、正しい理解ではありません。
実際、マスターベーションは結婚で解決する問題かというとそうではありません。
意外と伏せられていることですが、既婚者もまた、様々な理由で、マスターベーションに浸るということがあります。
つまり、性的欲求をコントロールするという課題は、結婚すれば解消するかというとそうではないのです。
性的欲求が必要に応じて、つまりパートナーの合意によって満たされるためには、それなりの関係を創っていく必要があります。
独身時代には抽象的な課題であり、難しいことかもしれません。
なお、マスターベーションがいけないというのは、その行為が悪いというよりも、そこでなされること、女性を連想し、女性を性的欲求のはけ口としてなしてしまう問題のように思います。
グラビアを見ながらマスターベーションをするというのは、まさに女性を物として見ているのですし、女性の身体の一部を、女性の人格から切り離して見ていることで、女性を尊重する心を欠いています。
性は人格的な接触であり、身体のみの接触ではないはずです。性的欲求に伴う心の成熟が必要とされているのでしょう。