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これまでのショートメッセージ(2004年度)


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    2004年01月10日

    「神が「光よ。あれ。」とおおせられた。すると光ができた。」(創世記1:3)

     目をかたく閉じると、そこには暗闇の世界が広がります。耳を手で閉ざすと、そこには沈黙の世界が広がります。

     昔も昔、大昔のこと、この世界が登場する前の世界というのは、暗闇と沈黙に覆われたものであったことでしょう。誰一人いなく、どんな生き物もなく・・・・。

     そこで神が口を開かれるのです。「光よあれ!」と。すると光ができて、夜と朝のリズムが生まれた、と聖書は語ります。神はそれをよしとみられるのです。続いて、神は、空と海ができるように、と語られます。そしてそのとおりになる。しかし、それは、生き物の何一つない、ただ静かなだけの世界。そこへ神が再び、創造の業をなされる。ことばをもって、植物が生じよ、地の動物、海の生き物ができよ、そして一切が整ってから、神は人間をお造りになる。聖書のはじめに描かれた天地創造の物語です。

     この美しい物語をとおして、聖書は神がどのような方であるかを、私たちに告げ知らせようとしています。神が何もないところからあらゆるものを生み出すお方であることを。そして神の意思が世界を形作り、歴史を生み出されることを。

     このような神を信じ、味方とする人に、決して失望ということはありません。道は開かれるのです。



    2004年01月17日

    「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである(創世記2:18)」

    これまで牧師として、いくつかの結婚式に立ち会ってきて、結婚式というのは、その当事者の生き方そのものを反映している、結婚式を見れば、その後の歩みも大体予測がつく、と思わされているところがあります。

    あるお年寄りの方が言いました。「今の人たちは『幸せになろう』って結婚するんですね、昔の人たちは『どんな困難も一緒に乗り越えようね』、って結婚したもんですけどね」

    クリスチャンは、結婚というものを約束ごとと考えますから、たとえお互いにうまくいけそうもないことがあっても、「約束は守る」というところを砦として、お互いの関係を改善し、よりよい夫婦関係を再構築していく、いわば『どんな困難も一緒に乗り越えようね』という古いタイプの人間だ、と私は思っていたところがありました。しかし、最近はクリスチャンだからといって、皆が聖書にしたがってそう考えるわけではない、クリスチャンの世俗化という問題があることを感じさせられています。

    そこで最近の私は、「結婚をしたい」という思いを伝えてくる若い方々に、その結婚について十分考えるように、と勧めることにしています。感情的になっている若いカップルには、あまり歓迎されないことで、反感を買うこともありますが、それは必要なことだからです。両親のこと、仕事のこと、家族計画のこと、教会のこと、色々な点で問題が見え隠れしながら、それを棚上げにして、「お互いに相性がぴったり」と感情的に結婚を急いだとしても、必ず、その問題に向かい合わなくてはならない時期が来るものです。それが1年後であるか、5年後であるか、あるいは10年後であるかはわかりません。しかし、その時期に問題をうまく乗り越えられず、「ぴったり」と思ったはずの相性が否定され、破綻していく関係があります。クリスチャンの世俗化の時代であればこそ、教会もまたその痛みを免れることはありません。

    結婚は、聖書が語るように「一体になることです」一度一体にされたものが、裂かれてしまうことほど、悲惨で、悲しく、痛いこともないでしょう。だから十分結婚について考え抜いて、約束ごととして決断していく。そんな堅さがほしいものです。すでに結婚していて、どうも考え抜いていない問題が表面化し、ぶつかり合うということになったらどうするか。私は世俗化の流れから抜け出ることが大切であろう、と思います。神は助けと祝福を与えて下さるお方です。思慮不足で結婚した、ということがあったとしても、夫婦がそろって聖書に取り扱われることで、再び祝福を経験することでしょう。



    2004年01月24日

    「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。(創世記3:21)」

     最初に造られた人アダムとエバの堕落は、「あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになる」というサタンの誘惑に屈したことにあります。人は神と等しくなること、つまり何事からも自由になり、自分が主となることを望むところから、堕落の一歩を踏み出したというわけです。

     それは今日にも通じる、否、人間の性の根源的な部分を物語っているものでしょう。人は自分が何者であるかという謙遜さとわきまえを失い、自らが主として立ち上がる時に、愚かな失敗をしでかしてしまいます。そういう問題の根が、私たちの心の内にあることに気づかねばなりません。自分も最初のアダムと同じように罪を犯している、ということです。

     しかも、罪は、欠乏の中で犯されたわけではありません。神がよしとされた、最高の世界の中で人間は罪を犯していく。溢れるほどの豊かさの中で人間は罪人となっていくのです。

     さて、そのように罪を犯した人間に、神はどうされたのか、神はその人間を裁き、滅ぼされるのではなく、むしろ赦されるのです。しかも、裸の恥を気にする彼らのために、動物を犠牲にし皮の衣を着せてくださった。神の赦しは口先の宣言などではありません。

     そしてここに、十字架の真理が語られています。私たちは皆、神の前に、罪人としての裸身をさらけだしています。罪意識に悩むのは私たちが神の視線を意識すればこそです。しかし、神は、そのような私たちのために、十字架においてキリストを犠牲にし、キリストの衣を着せてくださるのです。

    神は、私たちの罪を大目に見たり、罪を見過ごされたりする方ではありません。しかし神は、罪を悔い改め、新しい人生を踏み出そうとする者に、いつまでも罪の恥を引きずらせるようなお方ではないのです。キリストの衣をもってその恥を覆い、前へと召しだしてくださるお方です。あなたは罪を感じ、苦しんでいますか。ならば主から、キリストの衣を受け取りなさい。そして、キリストにあって新しい歩みへと踏み出しなさい。







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    2004年03月


    2004年03月07日

    「そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した(創世記3:8)」

    最初の人アダムは、神の前に罪を犯しました。その結果、神に顔向けできず、エデンの園をこそこそ隠れて逃げ回ることになります。きちんと顔向けのできない関係がある、人間にとってそれは非常に不幸なことです。

     転勤、転居、転職などと、文字通りそうである、ということもありますが、しばしば、人に顔向けできない事柄のゆえに、居場所を替えざるを得なかった、というようなことが人の世にはあったりします。しかし、場所を替えても、そう簡単に罪意識が消えるものでもありません。人は記憶の中に生きている、と言われるように、自分の愚かさの記憶はどこまでもついていくものなのです。

    ところで聖書は、そんな人間を神が探し出された、ことを語っています。アダムは神を、罰を与える者として恐れました。しかし事実はそうではありません。神は私たちの弱さをわかってくださる方ですから、必要以上の罰を与えることはなさいませんし、復讐心に任せて叩き潰してしまうようなこともなさらないのです。

    愛と恵みに富んだ神の裁きに自らを委ね、新しい人生へのきっかけをつかむことが大切です。実際、いつまでも過去の記憶に脅かされ、逃げ隠れする、そんな人生で終わってしまうことも不幸なことです。

    愛と恵みに富んでおられる神の前で悔い改めなさい。そして、神の力によって、新しい心を与えていただき、顔向けできない人にもきっちりと顔向けできる、そんな新しい人生を取り戻していただきなさい。神は生きておられるのです。



    2004年03月13日

    「カインは主に申し上げた「私の咎は、大きすぎて、にないきれません(創世記4:13)」


     ある兄弟が、最近社会をにぎわした二つの自殺事件をとりあげて、批判にさらされた人間のもろさについて、語っていました。その話を聞きながら、確かに、人間がいかにもろいものであるか、罪の重圧と社会の冷たいまなざしが耐え難いものであるかを考えさせられました。

    聖書の中には、兄弟殺しの罪の責任を神に問われ、「私の咎は、大きすぎて、にないきれません」と窮地に立たされた者の叫びがあります。

    しかし神は、あわれみの神です。神は、カインが復讐されることがないように、ひとつのしるしを下さったとあります。しるしが何であったのかは、わかりませんが、それは、これ以上彼の罪を責めることがないように、と神のお墨付きを与えるものであったのかもしれません。ともあれ、こうした聖書の発想は、新約において一層明確にされていくのです。それが罪意識から解放するイエスの十字架です。

    2月に渡米しました時に、米国では『パッション』という映画が話題になっていました。日本では6月に試写会が予定されている、メル・ギブソン監督の映画。私は、米国で、彼に対するインタビュー番組の中で、映画の一部を見ました。 ユダヤ人差別である、など様々な評のある映画でしたが、全身血だらけになって十字架を背負っている、イエスの姿が、ことに痛ましく印象に残りました。そういえばこれまでのイエス・キリストの映画は、あまりにもキリストを綺麗に描きすぎていた、といいますか、ほとんど無血に近いキリストが登場していたように思います。生々しい映像を見ながら、確かに、あの十字架の出来事は、このような目を覆いたくなるような悲惨なものであっただろう、と思わされました。

    そして聖書は、「これがあなたの罪の赦しのための苦しみだったのだ」、「これがあなたに出会う者が、だれもあなたをそれ以上非難することがないように、神が与えてくださったしるしなのだ」と語るわけです。 主イエスにある者が救われている、というのはそういうことです。主イエスを受け入れている者は、神の赦しのお墨付きを得ているのです。そして新しい人生を歩むあなたの歩みは、神のお墨付きのゆえに、守られていくのです。それは、どんなに厳しいものであろうと、神があなたを守り抜いてくださる歩みなのです。

    2004年03月20日

    「しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです」

     ある求道者がこんな質問をしました。「最初の人アダムは、『善悪を知る知識の木の実』を食べて罪を犯した。それで彼はよいことと悪いことを知るようになった、ということは、その前は、そういうことを知らなかったということだろう。とすれば、よいことを知らない彼は、何を楽しみとしていたのか。罪を犯す前の彼は生きていて楽しかったのだろうか」と。今まで思いつきもしなかった問いに、私は一瞬と惑いましたが、少し考えて、ピリピ4:12を取り上げながら、こう答えたのです。

    「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています(ピリピ4:12)」

     「少し乱暴な言い方になるけれど、私たちは、豊かなこと、飽いていること、富むことはよいこと、貧しいこと、飢えること、乏しいことは悪いこと、普段そう考えて生きているんじゃないだろうか。けれど、神様を信じているクリスチャンにとって、豊かであるとか、貧しいとかいうことはあまり問題ではない。そういうのはどうでもよいこと。物を持っている、持っていない、地位を得ている、得ていない、そういうことにあまりとらわれない、どんな境遇にあっても、静かな満ち足りた心を持って生きていけるかどうか、クリスチャンは、そういう生き方を大切にしている。最初の人アダムもそうだったのじゃないか。それが神様から離れることで、ものがあるか否かで一喜一憂する生き方になってしまったのではないか。」

     彼は非常に理解力のある人だったようで、こう答えました。「わかりました。確かにお金を持っていればうれしいが、だからといって幸せであるとは限らない。」と。この対話を通して、私は詩篇73:28を思い出しました。「しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです」神が共にいてくださる、そのことに最大の喜びを持って生きている、そしてあらゆる境遇において、主と共にある平安と喜びに生きる、聖書はそんな生き方へと私たちを招く神を伝えるのです。



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    2004年04月


    2004年04月03日

    「エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので彼はいなくなった(創世記5:24)」

     創世記の5章は、アダムからノアまでの10人の人物が紹介されていますが、その書き方は、非常に淡々としています。簡単に言えば「生まれて、死んだ」その繰り返しで名前が羅列されているかのようです。しかしそうした中で、エノクという人物だけは違った書き方がされているのです。

     「エノクは65年生きてメトシェラを生んだ。エノクはメトシェラを生んで後、300年、神とともに歩んだ」とあります。

     神と共に歩んだと書かれたのは、エノクだけ。しかもエノクは最初から神と共に歩んだわけではないのです。65年生きて子供が生まれてから、神と共に歩む人生に入った。それまではおそらくアダムの子孫に名前を連ねるのですから、神を知らずにいたということはないでしょう。しかし、その神と個人的な関係を結ぶ中で生きた、ということはなかったのでしょう。65年の人生で何かがあって、エノクの人生はそれまでとは違う人生になっていく。そしてさらに彼は300年間神と共に歩むのです。その長きこと。

     私は信仰というのは一生のことである、と常々語っておりますが、多くの人にとっては単なる一時の出来事に過ぎないことがあります。若い時の純粋な熱心さとでもいうべきか、あるいは、苦難の最中でとにかくすがりたいものであった、というべきか、一時の救済、一時の出来事に終わってしまっていることがあります。

     しかし、エノクは、300年という長きにわたり、神と共に歩む。そしてエノクは死ぬのではなく、神に取られるのです。他の9名は皆生きて死んでいく、しかし、エノクは、ある日から神と共に歩みはじめ、一生涯かけて神と歩み続け、そして神の元に帰った、とされる。

     あなたは、どのような一生を歩んでいるのでしょうか。この世に生を受け、そして死んでいく。何をしようともみな同じ結末へといたる人生を歩んでいるのか。それとも、自分をお造りになった神を知り、その神と共に歩み、その神のもとへと帰ろうとしているのか。この二つの人生には大きな違いがある、と私は思うのです。かし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです」

    2004年04月10日

    「ノアは正しい人であってその時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。(創世記5:9)」



    ノアは正しい人であった、と聖書は語る。そしてノアの箱舟につながる、神の全人類に対する大洪水による裁きと救いの物語がはじまるのであるが、それはどういう意味での正しさであろうか、と考えさせられるところがあります。

    確かにこのノアに対するこの評価の前に、聖書は、人が、自分たちの自己欲求の赴くままに生きていたことを語っています。また地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾く姿を指摘しています。

    しかし、ノアも完璧な存在だったわけではありません。聖書は、大洪水後のノアはぶどう酒に酔いつぶれ、素っ裸で寝ていたと記しています。ノアも、普通の生活人だったわけで、決して聖人のような世間離れした生き方をしていたわけではありません。

    では、ノアだけが神の大洪水の裁きを免れた、正しさというのは何だったのでしょうか。ノアは神と共に歩んだ。と聖書は、語ります。神を認めず、否定する風潮の中で、神の存在を認め、神を自分の生活の中心にすえて生きていく、ということ、それ自体が正しいことであった、ということでしょうか。

    実際、現代においても、人類を愛しておられ、人類のために最善を尽くされる神を認めていくのは難しいことかもしれません。あるいは、その神がこの世界を動かし、維持しておられる、一切は神の主権のもとに流れていくことを覚えて生きることなど、どうも愚かなことかもしれません。しかし、そのような風潮の中で、神の正しさを正しいとして生きていくところに、神を信じる者の正しさがあるのだ、と言えるのではないでしょうか。

    2004年04月17日

    「はいったものは、すべての肉なるものの雄と雌であって、神がノアに命じられたとおりであった。それから、主は、彼のうしろの戸を閉ざされた(創世記7:16)」



    旧約聖書には、神は洪水によって人々を裁き滅ぼされた、という記録があります。この時神は人類を絶滅させず、神に従う心を持った、ノアという人物を選び、救われるのです。

    ノアは、神の命令に従って、洪水から逃れるため、陸地に箱舟を建造します。多くの日数をかけた、大変根気を要する作業であったことでしょう。またノアは、人々の嘲笑とあざけりにあい、精神異常者として扱われたかもしれません。しかし、彼は目に見えない神との関係に生き、そして箱舟を完成させ、箱舟の中に入るのです。

    それは考えてみればとても傑作な光景であったのではないでしょうか。しかし、傑作と腹を抱えて笑っていたその笑いが人々から消え去らぬうちに、雨が降り始め、大洪水となった。そして人類はノアとその家族を残して滅ぼされてしまう、というわけです。

    この物語の確からしさについては、様々な議論があります。しかし、信仰の愚かさをとおして人をお救いになろうとする、この物語の本質は、神がなさることとして実に確かなこと。ありそうなことです。

    実際、クリスチャンは、神を信じる愚かさの中に生きているものではないでしょうか。目に見えぬ神を信じていく。聖と愛と義に満ちた神を信じて行く。そしてやがてその神の前に立つということを覚えて、しみやしわや傷のない心となることを求めていく。それはある人からすれば実にまじめくさったつまらない生き方、あるいは、世の中の道理をわかっていない愚かな生き方であるのかもしれません。しかし、信仰というのは、生き方の問題であり、どういう生涯を残していくか、という問題です。ノアは、ただ箱舟を作り、生き延びたということではなくて、確かな生き方をしていくことが人間として大切なことだ、という神に共感し、神にお従いした、という点が大切なのです。神は招かれるお方であり、「うしろの戸を閉ざされ」るお方です。神の招きに応じて、神に従う、その時は、いつでも訪れているのではないでしょうか。

    2004年04月24日

    「ノアは、主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた(創世記8:17-9:9)」



    洪水がおさまった後で、ノアが最初に行ったことは、「祭壇を築く」ということでした。彼は、何もかもが新しくなった地を散策するのでもなく、新鮮な食物を探すのでもなく、まず、神を礼拝するために祭壇を築のです。それは、わかりやすく言えば、人生の最大の節目において神を第一とする姿勢を示した、ということですし、もちろんその後、ノアはそのような歩みをしたことでしょう。

    神を信じる人、というのは、どこかでノアと同じような経験をしているはずなのです。就職にしても結婚にしても、祭壇を築くことでその新しい歩みを進めていく。なぜなら、この世界は天地万物をお造りになった神によって支配されており、その神様のご計画のもとにすべてが維持されている、という信仰に立っているからです。

    しかし、実際のところ、そのような信仰を証する歩みをしている人は、わずかだ、と言わなくてはならないのではないでしょうか。残念なことに、クリスチャンと自称していながらも、家庭にも会社にも神が不在であるかのような生活をしている人は少なくありません。

    問題は神を信じているだけでは不十分だ、ということです。むしろ、この世界が本当に神によって造られて、神にあって成り立っている、という湧き上がる確信を持って生きているかどうか、ということです。大洪水による神の裁きを目の当たりにしたノアには、神がこの世界をお造りになり、支配される、ということはもう自明の事柄でした。ですから彼は、箱舟を出るや否や、祭壇を築かざるを得なかったのです。

    神がこの世界をお造りになり、支配しておられる、ということをすべての人々が知ることができるように。主よ、人々の心の目に、あなたご自身が現されるように! 



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    2004年05月


    2004年05月02日

    「私はどんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。」(ピリピ4:11)

    佗茶人というのは、名物の茶器を持たない貧乏な茶人のことであったそうですが、その「佗」には、単なる貧乏以上の積極的な意味があったといわれます。

    たとえば千利休の佗茶の考え方では、「佗とは有以上の生きた無」であり、「無いものをフルに生かす」というものでした。そこから「数坪に満たぬ土地を十二分に生かして、却って大伽藍大庭園に勝る露地草庵を創設し、その中で全人的な生活を楽しむ」という、考えが出て来るというわけです。

    また、親鸞には次のようなことばがあります。「つくべき縁あればつき、離れるべき縁あれば離れ、弟子一人持たず候」千利休にしろ親鸞にしろ、そこには共通性があります。あるがままに、あるものをあるもの以上に生かす、あるいは無ければ無いがままに、無いものの価値を見出して生きる、あらゆる状況に柔軟に心を適応させて生きていく姿です。

    私はこういう考え方が大変好きで自分自身の信条ともするところがあるわけですが、こういう考え方は、実は聖書の中にもあるわけです。パウロは「どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました」と語ります。具体的に貧しさの中にいる道も、豊かさの中にいる道も知っている、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に処する秘訣を心得ている、といいます。

    こう見てくると何やら宗教や諸思想は同じようなことを言っている、ように思われてくるものです。しかしだからといって、どの宗教も同じというわけではないのは、あらゆる境遇において満ち足りる心にいたる道は、キリストを置いてほかに無い、という部分にキリスト教独自の主張があるからです。果たして、キリスト意外にない、というその根拠は何なのか、私たちは聖書にさらに耳を傾けるべきではないでしょうか。



    2004年05月08日

    「生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた(創世記9:3)」

    すべてのものをあなた方に与えた」と神はお語りになります。なんと権威のある断言的なおことばでしょう。

     創世記において、神は人をお造りになりましたときに、その直後に「祝福された」と言われています。神が人類をお造りになった目的は、愛の対象を求めたためであるとか、神ご自身が孤独だったためであるとか、色々なことが言われますけれども、聖書は、人は神に祝福されるために造られたのだ、と語るのです。

     ノアの洪水の後、人類が再出発するその最初においてお語りになったことば「すべてのものをあなた方に与えた」も、また神の祝福の意図の延長線上にある言葉だと言えるでしょう。私たちは神が祝福されるために私たち人類をお造りになった、ということを大切に受け止めていく必要があります。

     神が、信仰の祖としてアブラハムを選ばれた時にも、「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」とお語りになったことを忘れてはなりません。しかもこの言い方は単に祝福するために、という言い方を超えています。祝福に祝福を重ねるためにあなたを選んだ、という言い方です。

    今のあなたの状況は、そうした神の祝福の約束とは程遠いものがあるでしょうか。しかしそのような状況の中で、神を信じていくことが大切ではないでしょうか。

     ノアが「すべてのものをあなたがたに与えた」ということばを神にいただいた時には、何かがすでにあったわけではないのです。いわゆる信仰によって未来を臨み見、神の約束のことばを受け取るようにされたのです。神はあなたにも信仰を求めておられるのです。



    2004年05月15日

    「神の、目に見えない本生、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。(ローマ1:20)。」

    今日は芍薬(しゃくやく)を活けました。これから季節ですものね。」なるほど季節か。いつも教会に花を活けてくださる方が声をかけて帰られた。生け花の作業が終わった後は、しばし、そんな作品を椅子に座って眺めてみることがある。「無造作に花瓶に突っ込んだだけです」ということもあるが、それもまたなかなかよい。ことに、季節を先取りして感じさせてくれる、心遣いは大変ありがたいもので、最近とくにそう思うことがある。

    3月岩手の山中に出かけたときには、小川のほとりにふきのとうを見かけた。もうそんな季節か、と改めて自然の動いている様を思わされた。東京のような都会のど真ん中にいて、コンクリートで塗り固められたような町に住み、朝から晩までノルマを達成するかのような仕事に没頭していると、何か自分をはるかに超えた、大きな動きがあることを忘れてしまう所があるように思う。何か自分と自分の会社あるいは家族のかかわりだけの世界が肥大してしまっているようなことがある。

     自然に目を向けることは、そんな愚かさから目を覚まさせてくれるようなところがある。いな、もっと大切な存在があることを思わせてもくれる。人間が、自然と同じ被造物に過ぎず、自然と同じ盛衰のリズムの中で生きているものであること、それらすべてを手中にし、導いておられる方がいることを。この世界を確かに創造された方がおられる。



    2004年05月23日

    全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。 (詩篇100:1)

     ある兄弟からお電話をいただいた。2月ボストンに出かけた際、初めて出会った方であるが、何か色々と通じるところがあり、様々な信仰的な話を分かち合うことができた。

     この5月、下田市で開かれた黒船祭りに招かれて、日本に帰国していたという。「黒船祭」は、幕末、1854年の鎖国を開国しようと、アメリカの提督ペリーが「黒船」に乗って来日した事を記念したお祭りである。昭和9年に開港80周年記念行事としてスタートし、毎年、米国の協力のもとで開催されてきた、という。

     兄弟は、その黒船祭りの様子を色々と話してくれた。ペリーが浦和に到着して、最初の日曜日、日本の領土で初めて行われたプロテスタントの礼拝では、賛美歌4番が歌われたという。そのことにちなんで、下田祭りは、米国海軍のチャプレンの祈りに始まり、賛美歌4番も演奏された、という。その賛美歌4番にはこうある。
     「よろずのくにびと、わが主にむかいて 心のかぎりに 喜びたたえよ。
      主こそは神なれ、主はわが飼い主 われらはその民、みまきの羊ぞ
      もろごえあわせて 大御名ほめつつ みかどに入りゆき、み前に近づかん
      恵みは豊かに、あわれみつきせず、こよなきまことは ときわに変わらじ」
    
    ペリーのこの開国の働きかけには、実に、たくさんのキリスト教徒の祈りがあったことはあまり知られていない。主イエスの十字架の愛が、日本の人々にも知られていくように、見捨てることなく支え、祝福される神がともにおられることが知られていくように、かつての祈りはなおも祈られている。映画パッションを見て、感動した、という方が多いということを聞く。しかし、キリストの痛みの真の意味、私たちの罪の赦しと祝福のためである、ということを多くの人々が知ることができるように、そしてともに感謝と賛美の声をあげることができるように、と祈るものである。





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    2004年06月


    2004年06月20日

    「そこで、彼女は、自分に語りかけられた主の名を「あなたはエル・ロイ」と呼んだ。それは、「ご覧になる方のうしろを私が見て、なおもここにいるとは」と彼女が言ったからである」(創世記16:13)

    アブラハムにはなかなか子どもが生まれず、妻のサライは、当時の習慣に従ったのでしょう、奴隷のハガルを妻として与え、ハガルによって子をもうけようとしました。ところが、ハガルがみごもると、ハガルは、自分の女主人を見下げるようになるのです。サライは、そんなハガルをいじめ、家から追い出してしまいます。

    自分の身分・立場を忘れた、愚かな行為にハガルは嘆いたに違いありません。身重の体で行く当てもなく荒野の泉のほとりにたたずむハガル、そんなハガルに主の使い、いや、主が声をかけた、とあります。

    旧約聖書に主が声をかけられた人物は多く出てきます。しかし、考えてみればどれも、主の器として用いられたつわものばかりではないでしょうか。モーセ、エリヤと、主にあって活躍したものばかりです。それが自分の身も弁えない愚かさによって失敗したハガル、一奴隷のハガルに、主は声をかけておられる。

    主が哀れみ深いといった場合、それは、愚かなハガルを含めて、ということに他ならないのでしょう。神の目は、それこそ、いかなる差別もなくすべての人に注がれている。成功し勢いのある者ばかりではなく、失敗し落胆している者にも。能力があり、それを活かして国民を救う者ばかりではなく、奴隷である他、女主人のもとに帰り身を低くする他何もできない者にも。

    主に信頼しましょう。主はあなたにも、目を注いでおられ、あなたの歩みを導かれるからです。



    2004年06月27日

    「神は人間をまっすぐに造られたが、人間は複雑な考え方をしたがる(伝道者の書7:29<新共同訳>)」



    先日浜名湖に出かける機会がありました。あるホテルの窓から、湖面を見ていると、時折、夕日を浴びて、飛び出す魚が見えました。あそこにも、ここにも、と見ているうちに、魚を追いかけて、捕らえては飲み込んでいる川鵜がいるのに気づきました。水面下に勢いよくもぐると、しばらくして、くちばしに魚を加えて、湖面に出る。魚を飲み込むと再び、水面下にもぐる、そんなことを繰り返していました。夕日に照らされた湖面に繰り広げられる、自然そのままの営み。そこだけが何か別の時間が流れているような不思議な光景。東京のビルの谷間にいては、決して見られないものでした。

    しかしいつもながら、そんな光景を見ていると、何か実はとても損な生き方をしていることはないだろうか、と自分の生活を振り返らされることがあります。

    確かに政治的な駆け引きに気遣いながら、何かあくせくと仕事に振り回されている毎日があるような気もします。あるいは、次から次と提供される人工的な珍しさ、楽しさのとりことなっている日々があるのではないでしょうか。子どもたちとじゃれあって過ごす時間や、空の鳥や野の花に触れて、人生の何であるかを思い喜ぶことを無駄な時間と思わせてしまうような、そんな日々があるような気がします。

    神は人間を「まっすぐに造られた」といいます。それはあるがままに、単純に、素朴にということでもあるのでしょう。今おかれた場にあっていかに神に与えられているものの豊かさを知り、そのことを喜んで生きるか。人生の豊かさは、祝福は、求めることや得ることばかりによるのではない、といえるのではないでしょうか。





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    2004年07月


    2004年07月17日

    もし、私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかも闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行っていません。(Tヨハネ1:6)

     クリスチャンになる、ということは、自分の人生について二巻物の人生録を書くようなものである、とよく言われる。クリスチャンになる前とクリスチャンになった後では違う、はっきりとした仕切りなおしがある、というわけである。

    確かに、クリスチャンになる人というのは、キリストの前に罪を悔い改めて、入信していくわけであるから、悔い改めた以上、以前と同じライフスタイルをいつまでも続けていくなどということはありえない。

    人生をただあるがままに楽しんでいく、というのも一つの生き方であるには違いない。自身の才能を楽しみ、与えられた豊かさを楽しみ、と。そしてそのような生き方の中で、自分中心にはならないように、人様の迷惑にはならないように、と生きるのは、決して悪いことではないだろう。

    しかし、目に見えない神がおられ、その神が目的をもって人をお造りになり、ご自身のご計画にそって歩むことを期待されている、ということを知り、それにこたえて生きることもまた、一つの人間のあり方として否定されるものではない。

    大切なのは、そのいずれも、ということはありえないのであり、一方を取れば一方は捨てなくてはならない、ということである。自分を中心に自分の楽しみ、喜びを大事にしながら生きることと、神を中心に、神のご計画を思いつつ、神の御心の中に生きることとは決して両立しうるものではない。悔い改めというのはそういうことであろう。 

    悔い改めは、献身することそのものである。自分の今までの生き方を脱ぎ捨てて、神の生き方にかけて生きる、ということである。神と交わりがありながら、今なお、昔のままの生き方、昔の楽しみ、昔の喜びを引きずる、ということは決してありえない。心の一身によって、今ここにおいてあなたが捨て去るべき歩みがあると思うならば、それと決別することが、神の祝福にあなたを近づけるのである。





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    2004年08月


    2004年8月18日

    「その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない」と言われた。(使徒23:11)」

     三回にわたる、大きな伝道旅行でさまざまな苦労を重ねたパウロ、難船の危機、鞭打ちの刑、など、行くところ行くところで、福音を語ることの難しさを経験したパウロが、その旅を終え、ユダヤ人に捕らえられ、裁判にかけられることになってしまった。その裁判の席で、パウロは、彼らの冷たい殺意を肌身に感じたのであろう、かのパウロも、どうやら恐れるところがあったようである。パウロは、長く長く神の前に祈ったに違いない。そんなパウロに、神は「勇気を出しなさい」と語られる。修羅場をくぐったパウロですら勇気をなくし、恐れおののくことがあった。そしてそのようなパウロに、神は、「勇気を出しなさい」と励まされる。そして、パウロに、その後の歩みも導かれることを約束されるのである。

    私たちも、何か恐れおののくようなことがあるならば、祈らなければならない。祈りをとおしてのみ、神の励ましを受けるからである。祈ることによってのみ、「勇気を出しなさい」という神の励ましを受けるからである。

    私たちの生活の中に勇気を出さなくてはならないことは多い。しかし、大切なのは、勇気を奮い起こしたときに、神がちゃんと、先をすすめてくださる、という確信を持つことである。神の導きと深き知恵を信じて、踏み出すものでありたい。主が祝されるように。

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