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2003年01月10日
「私たちの助けは、天地を造られた主の御名にある」(詩篇124:8)
全国の教会学校のアンケート調査を統計的に分析しながら、色々と思わされたことがありました。統計調査というのは、やはり私たちに物事を合理的に考えさせてくれるもので、色々な物事についての関係性を示唆してくれます。 教会の出席者が増加している成長群、教会の出席者が減少している非成長群を対応させ、データーを色々といじくりまわしていると、それなりに、常識的にも納得できるような、結論が出てくるものです。そこで成長している教会は、こういう特徴がある、と言うことも可能なのですが、それはあくまでも一つの関係性を言うに過ぎないのではないか、そう思わされました。 やはり私たちの世界には、様々な予測できない力が働くものです。データー分析ではじき出した、数値どおりにはいかない、そういう部分がある。ことに人間の心の問題、社会の動きの問題というのはそういうものでしょう。 それをクリスチャンは天地創造の神の業がある、そういう言い方をするのだと思います。「神の見えざる手」という名言を残した経済学者もおりますが、やはり私たちの予測を超えて働く神の力がある、と思えばこそ、どんなときにも失望せずに、期待を持って、物事に取り組んでいくことができるものでしょう。クリスチャンに強さがあるとしたら、それは天地を造られた主の御名によるもの、と言えましょう。
2003年01月16日
「こうして祝宴の日が一巡すると、ヨブは彼らを呼び寄せ、聖別することにしていた。彼は翌朝早く、彼らひとりひとりのために、それぞれの全焼のいけにえをささげた。ヨブは、「私の息子たちが、あるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた」(ヨブ01:05)
東京大学で政治学を教え、その後明治学院大学の学長となった福田歓一さんという方が、自分の父親についての思い出を語っています。福田さんは言います「私の父は篤信のクリスチャンでした。父は一度も子どもに手を上げたことがない代わりに、子どもが心配をかけたときに、断食して祈る、ということがありました。とてもかなわないのです。まさに、一人の人間の自己形成において、学校というもの以上に、いかに大きなものがあるかを、身をもって示してくれるものでした(堀尾輝久『教育を支える思想』(岩波書店)」 教会で教える牧師として、福田さんのことばは教会の意義を考えさせられることばでした。毎週教会でクリスチャンたちは集まって何をしているのか。聖書を読み祈り、神に礼拝をささげるということをしているのですが、やはりそういうことが日常性、たとえば子育てに反映されるのでなければ、と思わされます。教会のことは教会のこと、日常生活のことは日常生活のこと。信仰と生活が分離していくことで、信仰が非日常的なものになり、結局は内容のわからぬ神秘的なものになっていく。こういうことが多くのクリスチャンの間に起こっているのではないでしょうか。 息子たちの生活に関心を持ち、何よりも、息子たちの心のうちに関心を持って、そのためにとりなしの祈りをするヨブ。信仰が生活の中に生かされている。教会は、そういう人たちを育てる場である、と私は思うところがあります。
2003年01月23日
「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。」(詩篇46:1 )
わたしたちには緊張している時、ストレスに圧倒されそうな時というものがあります。夜首筋が張るような気がして、なかなか寝付けない。朝も目が早くさめて、もう少し休もうと思っても休めない。普段なら何でもない子供の声がうるさく感じる。好きなテレビも見る気がしない。 とにかく脅迫観念にさらされるかのように、堂々巡りの思考が続いていく。 こういう経験をなさった方は少なくないことでしょう。どうしてこんなにも緊張をするのか、何か新しいことをする時、難問に直面した時、そんな時にこそ、くつろがなくてはいけない、ゆとりをもたなくてはいけない、と思っても、からだも心も硬くなり、自然な振る舞いができなくなるというものでしょう。 こんな時には、気分転換をする。今までの仕事の流れ、生活の流れを変えるような何かをする、無理なことにはあきらめをつける、好きなことに熱中する、色々な対処の仕方があるはずです。 しかしそんな中で、神に心を向けるという対処の方法もあり、と心得たいものです。わたしたちのために心配し、わたしたちのために最善を尽くしてくださる神様に心を明け渡し、神様に重荷をゆだねていく、そして神様がわたしたちと共にいて、わたしたちを助けてくださると信仰を持つことなのです。神はわれらの避け所、また力というわけです。
2003年01月29日
「どうか敵から私たちを助けてください。まことに、人の救いはむなしいものです。神によって、私たちは力ある働きをします。神こそ、私たちの敵を踏みつけられる方です。(詩篇60:11,12)」
ある婦人が夫を失い、子供たちと貧しい生活に耐えて暮らしていました。ところがある時、近所の人々から子供が盗みをした、と言われたことに、耐えに耐えた気持ちも崩れ、ガス栓を開いて子供と心中をはかりました。その時消し忘れていたラジオから賛美歌が聞こえてきたのです。「いつくしみ深き友なるイエスは、罪・とが・憂いを取り去りたもう。心のなげきを包まず述べて、などかはおろさぬ、負える重荷を」この世にもう友はないと思っていたが、もう一人だけ友がいた。彼女はその歌詞にはっとさせられ、心中を思いとどまった、と言います。 敗北は人の心の中より始まるといいます。敗北を考え、敗北を恐れるところから、すでに敗北は始まっているというのです。 しかし、敗北を考え、敗北を感じることは、どんな人にでも起こることです。いざそういう恐怖に取り付かれると、一人でそれを打ち消すのは大変難しいものです。しかし、そのような時にこそ、私たちの友であり、助け手であるイエス・キリストを思い浮かべることが大切なのでしょう。主イエスは、私たちの罪を赦してくださるばかりではなく、私たちの生涯の最期まで、私たちと共にあり、私たちを導き、守り、助けてくださる方なのです。
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2003年02月
2003年02月07日
「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい(ヤコブ01:02-04)」
「農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています」とヤコブは言います。ただ耐え忍ぶのではない、耐え忍ぶことによって、生み出されるものがある。私たちはこういう感覚を大事にしなくてはならないのでしょう。 しかし、現実の私たちの生活は、我慢するということがなくなっている。我慢する必要のない生活になっている、さらに言えば、我慢することが「おかしい」ような状況があるように思われます。 ですから、そういうことが、はっきりと私たちの人間関係や仕事に対する取り組み、責任のとり方に表れてきているような気がします。たとえばわずらわしい人間関係によって、実は生み出されていくものがある、とは考えない。あるいは、じっと根気強く積み重ねていくことによって、生み出され、築かれ、創造されていくものがある、とは考えない。自分の知らない事柄については、じっくりと時間をかけて努力し、取り組む必要があるとは思わない。 こういうことのゆえに、私たちは、当面の自分だけの豊かさを体験しても、人をも潤す貴重な実りを体験するまでには至らないのではないでしょうか。 信仰によって教えられることは、満たされるということよりも、忍耐である。しかしそれは貴重な実りを生み出す忍耐である、最近の私はそう思えるようになりました。
2003年02月13日
「ペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう」(使徒の働き02:38)
「悔い改め」をする、というのは、心の向きを180度転換することにほかなりません。神を無視していた心の目を、神の方へと向けるのです。それは、ある意味で大きな決断になります。自分のこれまでの生き方を振り返り、罪深い数々の事柄について、否定し捨て去る決意をしなくてはならないからです。 聖書はそれらについて、不義と悪とむさぼりと悪意、ねたみと殺意と争い、陰口、そしり、高ぶり、と並べ立てます。こうしたものは、心の中のこと、だれにも覚えのある事柄でしょう。こうしたことがあるのが人間らしいと考える人もいるかもしれませんが、聖書はそれは本来神様がお造りになった人間とは違うのだ、というわけです。 ですから、自身の心の状態をごまかさず、真正面から向かい合ってこれを見つめ、これについて反省し、悔い改め、神を求めて神に清められる生き方をしなさいといいます。 そしてバプテスマを受けよと語ります。バプテスマというのは、自身の信仰を公に明らかにする行為と言えるでしょう。それはけじめ式にもなるものです。信仰を持ったと心の内に思っているだけではだめです。公に信仰を明らかにし、神の家族に加えられることが大切です。内において信仰、外においてバプテスマ、これによって、主は私たちが信仰の歩みをスタートさせたことをお認めになり、主の聖霊の助けを注がれるのです。
2003年02月27日
「私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。(ガラテヤ4:19)」
先週、京都に所用で出かけました。いつも通過するばかりで、まともに、京都の町並みなど歩くこともありませんでしたから、今回は思い切って色々と歩き回ってみました。「何とも気持ちのよい町だ」、と京都の町並みの良さを感じていましたが、はたと、その気持ちのよさがどこから来るのだろうか、と考えてみました。 はじめ、それは碁盤目にすっきり整備された町並みを歩いているせいであろう、と思えたのですが、しばらくするとそればかりではないようにも感じてきました。つまり、その整備された町を歩き回ることで、気分転換が起こっている、自身の内側にあった様々な鬱積した思いが発散されている、ことにも気づいたのです。 人間年を加え、責任が重くなればなるほどに、いかにストレスとうまく付き合っていくかが課題です。というのも、答えの出ないこと、先が見えないこと、マニュアルのないこと、経験の範囲外にあることなど、困難でストレスを溜め込みやすい事柄への取り組みというのは、避けられないからです。そのようなどうしても時間をかけなくてはならず、忍耐が勝負の事柄と向かい合っている時には、どうやってその困難さや苦しさ、あるいは痛みや迷いを抱えていられるかが大切でしょう。 たとえばパウロは、牧師の働きを、キリストにある人造りの働きとして、それは産みの苦しみをすることである、と語りました。それは産み出されるまでの苦しみ。つまり何事かの結果を見るまでには避けられない苦しみです。とすれば、避けられないものと潔く向かい合い、それに伴う様々なストレスをいかにうまく発散していくか、ストレスある仕事に向かい続けられるように、自分自身の気持ちをいかにうまく解放していくかが、大切なのです。 世の中には、本当に苦しい事柄が山とあることでしょう。しかし、それは何事かが形造られるまでのことと心得、上手にストレスとつきあっていきたいものです。
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2003年03月
2003年03月06日
「友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる(箴言17:17)」
キリスト教会に行くと、「○○兄」、「○○姉」という言い方がよくなされます。始めて教会を訪れる人の中には、「あれ、この人たちは兄弟姉妹なのだろうか、でもそうも見えないな」と戸惑う方もいることでしょう。私自身も牧師でありながら、何ともこういう言い方に慣れず、相変わらず、「○○さん」などと呼ぶことが多いのですが、しかし、そこには大事な意味があると思わされます。 聖書は「友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる」といいます。リビングバイブル訳は、こうなっています。「本当の友達は決して裏切りません。兄弟は困った時に助け合うためにいるのです」なるほどそのとおりだ、とうなずかせられます。色々な裏切りを思い返してみれば、あれは本当の友達関係じゃなかったから起こったことなのだ、と納得がいきます。あるいは困った時に何の助けもないと、これでも家族か、兄弟かと思うものでしょう。 つまり、互いに兄弟姉妹と呼び合うのは、私たちが困った時にこそ助け合う、そういう関係にあることを意識化しようとするものなのでしょう。教会における人間関係に、裏切りはない、困った時の切捨てなどはない、そう言いたいわけです。 果たしてその試みがどこまで成功しているか、それは実際的な問題ですが、少なくとも教会が目標としているのは、「兄弟姉妹」と呼び合うことにより、私たちがいかなる時にも裏切ることなく、どん底においても助け合うものだということです。そんな場であればこそ、教会は世に希望を与える光なのだ、とも言えそうです
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2003年04月
2003年04月03日
「しかし、愛する人々よ。あなたがたは、自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り(ユダ1:20)」
思うに、クリスチャンと一言で言っても、さまざま。日本人が「あなたの宗教は何か」と聞かれて、「とりあえず仏教」と答える程度にたとえられるクリスチャンから、毎週礼拝に通い、熱心に奉仕をし、神にささげきった生き方をする方までさまざまではないでしょうか。 問題は、さまざまが悪い、ささげられた生活をしていないクリスチャンが悪いということではなくて、そういうさまざま人々を見比べてばかりいて、自分自身の信仰のあり方を少しも考えない状況があることではないか、と思います。 私たちが真に自分の信仰を進めようという気持ちがあるのなら、自分自身をまずよく知らねばなりません。自分の罪深さというものを、よくよく理解し、神が示される人間のあり方の崇高さというものを知らなくてはなりません。 ユダは、言います。「自分の持っているもっとも聖い信仰の上に」と。人間には順調な時もあれば、そうでない時もあるものです。そういういろいろな時を振り返って、もっとも自分が神にささげられた生き方をしている、そういう時からさらに先へ進んでいくということが、大切でしょう。昨日の自分よりも、さらに精神的にも霊的にもワンランクアップした自分を考え、自分自身を磨いていきたいものです。
2003年04月11日
「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。(コロサイ3:1,2)」
「もしあなたがたが、キリストとともによみがらされたのなら」とあります。キリスト教信仰の一番大切な部分は「新生」です。新しく生まれるということです。 という意味で、単純にキリスト教信仰は教育を受けることで獲得されるものではないとなります。何年も教会に通って、聖書を読んでいればクリスチャンらしくなるかといえば、そうではありません。何年たっても新生なきクリスチャンは、何の進歩もないものです。 教育、いわゆるエデュケーションということばには、引き出すという意味があるそうです。人の中にあるよいものを引き出す。別の言い方をすれば、磨いて光る玉を作り出す、そんなイメージでしょう。けれども、キリスト教信仰は、人間には引き出すよいものなど何もない、いわゆる「罪人」として断じるわけで、上から、神の力によって、新しく生まれる(新生)、よみがえらされる、ということを強調するわけです。少なくとも、キリスト教信仰は人間の現状を性悪的に見ている。しかし、新生後の人間の現状は性善的に見ているわけです。新生後、よみがえらされた後は、神様によって聖められている、よきものが与えられているという考え方です。 ですから本当によみがえらされたのならば、クリスチャンとしてふさわしい行動は、上にあるものを求めるということです。よみがえらされる前と同じように、地上のもの、地上の地位や名誉、活躍、財産、身分、そんなことを求めて生きているようでは、上にあるものを知らされた者としての存在意義がありません。そういう意味で、世の人々と動機も生活も何ら違うところのないクリスチャンというのは、どこか自分自身を見直してみる必要があるのです。
2003年04月19日
「ここにはおられません。よみがられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう(ルカ24:6,7)」
今年もイースターの季節になりました。イエス・キリストの復活を祝う、この日、日本でもだいぶ知られるようになってきたのではないでしょうか。あるキリスト教とはまったく関係のないケーキ屋さんでイースターケーキなるものを見かけました。クリスマスに並んで、イースターも、日本文化の中で、当たり前に受け止められる日が来るかもしれない、と思わされました。ただそういう商業戦略とは別に、やはり「イースターとはなんぞや」ということをどこかでわかっている必要があるのではないでしょうか。 イースターというのは、キリストが復活した日である、十字架につけられ、葬られたキリストがよみがえられた日であり、この日、私たちは死人をよみがえらせた神の力を思い、祝うと同時に、イエスが成し遂げられた罪からの救いという祝福を思い、祝うわけです。 やはり神の力の本質というのは、命を与えられるというところにあるのではないでしょうか。となれば、神を信じるものは、死そのもの、あるいは死に象徴されるようなあらゆる状況においても希望を失うことはないのです。また、神は、目的を持って命を与えられる。やみくもに勝手気ままに命を与えられるわけではない。ルカ24;6,7にあるように、イエスの場合は、神のことばの真実さを示すための復活でした。神はイエスにおいてご計画されていたことを、確実に成し遂げられたのです。そういう意味で、イエスの復活は神の正しさをも示している。 というわけで、イースターというのは、神ご自身を深く知る大切なときであるといえましょう。
2003年04月24日
「あなたの神、主の命令を守って、その道に歩み、主を恐れなさい(申命記8:6)」
考えてみれば、私たちの多くは、神について逆さまの発想をしているのではないでしょうか。神というものは、私たちの祈りや願いを聞いてくれる。こういう考え方というのは、神を私たちの道具とする考え方であり、力においては私たちが下であっても、権威においては私たちが神の上であるという考え方です。「私たちの必要を満たさない神など不要」という考えは、神を私たちの要求を満足させる奴隷であり、召使である、と見なすことと変わりはありません。 しかし、実際に神が存在するのであれば、私たちは神の前にひれ伏し、神の命令を守るべきであり、うかつな欲求のことばなどつつしまなくてはならないでしょう。 神を神として恐れる人というのは、本当に稀です。また、神のことばに注意深く耳を傾け、神の命令を守り、神の道に歩む人も少ないことでしょう。 それはなぜか。それは私たちの高ぶりのためでもあるのでしょう。私たち人間にはそもそも、他人に仕える、他人の命令に耳を傾けるなど、嫌である、そんな心があるものです。私たちの自由が束縛される。私たちの思いが妨げられる。そんな気持ちが働くからなのでしょう。しかし、神は、愛の神であり、私たちの一時的な幸せではなく、全生涯を見渡した幸せを考えてくださるお方です。たとえ自由が束縛されることがあっても、あるいは思いを妨げられることがあっても、それは、私たちにとっては最善の道のうち、と考える必要があります。
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2003年05月
2003年05月11日
「誰でもキリストの内にあるなら、その人は新しく造られた者です。見よ。古いものは過ぎ去ってすべてが新しくなりました。(Uコリント5:17)」
キリスト教では「新生」ということをよく言うのですが、新しくなるということはどういうことなのでしょうか。 第一に、それは、理性が明晰になるということではないでしょうか。私が大学で哲学を学んでいた時ですが「哲学は、迷いに迷うけれど、宗教というのは、スパスパと解答を与える」と教授が語ったことがあります。なるほどと思いました。実際キリスト教は、神の存在、人生の目的、永遠の運命について明確な情報を提供します。人生の歩みに明確な理解と指針を与えるのです。人間迷いがなくなったら終わりのような気もしますが、理性が明晰にされてなおも悩みを抱えていくのが人生ではないでしょうか。ただやみくもに五里霧中の人生の中で悩みを抱えているのとでは大違いです。新生というのは、人生について明るくなるということです。 第二に新生というのは、変えられた生き方をするということです。人は愛さなければならないものを愛さないで、愛してはならないものを愛してしまうことがあります。それは、理性が明晰にされていないから、そうなるのでしょう。人の理性が曇ると、生き方も的外れになります。(聖書はそれを「罪」と表現します)。しかし理性が明晰にされると、生き方そのものが純化されていきます。愛が深められ、正しさが増し加えられます。そのようにして人間関係も新しくされる、新生というのは、個人の出来事でありながら、このようにして関係性のある出来事ともなることなのです。
2003年05月24日
「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。(マタイ5:4)」
私たちは、悲しみを避けて通ることは出来ません。自分のしでかしてしまった失敗に悲しく思う時があり、また不当な取り扱いを受けたことにより悲しく思う時があり、さらには、災難ともいうべき不可抗力の災いに悲しく思うことがあるものです。 悲しい時には、本当に悲しいのであり、誰の慰めもただ心の上っ面を通っていくだけということがあるでしょう。悲しみというのは、園悲しみを味わっている人だけにしかわからない部分があるのです。 しかし、聖書は「悲しむ者は幸いです」と語ります。悲しみはそれで終わりなのではなく、そこに慰めがあり、希望があり、展望があるということなのでしょう。 実際、私たちは様々な悲しみを経験することで、他人の苦しみに共感する力を持っていくものでしょう。どんな悲しみも無駄にはならず、かえってその悲しみによって人生もまた人をも深く味わうことになるのです。またその悲しみによって、私たちは自分を見つめ、人間としての謙虚さを持ち、さらに自らの人格を成熟させていくことになります。辛苦をなめることにより、心深く、豊かに、また大きい人にさせられていくものでしょう。 悲しみは、それ自体は喜ばしいものではありません。しかし、「寒さに震えた者ほど太陽の暖かさを感じる」ということもまた事実なのです。
2003年05月31日
「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどとは考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。(ピリピ3:13)」
エリクソンによれば、青年時代の心理的特徴は「忠誠心」であると言います。何かに打ち込むものを探し、没頭していく、そういう時代であるということです。 どうしてかつての青年たちが、学生闘争に突っ走っていたのか、あるいは今の若者たちが新興宗教や自己啓発などの心の活動にはまり込んでいくのか、それは青年期の「忠誠心」という心理的特徴の故である、と考えるならば納得のできることでしょう。ですから、忠誠心を何に向けていくのか、ということがとても大切なことではないでしょうか。 また忠誠心という心理的特徴に突き動かされながら、青年は、アイデンティティの形成という大切な作業を進めています。何かに打ち込む中で、自分のライフワークをどうすべきか、人間としてどうあるべきか、そういうことを定めていく時であるということです。 自分のライフワークばかりを考えるのではなく、人間としてどうあるべきか、社会の中の自分のあり方というものをもバランスよく考えていく。そういう意味では、宗教というのは、青年期のアイデンティティ形成に非常に役立つものであることに間違いはありません。問題はその中身です。 キリスト教は、十字架愛というものを基本に考えている。十字架愛を持った人間形成ということを人間の「成熟」として考えている。それはある意味で損ができる人間になるということです。それは嫌だと思う人は多いはずです。 しかし、テレビ番組のプロジェクトXを見ながら思わされることは、人のために損をする人間がいたからこそ、世の中がうまく動くようになっていっている、ということです。キリストの十字架というのは復活ということにつながっているように、死ねばこそ実るものもある。一粒の種が地に落ちて死ねばこそ、新しい命も咲き出でるということでしょう。信仰を持ち、キリストの十字架愛に生きる、そして何か世のために新しい命を生み出す、一考に価するアイデンティティ形成といえるのではないでしょうか。
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2003年06月
2003年06月08日
「もし、その計画や行動が人から出たものならば、自滅してしまうでしょう。しかし、もし神から出たものならば、あなたがたには彼らを滅ぼすことはできないでしょう。(使徒5:38,39)」
キリスト教の勢いが増し加わっていった時に、ユダヤの宗教家たちは、これを徹底的に叩き潰そうとしました。そのような動きの中で、ガマリエルという指導者は、「もし、その計画や行動が人から出たものならば自滅してしまう、しかし神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない」と語るわけです。 確かに、私たちの経験の中では、どんなにがんばって器用に立ち回っても、うまくいかないものはうまくいかないということがありますし、それほど深く考えもせずに、物事を進めていったものが、すいすいうまくいくということがあります。「物事はなるようにしかならない」ということでしょうか。 しかし、物事が無目的に、あるものはうまくいき、あるものはうまくいかない、という発想は聖書にはないわけです。一切が神様のご意志のもとでなされている。神様のみこころのうちに生じているという考えです。 ですからうまくいくものというのは、もちろん神様が主導してそのように導いておられることに変わりはありませんが、うまくいかないものというのも、実は私たちの思いが遂げられないというだけで、それは神様が主導してそのように導いたということでもあるのです。 私たちはこうあってほしいと思うとおりにならないと不幸に感じるものです。神がそのことに賛成してくださらない、というのは、なんとも神を恨みたい気持ちにもなることでしょう。神などいかさまだ、とすら思いたくもなることでしょう。 しかし、聖書は、神は愛であると語ります。神は常に私たちのために最善をなしておられる。ですから物事が私たちの思い通りに行かなということについても、それなりの意味があることなのです。私たちよりもはるかに長く先を見通して、私たちのために最善を考えて、神はそうなさっている、ということです。 そう考えて、愛の神をどこまでも信頼していくところに、信仰の本道があるのです。
2003年06月19日
「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい(マルコ1:15)」
キリスト教の中身を一言で要約するとしたら、色々な切り口があるとは思いますが、このマルコのことばが、その大切な一つであるといえます。「罪を悔い改めて神を信じる」これがキリスト教のすべてだということです。 しかし、こんなことを率直に言われて、それをすぐに受け入れようと思うような方というのは、数少ないのではないでしょうか。誰も自分が立派だとは思ってはいないとしても、罪人と糾弾されるなどうれしいことではありません。毎週、礼拝の説教でこんな話を聞くようでは、耳痛いことに違いありません。牧師もあれこれ工夫して、聖書の歴史の流れや文脈の背景やらを色々と語りはしても、なんとしても語らねばならない聖書の中心的なメッセージは、悔い改めを置いて他にはないのです。 日本人は、宗教において一つの立場に立つことを嫌う国民性を持っている、といわれますが、悔い改めというのは、まさに自分のありようを変換すること、一つの立場に向かって、自分のありようを固めることでしょう。 しかし、悔い改めなきキリスト教信仰など意味がありません。キリスト教趣味者でも、キリスト教主義者でもなく、キリスト教信仰者たらんとするならば、やはり、悔い改めて福音を信じる、いわば、神を信じないという罪と、そこから発する細々とした日常生活上の罪を悔い改めて、十字架にある罪の赦しを受け入れて,、神に生きる新しい生活へと踏み出すことが大切なのです。
2003年06月29日
「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか」そこでイエスは言われた。「わたしは、それです。人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗ってくるのを、あなたがたは見るはずです」(マルコ14:61,62)
これだけはっきりと書かれていると、このことばをどう受け止めたらよいものだろうか、と思わされることはないでしょうか。 イエスが十字架につけられる前、イエスは裁判にかけられるわけですが、そこで、ユダヤの宗教家たちは、イエスに神を冒涜した罪を着せます。自分を神であるとする、これはまさに神の冒涜に他ならない、というわけです。死刑をちらつかせながら、「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか」と質問する。それに対して、イエスは、「わたしはそれです」と答える。自分が神の子キリスト、いわゆる神そのものであることを認めているのです。 これを昔物語りとしてではなく、当事者として読むならば、これは大変なことを言っているものでしょう。もしあなたがユダヤの宗教家であり、熱心に神を信じる者であるのならば、このイエスの答えに我慢できない思いにならせられたのではないでしょうか。「こいつは気が狂っている」そう断じたい気持ちにさせられるのではないでしょうか。一方、イエスを神として受け入れていた者たちもいるのです。 イエスはご自分を神としてお示しになりました。彼を狂人とするか、それともその言葉どおりの存在であるとするか、私たちはこのことばの前に選択を迫られるのではないでしょうか。 キリスト教信仰というのは、キリストを神として信じることを、避けて通ることはできないのです。
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2003年07月
2003年07月05日
「(愛は)すべてを我慢し、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます(Tコリント13:7)」
精神科医の佐々木正美さんが、最近の若い人たちは人を信じる力が弱いと指摘しています。人を信じることができる、というのは、「Aさんは信じるけど、Bさんは信じない」そういう個人的なことではなくて、人間が自分の周りにいる人たちをどれぐらい信じることができるか、という意味で、そのような意味での人を信じる力がどうも弱いのだ、というのです。 だからとても傷つきやすい。怒られた、注意された、問題を指摘された、ということの内容を考えて反省するまでにいかず、怒られた、注意された、問題を指摘された、ということに変な拘りを持ってしまう。自分に自身を失い、同時に、その相手に逆恨みをする、と言うのです。 あるジャーナルに、多くの牧師が燃え尽きの危機にあることが指摘されていました。共通しているのは、人間関係、特に信徒との関係、役員との関係でのトラブルが燃え尽きにつながっている。働きすぎて燃え尽きたというよりは、人間関係で傷ついている牧師が増えているというのです。なるほどそれは、「人を信じられず傷つきやすい世代」が出現した時代を反映しての問題であるのかもしれません。ただ、「人を愛するということは人を信じるということ」と聖書から教えられているキリスト教会の中ですら、そうであるとすれば、本当に深刻な問題であるように思います。 こういう問題にどう対処するか。いかにして若者に人を信じる力を回復させていくか。若者の傷つきに同調し、敵味方に別れあい争う状況では決して問題は解決しません。むしろ、こういう問題があることに一人でも多くの人たちが気づいて、気づいた者たちが集まりあって、共に心を寄せ合って、その若者が成熟へ導かれていくことを神に祈り続け、愛し続ける事を置いて他にないようにも思われます。まさに人を生かす働きというのは、一人だけで燃え尽きてしまう愛の働きによってではなく、ある人を囲む大人たちの一致した信仰と十字架愛を必要とする業なのでしょう。
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2003年08月
2003年08月30日
何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりも優れた者と思いなさい。ピリピ2:3
仕事から帰宅すると、妻が「ほたるの墓」を見ていました。戦中の悲しい物語です。ああいうものを見ると涙が出てしょうがないので、ところどころだけを見て、あとはストーリーの中身を簡単に聞いておきました。 そして思ったことは、創作であっても、それぞれ人間には、人知られぬ様々な、痛み、悲しみ、喜び、と色々な営みがあることです。私の高校時代の教師は、人間だれでも自分史を書いたら、興味深い優れた小説になりうる、というようなことを言っていましたが、やはり、私たちは他人のほんの一面を見ているだけに過ぎないものでしょう。人間を理解するというのは、簡単なことではない、そう思います。 ということは、もっともっと他人に対して謙虚な思いを持って、接するということがやはり大切ではないか、と思うわけです。 こういう職業をしていますと、人間の裏表の差の激しさにたびたび驚かされることがあります。表向きは何の問題もなさそうで、明るく、元気な人のようでありながら、その実、内面には、死を思いつめるほどの苦悩を抱えている人がいたりするようです。 そんなわけで、私はあまり第一印象などというものを信用しません。強い個性の人には第一印象を持つことがありますが、そういう場合にも必ず印象を保留にしておきます。そしてむしろ、謙虚に、この人には私のわからぬ部分がある、見えたと思っている部分も一部でしかない、そう思うようにしています。実際、年配の方々とお話してみると、自分がいかに一面的に物事を見ているか、ということを考えさせられたりもします。 ともあれ謙虚さを持っていく、ということが、結局は、深い大切なお付き合いを育てることにもなるのではないでしょうか。
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2003年09月
2003年09月06日
「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。」(ピリピ3:12)
相談室に出かける途中、ある町で、祭りの準備をしていました。「夏の最後を飾る祭り」だな、と思いましたら、急に田舎のことを思い出しました。
私の田舎は、東北、北国です。東北は夏祭りが終わると、さっと木立が色づいて、木枯らしが吹くようになる、そんな記憶があります。それに比べ、東京は、夏祭りが終わっても、いつまでもだらだらと暑い日が続く、さっと冬支度をする、田舎が懐かしく思えました。
そして、今年も、そろそろまとめだな、と思わされました。しかし、一年たってみなければ、その一年が何であるかはよくわからないことです。考えてみれば、人間の一生もそのような気がします。人間も一生の終わりになってはじめて自分の人生が何であったか、ということを理解するのではないでしょうか。
絶えず自分が、人生を理解する旅の途上にあることを覚えたいものですし、神をわかり、信仰をわかる人生の途上にある、と心得、神に与えられている今を謙虚に、忠実に、創造的に生きていきたいものです。
2003年09月13日
「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。(マタイ5:4)
自分の痛み、悩みを語ることは、古い傷口を開くことと似ています。切られた身をもう一度切りなおすようなもので、忘れ去ったはずの痛み、悲しみを思い返します。そしてかつて味わったどうしようもない落ち込みや悲嘆を、再び身に覚えてしまうものです。もうすっかり忘れた、と思っていても、何かのきっかけで昔のことを口にしたところ、一日気持ちが暗くなってしまう、そんなことがあるものでしょう。
悲しい時には、誰でも、慰めと励ましを必要としています。しかし、私たちの社会では、必ずしも期待どおりのことが起こるわけではありません。だから次第に、心を開かなくなる、悲しみや痛みを胸の奥に秘めたまま、という人もいるのではないでしょうか。
しかし、聖書は約束するのです。「悲しむ者は幸いです。その人は慰められる」と。イエスは、神の国の倫理としてこのことばをお語りになりました。つまり神は、あなたの悲しみに配慮し、そこへ完全な慰めをお与えになることができるのです。どのようにして。聖書に向かうということではないでしょうか。
ある方は、つらい状況に置かれた時に、Tヨハネの手紙を読んで支えられた、と証ししてくれたことがあります。また別の方は、長いトンネルの中にいるように思われた時に、詩篇を読むことで支えられた、と分かち合ってくれました。神のことばである聖書を読む、神のことばを読み神の語りかけを受ける、神との生きた交わりを得ることが、信仰の歩みをするということではないでしょうか。
2003年09月20日
「しかし、あなたにはできる。あなたには、聖なる神の霊があるからだ(ダニエル4:18)」
この日本においては、毎年3万人近くの人が自殺していると言われます。年間の殺人事件件数が約1000件であるということと、自殺企図という暗数を含めた広がりを考えてみると、自ら死を選択する人の多さには本当に驚かされる思いがいたします。
また日本の自殺は、二山型の特徴があるといわれ、青年期のいわゆる人生の意味を問う自殺と、中高年層のいわゆるリストラ自殺が多いということです。
確かにこの時代における様々な難しさにおいて、解決の糸口を見出せず、もう絶望的な状況で、死を選択するという状況があるのでしょう。しかし、聖書は、一切の解決の門戸が閉ざされたとしても、なお一つの可能性がある。決して断たれない可能性がある、と私たちに語りかけているのではないでしょうか。
先日、何年ぶりかに、恩師のニュースレターを目にしました。懐かしい写真を拝見しながら、そのニュースレターには、「神は、今も働いておられます!」とタイトルされ、「父(なる神)は、今に至るまで働いておられるのである。だから、私たちも信仰と希望と愛をもって働こうではないか」と結んでありました。
たとえ目に見える望みが一切絶たれるようなことがあったとしても、目に見えない神の望み、今なお生きて働かれる、神の霊の働きに、期待したいものです。そしてこの神を味わうところに、キリスト教信仰の祝福もあるのでしょう。
2003年09月28日
「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって歩きなさい。(使徒3:6)」
ヨハネの黙示録を読むと、そこにはいわゆる「あの世」のお話が書かれていることがわかります。あの世で何が行われているのか、4,5章を読むと、神を礼拝する壮大な光景がイメージとして描かれていることがわかります。
しかし、そのイメージに私たちは、今の教会の礼拝のイメージを重ねやすい。日本の教会も随分と立派になり、パイプオルガンが備えられ、重厚な礼拝がなされる教会、最近のアメリカの流行を取り入れ、プロジェクターで映し出された歌詞とソングチームの賛美リードによって明るい礼拝がなされる教会、様々です。しかし、ヨハネの黙示録を書いたヨハネがあの時代にそのような整えられた礼拝を幻として見たのかどうかは疑わしいものです。
むしろヨハネの時代は、ローマ帝国の迫害下でキリスト者が苦しめられた時代。隠れ家に集まって、ひっそりと、しかし、心の底から励まされ、支えられる礼拝がなされた時代でしょう。パイプオルガンも、聖歌隊も、ステンドグラスも、プロジェクターも、ソングシートも、木造の長いすも、歓迎カードも、何もない、ないないづくしの中で、イエスの御名を呼び求め、そして確かに、いのちに満ちる礼拝がなされた時代でしょう。なにがなくとも、イエス・キリストの御名のすばらしさがあれば十分であったし、それが通用した時代でした。
今日、教会において、あなたは何を求めているのか。イエスの御名によって、歩けと命じられることを求めているのか。それとも、教会にとってはそれほど重要ではないものを、つまり歴史の産物を求めているのか。もし、あなたが教会にイエス・キリストの御名を仰ぎ、満たされることを求めているならば、その願いが裏切られることは決してないのです。
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2003年10月
2003年10月11日
まことに、あなたは私のたましいを死から、私の目を涙から、私の足をつまずきから、救い出されました。(詩篇116:8)
あるクリスチャンの兄弟が久しぶりに教会を訪ねてくれた。不景気の波に、仕事を打ち切り、故郷に帰って、その後通える教会もなかなかよい所が見つからない様子だった。「神様なんているんだろうか」と、つぶやいたことばに、牧師としての力不足を感じていて、色々と心配し祈らされていた。
そんな兄弟が久しぶりに笑顔で教会を訪れて、よい教会が見つかり、仕事も順調に方向性が見えつつあることを報告してくれた。そして、「今こうして考えてみると、神様がなさろうとしていたことが、ああこういうことだったのか、色々と見えてきた」と語ってくれた。意外な報告に驚き、うれしい思いがした。彼もまた一つ霊的成長の一歩を踏み出したな、そんな感触だった。
色々な不幸続きの中で、神の愛を感じられない、神の守りなど感じられないという人は多い。「神がいるなら、なんでこんなことに」と思う人も多いだろう。私自身、これまでの歩みを振り返っても、「神がここまで私をいじめるのか」と思わされるようなこともなかったわけではない。しかし、神は、私たちによくしてくださる、と言うことは真実である。
先日神学校の講義で、風邪のためしばし咳こむことがあった。講義が終わると、ある私よりも年配の生徒が教壇に近づいてきて、私の手に、「先生これ咳に効きますから」とニコニコしながら包みを手渡してくれた。見るとどこにでもあるような、のど飴だったが、「ありがとう」とそれを受け取った瞬間、それ以上のものをいただいたことにはっとさせられた。そののど飴には、生徒の念じられた思いと心遣いがあることを覚えさせられたのだ。実際、効果抜群であったと思う。
彼の心遣いと同様に、神の私たちに対する念じられた思いというものがある。生ける神の私たちに対する真実な働きかけというものがある。いかに、神に見放された、神なんて、と思うようなところをくぐらされよう、とも静かにじっと神を信頼し、待ち望むことが大切である。神は確かに、死から、涙から、つまずきから私たちを救い出される。
2003年10月21日
「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間には与えられていないからです(使徒4:9)」
神なんているものか、と思うようなことが、私たちの人生にはある。神が、私たちを守り、私たちを祝福してくださる、というのに、一体全体どうなっているのか、と思うようなことがあるのではないだろうか。
しかし、よく考えてみれば、自分によいことが起こらないからといって神がいない、という発想は、必ずしも肯定されるわけではない。雨が降っていようと太陽の恵みは変わらず存在するのと同様で、神の存在というのは、私たちの事情に左右されるものではない。
問題は、その太陽の恵みに再び与ることができるのであろうか、弱気になる人間側の問題ではないだろうか。
聖書は、神の人間に対する愛は変わらず、神の愛は十字架においてあらわされた、という。十字架愛は、罪人を救うための身代わりの死である、あるいは、神が求める義の負債を帳消しにする借金返済の死である、色々な説明の仕方がなされる。しかし、大切なのは、神が私たちのために痛んでくださった、ということではないだろうか。こんな神はどこを探してもいない。キリスト教だけが語るものである。「だからこの方以外には、だれによっても救いはありません」ということなのだろう。
迷いからの救いを語る宗教はいくらでもある。しかし、罪人の人生を取り戻すために、神が自ら痛んでくださった、血を流してくださった、という宗教はキリスト教をおいて他にない。そのように血を流してくださった神が、そのほかのことにもよくしてくださらないはずがあろうか、「ただ主を信ぜよ」という。
2003年10月31日
たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にもたちません。(Tコリント13:3)
先日ある方と子育ての話をした。今の親は、子供に手をかけず、お金をかけて育てている。それが今の子供の一番の問題ではないか、そんなことを話した。
確かに、忙しすぎる親がいる。そして子供と十分心を通わせる時間を持つことができない。結果的に、何かを買い与える、そういう形で愛情を代償するようになる。その欺瞞さには、気づいているはずなのに、実際に、そのことを積極的に反省していこうという気持ちにはなかなかならない。それは親が自分のことで精一杯だからなのだろう。自分の欲求を満たすことに精一杯で、子供のことまで考えられない思いでいるからではないだろうか。
その結果何が起こっているのか。子供も同じような考え方で成長するということではないだろうか。何か難しいことがあれば、お金で解決しようとする。お金をかけさえすれば、善意や愛情は伝わっていると思う。なんとも寂しい考え方ではないだろうか。
パウロは、愛というものはそういうものではない、とはっきりと語るのである。この節の後に、次のように語る。愛というのは「すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます」
愛というのは、ただ単に物を与えることではない。ただ一緒に暮らしていくことでもない。心を通い合わせること、体験を共有しあうこと、苦楽をともにしあうことにある。苦楽をともにしようとせず、ただお金を与える、物を与える、そういう発想の人間に、残念ながら聖書が目的とする愛はない。
イエスが、私たちに教えてくださった愛は、苦楽を共にする愛である。十字架を共にする愛である。
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2003年11月
2003年11月15日
「ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って、彼らに勧めた(使徒2:40)」
クリスチャンになる、ということを、難しく考えてはなりません。しばしば、何か自分の人生に奇跡的なことが起こらないと信仰が始まらないのではないか、と考えている人がいます。後ろから神様に押し出されるような、特別な体験がなければ信仰したと言えないのではないか、あるいは聖書を完全に読み解いて理解しなければ、信仰をスタートできないのではないか、などなど。
そうやって、教会に集いながら、神的な何かを待って、「待ちぼうけ」をはじめてしまうようではだめなのです。神は私たちに自由な意思を与えられました。それは、神が与えられた恵みを進んで受け取る自由であり、進んで拒否する自由です。進んでなすのは、拒否するときばかりではありません。受け取るときも進んでなすべきなのです。進んで神様の祝福を受けるとよいのです。
ペテロは、イエスの十字架について語り、そして勧めました。「この曲がった時代から救われなさい」と。40節。このことばを進んで受け入れた者はバプテスマを受けたとあります。そして3000人ほどが弟子に加えられた。とあります。
聖書は、イエスの十字架を見よ、あそこにあなたの罪の赦しがある、と断言します。また、イエスの復活を見よ、あそこにあなたを新しくする神の力がある、と断言してはばからないのです。この神のことばに、あなたが応じるか否かが問われているのです。
2003年11月30日
「民衆はみな朝早く起きて、教えを聞こうとして、宮におられるイエスのもとに集まってきた(ルカ21:38)」
このところ私は、大学院の教育学部でインターネットや通信衛星を使った遠隔教育について研究をしています。どのような学習システムが、個人の主体的な学習を進め、かつチーム学習にとっても、有効なものになりうるのかを研究しているわけです。
これによって、私は、今日のインターネットや携帯電話の発達が、いつでも、どこでも、だれでも、勉強ができる環境を整えつつあることをさらに実感するようになりました。自分なりにテーマを決めて、どんどん自由に様々なことが学べる時代になっている、ということです。
最近のインターネットを利用した学習は、一つには知識増殖型の学習を可能にします。二つ目に、技能を向上させる学習を可能にします。そして最後に、一番注目されている部分ですが、知識構築あるいは、知識創造を目的とする学習を試みることを可能とします。
民衆はみな朝早く起きて、教えを聞こうと、イエスの下に集まったとあります。宗教を知識啓発と考えれば、それはインターネット学習の格好の材料になることでしょう。しかし、牧師を10数年続けてきて、そんなことはありえないのではないか、と思わされています。
聖書をいくら学び重ねたとしても、信仰が深められるわけではありません。何十年も教会に通い、聖書が真っ黒になるほど書き込みをして学んでいるような人でも、一向に信仰的な考え方ができない、世俗思考そのもの、という人がいたりするものです。何が間違っているのか。信仰は学びではない、ということなのかもしれません。聖書が語る教えではなくて、教えを語られる神そのものに向かい合う、そこができているか否かの問題なのかもしれません。
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2003年12月
2003年12月15日
「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。(Tテモテ2:1,2)」
何やら変な夢を見て目が覚めた。夢の中で号泣していたのだ。目が覚めたら、まるで本当に泣いていたかのように、心が悲しい。
自分が兵士としてイラクに派遣されて戦争で戦っている夢だった。気づくと目の前に敵が立ちはだかって、機関銃を向けている。ああもうこれで終わりだ、と思ったが、敵は私を撃ち殺そうとする気配も見せない。そしてなんとその人の顔は見覚えのある日本人で、確か彼はクリスチャンだったのではないか、と考えていると、テレパシーのように相手の心の声が伝わってきた「僕は人を殺したくない」と。どうもこういうところが夢というのはおかしい。イラク人もいつの間にか日本人になっている。ま、それはよいとして、私はすぐに自分の機関銃を持ち直して、撃とうとするのだが、どうしても引き金が引けない。相手は黙って私を見つめている。で、私もだんだん悲しくなってきた。そして「僕はクリスチャンだから人を殺せない。こんな悲しいことは嫌だ」、と彼に語りかけると、一緒に涙を流し始めた。そしておいおい泣きじゃくって目が覚めた。
泣いた後のような重苦しい胸の内で、一体この夢はなんだったのか、と考えた。精神医学の講義の中で、夢には心を整理する機能がある、だからどんどん見たほうがよい、と言ったのは、恩師でもある鈴木教授だ。と考えている内に、昨日の祈祷会で、イラクの戦争のために祈りましょう、とある信者さんが祈りの課題をあげていたことを思い出した。そして、そのことを祈らずに自分の祈りを閉じてしまったことに気づいた。なるほど、あの熱心な信徒さんの求めをしっかり受けとめずにいたのではないか、牧師としての態度に、何やら咎めを感じていたのかもしれない。それが夢に・・・。
イラク情勢のために祈るなど、何か自分にはとてつもなく大きな祈りの課題のように思われもするが、世界平和のために祈ることも、キリスト教会の大切な機能だろう。
本当に戦争という悲しい状況は何とかならないのかと思う。国際政治学者の故鴨武彦教授は、政治家の心理的なレンズのゆがみが戦争を引き起こす、と語っていたが、結局はトップの政治家が前線で戦う名もない兵士や、戦禍に翻弄される一般庶民に対する人類愛の心をしっかりともって正しい判断に導かれるように、と祈ることが大切なのだ、と思わされる。
2003年12月29日
「このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。(ローマ14:18,19)」
「どうしてクリスチャンと言われる人に、こんな人がいるのか、わかりません。私はクリスチャンという人々にことごとく失望させられてきました」かつてそんなことばを聞きながら、私は、「クリスチャンも色々です、そういう人は本当のクリスチャンとは言えないのでは・・・。」、とことばを返した記憶がある。実際、信仰がどうのこうのというよりも、やることなすことが独りよがりであったり、社会的な感覚を無視していたり、常識を欠くようなことを平気でしていたり、という信徒さんがいないわけではない。
話せば話すほど、嘘に嘘の上塗りがなされるだけで、最終的にこの人のキリストにある倫理観や正義感はどうなっているんだろう、と思わされるようなクリスチャン、関係者全体のことを考えもせず、ただただ自己満足的に独善的に、自分の「よかれ」を押し付けてくるクリスチャン、そういう人たちを前に、牧師の働きのむなしさを感じさせられた時があった。悩みつつ、聖書を読みながらイエスの種まきのたとえに、結局は「その人自身の問題である」と心の整理をつけてみたが、なかなか気持ちはすっきりするものではない。
一方、特に深い訓練を施したわけではないのに、霊的にも人間的にも成熟を重ね、教会においてよい働きをし、社会においてもよい証をする兄弟姉妹たちがいる。そういう人たちを前に、私は本当にパウロが語るとおり、「成長させてくださる神」がおられるのだ、と強く思うことがある。たとえ私自身のかかわりがあったとしても、それがどんなものであったのかがよく思い出せない。
ともあれ牧師として、ただ単にキリストに対する信仰を持った信仰者を育てるのみならず、人間そのものを育てていく、そして、「神に喜ばれ、また人々にも認められる」信徒を育てていくことに心していくことが大切なのだろう、と思わされている。
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