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| これまでのショートメッセージ(2002年度) |
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| 2002年01月 |
新しい年、皆さんは何に望みを置いておられるでしょうか。今年はこれをしよう。 あれをしよう。色々なことを考えられたことと思います。しかし、その保証や望 みはどこに置いているでしょうか。 聖書は神に望みを置くようにと勧めていま す。君主たち。つまり人間に頼ってはならない。どんなに立派に見える人でも。 また自分自身すらも、頼りにしてはならない。というのも、人間は息絶える者だ からというのです。聖書は人間の命の危うさを明確に語っています。ですから人 間の命を握られる神にこそ、望みを置くようにというわけです。 聖書の神は、 人間が頭で考え出したようなものではありません。むしろ人間をお造りになった 神です。天と地と海とその中のいっさいをお造りになった方。つまり、宇宙の創 造者であり支配者なのです。そういう方にこそ、望みを置くのです。また聖書は、 聖書の神が飢えた者にパンを与える方、捕らわれ人を解放される方だと言います。 飢えた者に、この世の誰がパンを与えるでしょうか。捕らわれ人を誰が解放する でしょうか。飢えた者も、捕らわれ人も、望み無き者、見捨てられた者です。し かし、神は決して見捨てられない。人が健康を損ね、破産し、失敗し、全く駄目 だと思えるような状況に陥っても、決して見捨てられないお方がいる。そういう 神をこそ、望みとしなさい、と聖書は勧めるのです。
「何かやましいことをしてしまった」そう思った時に、あなたならどうしますか。 「何とかして覆い隠そうとする」、人間にはよくありがちなことです。実際、聖 書を読むと、人間は、神に造りだされたその最初から今日まで、「自分の罪を覆 い隠そうとする」という点で、あまり進歩するところがなかったように思われま す。今日も、あらゆる人々が、政治家も、商売人も、ビジネスマンも、主婦も、 誤ったことをしたと思ったとたんに、それを一生懸命覆い隠そうとしているので はないでしょうか。しかし、罪を覆い隠そうとして成功した者はありません。実 際、自分で罪を覆い隠すということは大変なことです。「うその上塗り」と言い ますように、ますます罪の深みにはまっていくものです。「自分のそむきの罪を 隠す者は成功しない(箴言28:13)」という聖書のことばは、まさにそのとおり であると言わなくてはなりません。
では、どのような解決の方法があるのでしょう。それは、自分の罪を進んで告白 し、罪の行いから離れることです。なんともそれは、そのような罪の責めを負っ ている人にとっては、とても困難なことに思われるかもしれません。しかし、罪 の行いから離れようと、勇気ある決断をなす人を、神は祝福してくださいます。 神がその罪の赦しを宣言し、その罪を覆い隠してくださるからです。「幸いなこ とよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。」完全に罪と、けりをつけた いと思うならば、すべてを神に打ち明け、神のお取り扱いに身をゆだねることが 大切です。聖書は言います。「 もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は 真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくだ さいます。(Tヨハネ1:9)」
22日、ウェスレアン・ホーリネス淀橋教会で開かれた、断食祈祷聖会2002に参加 いたしました。こうした集会に出席するのは、初めてのこと、個人的に断食祈祷 をしないわけではありませんが、この手の集会には縁遠いところがありました。 「青少年の教育」をテーマとした講演依頼を受けて、会場に訪れると、食を断ち 祈り続ける兄姉の姿がありました。賛美に沸き立つ今風ではなくて、ただ神を仰 ぎ、日本の政治、経済、青少年の健康な歩みのために、静かに祈り続ける、そん な素朴な兄姉の姿を見ながら、こういう人たちによって、日本もまた日本のキリ スト教界の霊性も支えられているのだという気がしました。 素朴に神様を信頼し、神様を仰ぎ、自らの時間を削って、他者、他事のためにと りなしの祈りをささげ続ける、こういうことは、実際にはなかなかできないこと です。多くの人にとって、祈りは、「困った時の神頼み」ではありませんが、人 生のどん底でなす自分のための一時の行為に過ぎないことがあります。また「喉 元過ぎれば熱さを忘れる」ではありませんが、問題が解決し、先行きが見えてく るにつれ、絶えていく行為のようです。 しかし、それこそが人間の罪そのものであり、人間の自己中心性なのだというこ とに、私たちは気づかねばならないのかもしれません。なぜ祈ったのか。天地万 物をお造りになった神の力を欲するからです。なぜ祈らなくなったのか。天地万 物をお造りになったと教えられた神の力が、今の自分の生活にそれほど必要とは 感じられなくなってきたからです。こういうところに、私たちは悔い改めを必要 としているのです。 そして幸いなことに、こういうところに、イエスの十字架の恵みが備えられてい るのです。恵みを無にせず、神様を覚え、神様のみこころに聴き従い、祈るもの とならせていただきたいものです。
鎌倉初期の禅僧で道元という人がおります。道元は座禅の極意は、「只管打座
(しかんたざ)」にあると語りました。「只管」というのは、辞書を引きますと
「ひたすら」の意と説明されています。しかし、道元は、「ただ」を意味すると
説明しました。つまり座禅というのは、「ひたすら座る」のではなく、「ただ座
る」のが大切だというのです。 「ひたすら」と「ただ」の違いは、他の面でも
重要です。たとえば「優しくする」ことを考えてみましょう。「ひたすら優しく
する」のと「ただ優しくする」のとでは大きな違いがあります。「ひたすら優し
くする」あり方には、どこか義務感や背伸び、気負いを感じさせますが、「ただ
優しくする」あり方には、その人の自然な優しさがふと漏れ出るそんなイメージ
があるようにです。 ひたすら「地の塩・世界の光」として自分を売り込むので
はなく、ただ「地の塩・世界の光」として生きる。そんなふうにして、知らず知
らずのうちに周りに評価される。気づいてみたら、神が置かれた場にあって、塩
気があり光り輝く存在になっていた、そんなあり方が求められているように思わ
れます。
up
| 2002年02月 |
心理学者のランナーは、友人関係の親密さを次のように段階付けしています。
1.親友:自分の個人的なことを打ち明けて話すことができる
2.仲良し:親しいが、個人的なことは打ち明けない、月並みな話をするだけ。
3.近づき:しばしば会うけど、特に親しいほどではない
4.知り合い:知っているだけの人
5.仕事仲間:いっしょに仕事をするだけで、そのほかのことは知らない友人
6.顔見知り;グループで顔を合わせるが、いっさい交渉のない友人
7.よそびと:名前だけ知っていて、一度も話したことがない友人
さて、人間と神様との関係は、どれに当てはまるのでしょうか。実は、どれにも 当てはまりません。0番、親子の関係だからです。「主の祈り」は、イエスの弟 子たちが学んだ、祈りの実例です。イエスは、弟子たちに向かって、神様に呼び かける時には、親しみを込めて「お父さん」と呼びかけるように、と教えられた のです。神様は決して天上高くから、私たちの祈りに耳をそばだてているような 方ではありません。神様はいつも私たちのそばにおり、私たちの身内として、心 の声に耳を傾けていてくださる方なのです。人には、誰にも言えず、心の内に秘 め苦しむような悩みがあるものではないでしょうか。しかし、そんな心の悩みを、 身内のこととして知ってくださっている方がおり、その人のために最善をなそう としておられる方がおられるとは、なんとも心強いことです。
1953〜1961年に国連の事務総長を務めていたダグ・ハマーショルドという人 がいます。ハマーショルドは、スエズ危機、ハンガリー動乱、コンゴ内戦など、 様々な国際紛争が続く時代の最中で、世界平和の実現を目指そうとした人です。 そんなハマーショルドの心の軌跡を綴った日記『道しるべ(みすず書房)』には、 こんな一節があります。
「御名を聖となさしめたまえ、
わが名にはあらずして/
御国をきたらしめたまえ、
わが治世にはあらずして/
御意を行わしめたまえ、
わが意志にはあらずして」
20世紀をおおざっぱに振り返ってみれば、まずその初期に、第1次、第2次と二つ の大戦がありました。その後は、民主主義国と共産主義国に、世界が大きく色分 けされ、敵味方に分かれて摩擦を繰り返す国際秩序が続きました。20世紀の最後 は、共産主義体制が崩壊し、世界に国際統合と平和の流れが出てきました。しか し21世紀の初め、まだまだその動きはゆっくりとしたもので先が見えません。実 際、旧ソ連の崩壊に続いて、米国の影響力の低下も明らかとなり、いわゆる超大 国の重石がなくなったことによる、民族・地域紛争の激化が懸念されているので す。国際紛争はなぜなくならないのか、国際政治学者の故鴨武彦氏は、政治指導 者の「心理的レンズのゆがみ(偏見や先入観、拘りなど)」にあるのだと述べて います。平たく言えば指導者の心の問題、聖書的に言えば、罪の問題だというこ とでしょう。「世界平和の実現は、まず自我を捨て去る、一人の心の改革から」 始めなくてはならないのではないでしょうか。ハマーショルドは、世界を飛び回 る旅に、トマス・アケンピスの『キリストに倣いて』をたえず携えていたと言い ます。神の子、キリストの十字架の愛の心にこそ、平和の秘訣があるように思わ れます。
先日、I師他界の知らせがありました。短大で作業療法学を学んでいた時のこと、 共同研究や学会発表で、まだひよっこ学生の私の名を一緒に連ねさせてくれるなど、 私をよく目にかけ育ててくれた先生でした。ことばを飾らぬ荒削りの人、しかし心 暖かい人でした。俳人でもあり、稚拙な俳句に手ほどきをいただいたことなど懐か しい記憶です。そんなI師他界の知らせを受けた後、続いて、幾人かお世話になっ た先生方の引退の知らせがありました。何か一つの時代が終わっていく、今までに なくはっきりとそう感じる思いがいたしました。イザヤ書の一節を読みながら、イ ザヤもウジヤ王の死を前に、そんな思いを抱いたであろうかと考えさせられます。 今までの生活から、さらに一回り大きな責任と歩みへと押し出されていく、そんな 時代の訪れというものが、人生にはあるものなのでしょう。そこで、気負って何か ができるというわけではないでしょうが、果敢に受けて立つ気概を持つことは大切 ではないかと思います。聖書的に言えば、神の召しを受けて立つということでしょ うか。新しい時代の起こりにふさわしい気概を持つ、これを今週のメッセージとい たしましょう
イエスは、二人の犯罪人とともに十字架にかけられました。犯罪人の二人は非常に
対照的な態度を取ります。一人は尊大に、お前が神なら、その力で私たちを救った
らどうだと叫びました。しかし、もう一人の犯罪人は、自分がなしたことの罪とイ
エスの正しさを認め、イエスにあわれみを乞いました。そんな彼にイエスは、
「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」と恵みのことばを送られ
ます。ユダヤでは、死後人間は、パラダイスかハデスに向かうと考えられていまし
た。また聖書も、死後人間が復活し、新しい天と新しい地、つまり天国か地獄に向
かうまで、パラダイスかハデスにいると教えております。パラダイスというのは、
死後復活して天国に行くまで、死者が置かれる中間状態のようなものです。同じよ
うに、ハデスというのは、死後復活して地獄に行くまで死者が置かれる場です。死
後人々は、その行いに応じてパラダイスかハデスに向かうのです。そしてパラダイ
スはキリストとともに、喜びつつ復活を待ち望む場、ハデスは苦しみつつ、さらな
る地獄の苦しみを待ち望む場とされます。十字架の苦しみを味わっていた犯罪人に
とって、これから待ち受ける永遠の苦しみは、耐え難いことであったと思われます。
そこで犯罪人は死の間際に、自分のなした罪を認め、イエスにあわれみを乞うたの
ではないでしょうか。そしてイエスは彼にあわれみを施されました。何ということ
でしょう。これまで散々悪事を働いてきたであろう犯罪人が、死の間際に悔い改め、
イエスに罪の赦しを求めたというだけで、天に迎えられたのです。考えられません。
このような神の行為に納得できない人は多いはずです。しかし、そこにこそ神の愛
の性質が豊かに語られています。神は愛です。神はあわれみ深いお方なのです。罪
を認め悔い改めるならば、何度でも祝福のチャンスを与えてくださるお方なのです。
真実な悔い改めを神は決してお見過ごしになりません。
up
| 2002年03月 |
仕事を辞める多くの理由は、職場内の人間関係にある、と言われるそうです。確かに、 私も、色々な相談を受けますときに、自分が大学病院で働いていたころのことを思い 出します。仕事そのものは面白くあっても、職場内の人間関係がぎくしゃくしますと、 よほど居直るのでない限り、長く続くものではありません。そうした人間関係の問題 には、往々にして自分の側に問題があることもあるでしょう。しかし、全く、自分に 非が感じられないということもあるはずです。誤解が誤解を生んで、あるいは、能力 をねたまれて、ということもあると思います。そのような相談を、私はクリスチャン からもまたクリスチャンでない方からも受けますが、そのたびに、クリスチャンであ るということは、大変強いことだ、大きな意味があることだと思わされます。今日取 り上げた箇所は、実は、何千年も昔に、不正をする人々に囲まれて、悩まされていた 信仰者が綴ったものです。彼は神のことばを引用して言います。「高くあげることは、 東からでもなく、西からでもない。神がさばくお方であり、これを低くし、高く上げ られる」 聖書に語られる神は、天地創造の神です。天地万物をお造りになり、今も なお、世界を支配しておられる目に見えない神です。この神が、御自分のよしと思わ れる時に、すべての不正を正されるのだ。公正にさばかれるのだという信仰を詩人は 語っているわけです。 職場の同僚、あるいは上司、あるいは会社の組織ばかりを見 ていてはなりません。むしろそれらよりもはるかに優る、天地万物の創造主である神 の権威を覚えるべきです。すべての決定は神から出ているとすれば、あらゆる不正や 不公正も神は、見過ごしにされているわけではありません。やがて正される時がある のです。神への信頼は決して裏切られることがありません。
「あんな人とはもう二度と口を聞きたくない」そんなふうに憤ったことはないでし ょうか。残念なことですが、私たちの人生には、そんなことがあるように思われま す。創世記の27章には、エサウとヤコブという二人の兄弟の物語が描かれています。 兄のエサウは、ユダヤ人の習慣に従って、父から祝福の祈りを受けようとしており ました。ところが兄のエサウが、祝福を受ける準備に手間取っている間、弟のヤコ ブは、目の見えない父を騙して、祝福の祈りを自分のものにしてしまうのです。兄 のエサウは激しく憤り、弟のヤコブを殺してしまおうと考えました。なんとも悲し い状況です。しばしば憤りは憤りのまま終わるということはありません。それは報 復、殺人、破壊といった悲惨な結果へと発展していくことがあります。そういう悲 惨な結果はなんとしても回避したいものですね。聖書は、人間が様々な憤りを捨て 去るように勧めています。しかし、捨て去りなさいと言うので、「はいそうですか。 わかりました。」とはなかなかいかないものが人間の感情です。どうしたらよいも のでしょう。私は、そういう場合、憤りの感情をことばにして吐き出すことが一つ の方法なのではないかと思うことがあります。誰か信頼できる人に自分の感情を聞 いてもらうのです。これでかなり、憤りの心が発散することでしょう。それと同時 に、別のことがらに関心を向けるようにすることであろうと思います。いつも、親 切と優しさ、そして赦しに私たちの関心を集中させるようにするのです。 神は、私たちを、赦し、愛する者としてお造りになられました。私たちの人生に満 ち足りなくてはならないものは、親切とやさしさと赦しなのです。
泣く者と一緒に泣く、これは意外とたやすいことかもしれません。人の不幸をわが ことのように、一緒に悲しむ、そんなことが、私たちには苦もなくできたりします。 つまり、相手の感じていることをそのまま感じる共感とは違うかもしれませんが、 よい意味で同情することができるものなのです。 しかし、人の喜びを、自分の喜びとすることは、なかなか難しいことでしょう。 ことに自分が不幸であると思っているような時にこそ、これは大変難しい問題です。 人の心には引き下げの心理がありますし、嫉妬やらねたみやらで、私たちは素直に 人の喜びを自分の喜びとすることができなくなるのです。いやむしろ、人の悲しみ を自分の喜びとする傾向に気づかされるようなこともあるでしょう。 思うに、現代においては、このような感情が蔓延しているのかもしれません。 不幸な事件を掲載した雑誌の売り上げが伸びたり、テレビの視聴率があがったりする ことに、やはり人の不幸を喜びとする傾向があるように思われます。 そしてこのような傾向が、蔓延しているということは、それほど自分の人生を不幸で あると思っている人が多いということでもありましょう。 人の悲しみを悲しみとし、人の喜びを喜びとするためには、自分が幸せである必要が あります。私たちの心が健康な心をもっている必要があるのです。 健康な心をこそ、神に願い求めたいものです。
生まれるとすぐ父親のもとから離れてしまった子どもがいたとします。この子どもは、
成長し大きくなり、なんとかして父親を見つけたいと思うようになりました。さて、
どうしたらよいものでしょうか。 父親のことをあれこれ想像していても、きっと父親
に会うことはできないはずです。むしろ、父親のほうから、「私がおまえの父親だよ」
と名乗り出てくれる必要があります。父親のもとへ帰ることができるように、その方法
を教えてもらったり、人を遣わしてもらったりすることが必要なのです。そうすれば、
確実に父親に会うことができるでしょう。
これはたとえです。「父親」は「神様」、「父のところから離れてしまった子ども」は、
「私たち人間」です。神様は、私たち人間に、神様のもとに帰る方法を教えてくれてい
ます。つまり、聖書がその方法について、こう教えているのです。「私はおまえたちの
父親だ。私がおまえたちを私のところへ連れ戻すために、私の息子イエス・キリストを
遣わそう。このイエス・キリストに私の所まで連れて来てもらいなさい」と。
聖書は、旧約聖書と新約聖書の二つからなっています。初めのものを要約すると、
「あなたがたを私の元に連れ戻すために、これから息子のイエス・キリストを送ろう」
となります。後のものは、「約束どおりに救い主を遣わしたから、もう私のところへ
帰ってきなさい」となります。聖書は、神のもとからはぐれてしまった人間を、神の元
に導くために、神から送られた手紙だと言えるでしょう。そして神の元に帰る方法は、
神が備えられた方法、つまり「イエスを信じる」ことによるのです。
up
| 2002年04月 |
詩篇10篇は、悪者の姿を鋭く分析し、その本質は、「神を侮る者」であると指摘しています。 論理的に深く考えたすえに、「神なんていやしない」と言っているわけではありません。 神はいるかもしれない、いないかもしれない、まあいるとしても、どうってことない、ということです。 宗教を信じる者の中にも、悪者がいるという現実は、こうして説明できるのではないでしょうか。 宗教を信じている人がどうして、平気で嘘をつき、何食わぬ顔でごまかし、人を人と思わず、礼節を欠く、 いわゆる悪いことをするのか、と不思議に思われる経験をする方は多いことでしょう。 それは、「神」を呼び求めるのは、口先だけのことで、実際に心から神を畏れて生きているわけではないからです。 こういう人は、結局は「神はいない」と明言するかのように、悪事を働く人となんら変わらないのです。 聖書は「神の目に見えない本性、すなわち、神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、 被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです(ローマ1:20)」と語っています。 都会のビルの谷間、マンションの一室といった人工の世界から抜け出て、大自然の中に出て行くならば、 きっと、人間の力を超えた存在を感じるはずです。人はそのような力を感じた時に、何を考えるものでしょう。 人間の存在の小さきこと、歴史の大きな流れと世界の大きな広がり、ともろもろのことでしょう。 このようなことをよくよく考えますと、私たちは人間が限界を持った人間に過ぎないことを思わされますし、 もっとお互いを大切にし、謙虚に人生を歩んでいかなくてはならないと気づかされるはずなのです。 また、私たちをおつくりになった神を畏れ、神の御心に沿った正しい歩み方をしなくてはならない、という思いに至らせられるはずです。
夏の刈り入れ時に一生懸命働いて、冬支度をした蟻、陽気に遊んでばかりいて蓄えもなく冬を迎えてしまったキリギリス、 よく知られた蟻とキリギリスのお話があります。 蟻には働き者のイメージがありますが、大切なのは、ただ一生懸命働くというのではなく、時をとらえて働くことなのでしょう。 別の箇所では、「夏のうちに集める者は思慮深い子であり、刈り入れ時に眠る者は恥知らずの子である(10:5)」と記されていますが、 ただがむしゃらに頑張るのではなくて、働くべき時に働き、休むべき時に休む、けじめづけが大切なのです。 実際私たちの人生には、それぞれ機会というものがあります。神が備えられた時というものがあります。その機会をとらえて、 なすべきことをきちんとしていくことが大切なのです。 たとえば主が救いに招かれている時があります。「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ(イザヤ55:6)」 とあるように、私たちが神様と和解し、神様と共に歩む人生をスタートさせる機会があります。 また、神様が私たちを勉学や働き、そして奉仕に招かれている機会があります。 それぞれの機会をとらえて努力し、蟻のように「来るべき時」に備える者でありたいものです。
日本にいると、羊は、あまり見かけない動物です。動物園や牧場で見られる程度でしょう。
しかし、聖書の舞台となったイスラエルでは、よく見かける、大変身近な動物でした。
イスラエルの人たちは、羊を家畜とし、いたるところで放牧していたからです。それで羊飼いという仕事もなじみ深いものでした。
さて羊飼いたちの仕事は、とても大変なものだったようです。当時は今日と違って自然放牧をしました。
羊に餌を与えるため、牧草のある場所を探して羊たちを連れて歩きまわったのです。
その途中、羊が迷子になって捜しまわることもありました。
そこで猛獣に襲われ、羊飼いたちは、杖や石投げで戦い、いのちがけで羊を守ることもあったわけです。
また町から遠く離れた場所で羊たちとともに、野宿することもありました。
このようにしていつも羊たちは、羊飼いたちと一緒にいて、守られて、大切にされました。
聖書はこの羊と羊飼いとの関係を、私たちと神との関係にたとえています。
神は、私たちといつも一緒にいてくださり、私たちを守り、支え、導いてくださるお方なのです。(『成長グローアップ98号』初出)
up
| 2002年05月 |
古川奈都子さんが、『心を病むってどういうこと?(ぶどう社)』という本を書いています。
心を病む人には、どんな苦しみがあるのか、自分の体験をまとめた本です。
高校2年生のころ、奈都子さんは精神分裂病と診断され、半年間入院させられています。
入院前に家で暴れ出した奈都子さんには、忘れられない思い出がありました。
暴れて手当たり次第に投げたものが、母親の顔に当たり歯が割れてしまうのですが、その時、母親は怒るのではなくて、
「奈都子、苦しいかあ」と手をとって握ってくれたというのです。そのことばを耳にし、奈都子さんは「助かった」「母に救われた」と思った、と言います。
歯が割れた自分の痛みよりも、心が割れた娘の痛みに寄り添ってくれる母親の存在、本当に救われた思いであったことでしょう。
どんな人も、自分の心に寄り添い、心にひだがあるとしたら、そのひだの細かい部分まで受けとめてくれる、そんな人を求めるのではないでしょうか。
しかし、そのような出会いは、なかなか得がたいもの、たとえ家族であっても、というのが現実かもしれません。
また、聖書は神さまが、あなたの心に深く寄り添ってくれると教えているのですが、神様じゃだめだと思う人は多いはずです。
神様じゃわからない、そんなのはまやかしだと思われるものではないでしょうか。
しかし、目に見えぬ神は確かに生きておられ、確かにあなたに寄り添っています。
あなたの手を取り握ってくれる神がおられる、それは聖書を読んで、神の語りかけのことばに触れてこそ、わかっていくものなのでしょう。
up
| 2002年06月 |
イエスはろばの子の背に乗って、エルサレムに入場されました。イスラエルの国では、「ろば」は、平和の象徴です。 イエスは、その「ろば」を乗り物として用いられたのです。そこにはイエスの深い意図があった、と思われます。 つまり、イエスはこの時、全人類の身代わりとしてご自身を十字架にささげ、全人類を神との和解と平和に導こうとされていたのですから、 その意志を表すにふさわしいパフォーマンスを考えておられたことでしょう。つまり、そのような大目的にふさわしいエルサレム入場の乗り物は、 「支配」の象徴である白馬ではなく、「平和」の象徴であるろばの子であったというわけです。 さてイエスは、ろばを飼い主から借りる際に、弟子たちに「(ほんとうの)主人がお入用なのです」と言うようにおっしゃいました。 ろばには飼い主がいたはずです。しかし本当の飼い主は神である、というわけです。人間は、あらゆるものを所有しているようでありながら、 実際のところ、すべては所有を任されている者に過ぎません。真の所有者は神であるということです。 となれば、それにふさわしく、私たちは任された所有物を正しく管理し、正しく用いていくべきではないでしょうか。 ここに私たちが環境問題を考え、その保全や正しい開発を考えていく思想的な根拠もあるのです。
初代教会の使徒パウロのことばです。パウロは、ユダヤの宗教家に憎まれ、陰謀によって訴えられ、裁判にかけられました。 パウロはローマ市民でしたから、上訴し、ローマ皇帝の裁判を受けることになりました。 そこで、囚人パウロは、カイザリヤという場所からローマに向けて、船で護送されることになります。 ところがその船旅は、秋も終わり、航海の大変危険な時期になされたのです。 案の定パウロの乗った船は、大変な暴風に襲われ、難船の危機にさらされます。 何日も太陽が昇らず、暗い中、暴風雨にさらされ、船に乗った人々は、助かる望みを失っていきます。 やがて皆が死を覚悟したその時、使徒パウロは、「皆さん元気を出しなさい。私たちは助かりますと神様が語りました。 すべて私に告げられたとおりになると、私は神によって信じています。」と叫んだのです。 この姿に、天地創造の神に対する信仰を持つ者の強さを覚えます。 天地創造の神を信じる者は、このような事態にあっても決して失望することはありません。 皆が絶望し、落胆している時であっても、希望に満ちて励ましすら与えることができます。 なぜなら、この世界が神のお心一つで、どうにでもされることをよく心得ているからです。 単に空元気を出しているわけではありません。生きて働かれる神、全世界に秩序を与え、維持しておられる神を信頼するがゆえに、出てくる元気です。 私たちの人生は、本当にさまざまな試練で満ちていることでしょう。それこそ、もう何も必要な助けが与えられない。 もうダメだ。もう終わりだ、と最後の望みも断たれてしまう。追いつめられるようなことがあるはずです。 しかし、世界は主のもの。時も主のものです。天地創造の神に信頼することで、いかなる暗闇においても、望みを捨てず、 その暗闇の向こうの光の中へと信仰を持って歩みたいものです。
「救い」ということばに、どのようなイメージを持つでしょうか。病苦から解放されること、家庭不和から救い出されること、 貧しさから抜け出ること、あるいは乱れた心が落ちつけられること、そんなイメージを持つことでしょうか。 確かにそれらは、私たちにとっては大切な救いですが、聖書が語る救い、イエス・キリストが与えられる救いは、それだけのことではありません。 第一に、聖書が語る救いは、神の怒りからの救いです。私たちは、神の目には罪人です。終わりのとき(死後)私たちは皆神の御前に立ちます。 そこで私たち皆がその罪のゆえに裁かれ罰を受けるはずでした。というのは、イエス・キリストが私たちの身代わりとなって、 神の怒りを受けてくださったので、私たちは、その神の怒りから救われているからです。聖書は私たちが罪赦されていることを告げます。 そこで第二に、救いは、神との和解を意味します。私たちは、罪赦された者ですから、恐れることなく、神の祝福の御座の前に進み行くことができます。 そして神の恵みをいただき、神と共に歩むことが許されるのです。 第三に、神と共に歩むのですから、神の永遠の命にも与ります。永遠の命を持った者として造られた人間は、罪によって失われていた永遠の命を回復するのです。 日本人には、輪廻転生の考え方があり、人間の魂は次から次ぎへと知らぬ何物かに永遠に受け継がれていく、と考えるところがあります。 しかし聖書は、同じ永遠不滅にしても、人間の魂はその人固有のもの、と教えます。私たちはその肉体が滅びても、永遠に私たちであり続けるのです。 ですから死後、人が永遠の神さまのもとに引き寄せられることは、何よりもの幸い、逆に永遠に神さまから失われることは何よりもの不幸、になるのです。 そして最後に、救いは、永遠の神さま、天地万物をお造りになり、支配しておられる神さまと共に、今の人生を歩むということですから、 今の人生においても計り知れぬ希望を抱くことができます。私たちの人生には様々な困難があるものですが、 その神様が私たちと共にいて、私たちを心配し、働いてくださることを覚えることができるからです。
いわゆるメシヤ預言といわれるものの一つで、イエスの十字架の苦しみを預言しています。 新約聖書のマタイ27:40-44を読みますと、この出来事がどのように起こったのかがわかります。こうです。
イエスの十字架を見上げ、道行く人々は、頭をふりながら、イエスをののしって言いました。 「神殿を打ち壊して三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみよ。十字架から降りて来い。 〜彼は他人は救ったが、自分は救えない。イスラエルの王様なら、今十字架から降りてもらおうか。 そうしたら、われわれは信じるから。彼は神により頼んでいる。 もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい」『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」
私たちは、人からあざけられ、ののしられ、ばかにされると、決して黙っていないことでしょう。
そのことが気になってどうしようもなく、ののしりたくなり、言い返したくなる、心はのろいと怒りでいっぱいになる、そういうものではないでしょうか。
しかしイエスは、いっさいを正しくさばかれる神にお任せになり、ただ十字架の上で私たちの罪をその身に負う使命に徹したのです。
様々な抑圧の中でただ人類を贖う十字架の死を受け入れられたイエスを思う時に、枝葉末節に傾きやすい私たちの心を思わされます。
と同時に、私たちには、人間としてさらに大きなあり方がある、と教えられます。
up
| 2002年07月 |
毎日の大半を私たちは職場で過ごしています。そんな職場で、なかなか人とうまくできない、それが自分の性格の問題ではないかと、 にっちもさっちもいけない思いでいる、それほどつらいこともない、と思わされます。 劣等感ばかりを感じ、人と少しも話せない。話題が貧困で、すぐことばに詰まってしまう。仲良く話せる友達がいても、 その人が他の人と楽しそうに話していると、なんとなく仲間外れにされたような気がしてしまう。後ろ向きじゃだめじゃないか、 あまり深く考え過ぎないようにしよう、もっとリラックスしなくちゃ、もっと皆に飛び込まなくちゃ、と思いつつ、 人の目を気にして、口もろくに利けず、歩き方すらぎこちなくなる。こんな毎日があったら本当につらいことでしょう。 しかし、そんなあなたのことを本当に心配してくださっている方がいます。目には見えませんが、いつもあなたに必要な新しい命を与えようと、 傍らを共に歩んでくださっている方がおります。聖書の神様は、私たちとともに歩んでくださる方です。 そして私たちに必要な力を注いでくださる方です。この神を呼び求め、神の家族に加わって、神と共に歩むならば、あなたもまた変えられて 「主よ。御力のゆえに、あなたがあがめられますように」と喜びの詩篇に共鳴することでしょう。
ヨハネは、ガイオという名の人物に、手紙を書き送り、彼の健康のために祈ります。身体的に健やかであるようにと祈るのです。 私も最近はこういう祈りを大切にしています。やはり、信徒一人一人のために祈る時も、まずは身体的な健康が支えられること、 これがその人を日々助けることだと思うからです。体が不健康であっては、仕事も思うようにならないことでしょう。 また、体が疲れていては、父親であれば父親としての、母親であれば母親としての、いわゆる家族の責任を果たすことも難しいものです。 健康第一と言われるのも理由なきことではありません。そういう意味で、私たちは互いに健康のために祈り合いたいものです。 と同時に、ヨハネは、「たましいに幸いを得ているように」と、まず霊的な健康への気遣いを見せます。 心の健康は、体の健康にも影響すると言われますが、体の健康を気遣うと同時に、心の健康にも注意しなくてはなりません。 私たちの心がしみやしわや傷のないものである、いつも穏やかさと静かな喜びに満ちている、 そのためには、やはりイエスの十字架の恵みに憩うことが大切なのだと言えそうです。
子どもたちが長い夏休みに入りました。しかし、ここ世田谷の夏休みは、親にとっては、非常に助かる制度があります。
毎日、朝9時には、学校に出し、自学自習させ、プールで水泳の練習をさせてもらう。
夏休みになったからといってだらだら過ごさせなくてもよい、場所があるわけです。
弁当を持っていかせれば、午後も、学校で友達と遊んで過ごすことができます。
ただ、夏休みの初めに、一学期の勉強の進み具合をみましたら、なんとも、通信簿にあるとおり、できていないことがたくさんあることに気づかされました。
下の子は、ひらがなの練習を始めましたが、鏡文字に、いいかげんな書き順が気になります。
忙しい仕事の合間、この夏は旅行のみならず、勉強にも少しお付き合いしようと思わされました。親に出来ることは、できるだけしてあげようというわけです。
しかしよくよく考えてみると、親に出来ることなど、そんなに多くはありません。
今は親も偉そうに、文字を教えていますが、もうじき、知識の面でも親を追い越してしまうことでしょう。
親がずっと親としてあげられることとは何だろうか、と考えてみました。
そしてやはり信仰を持っている親として、神の祝福を祈ることは、今も、これからも後も、子どもが自立して遠く離れてもずっとしてあげられることではないか、
と思い当たりました。子どもの能力と向かい合いがちな親にとって、神の愛を語り、神の祝福を祈ることは、大切な子育ての在り方ではないかと思わされます。
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| 2002年08月 |
私たちが「神は生きておられる」と実感するのは、おそらく、私たちの力を超えて、神に守られた、 救われた、助けられた、と思わされる何かがあるような時でしょう。 この世の中、自分の力で何でもやっていける、と思うときもありますが、いつでもそう思えているとも限りません。 時に、私たちは、自分の弱さを認めなくてはならない状況におかれてしまうことがあるものです。弱いときにこそ、 神的なものに素直になれるところがあります。しかし問題は、そこでどのように神をイメージするかなのです。 聖書は、はっきりと私たちの主である神について語っています。天地万物を創造し、この宇宙を保持される永遠で不変、 偏在の神、また私たちの人生を愛と義しさと聖さをもって導き、祝福されようとする神です。 ただ漠然と神を知るのではなくて、信仰の目ではっきりと神を仰ぎ、信頼することこそ大切なのです。
皆さんは、どんな一生を送りたいと思っておられるでしょうか。泣いて暮す一生、笑って暮らす一生、太く短く、細く長く、色々とあることでしょう。 ところで聖書は「平安で静かな一生」を暮らす、それこそ神様が私たちに期待しておられること、人間にとってもっとも幸せなことだと語っています。 なんとも消極的な一生だと思われるでしょうか、しかし、考えてみてください。人間にとって不和や争いごとがあることほど、不幸なことはないでしょう。 家庭の中に、職場の中に、あるいは教会の中に、不和があり、争いがあり、いさかいがある、そんな状況では誰もが精神的にまいってしまい、 こんな場所からは早く逃げ出したいと思うことでしょう。またそんな場所には戻りたくないとも思うはずです。 神様が人間に期待し、人間にとってもっとも幸せな生き方であるとする「平安で静かな一生」というのは、決して後ろ向きでもぱっとしないことでもないのです。 実に私たちがもっとも求めるべきことなのではないでしょうか。
8月の盆に久しぶりに郷里に帰りました。一年ぶりの帰省、仕事があまりにも忙しく、帰ることもできない、そんな事情からでした。 帰省し、一年ぶりに見る両親の姿、確実に歳を取ったな、そう思わされました。今回はなぜか、ゆっくりと兄弟と話す時間もあり、 近くにいる者のことばに耳を傾けることができました。年寄りの時間間隔というのは、若い者とは違う。この夏乗り越えられるか、 この冬乗り越えられるか、そんな感じのようだ、と言います。老いの歩みを確実に進めている両親の姿を見ながら色々と考えさせられました。 そして、兄弟に、両親をまかせきっていた自分に、反省させられるところがありました。忙しいのは事実としても、 自分のことばかり考えて今日まで来てしまった自分というものを思わされました。私の場合、牧師以外に色々な責任があり、 おそらく、もう郷里には帰られないだろう、と思わされるところがあります。だからといって、兄弟に任せきりというのは、 牧師としても人間としても失格ではないか、これからはちょくちょく顔を出すから、と約束して帰ってきました。 「親の恩に報いる習慣をつけさせなさい」とパウロは勧めます。信仰を持つということは、何も特別なことではないでしょう。 人間が人間として当たり前の生き方をすることである、と改めて思わされます。取り立てて用事がなくとも、帰省して、 老いた両親と一緒にコタツでお茶を飲みながら静かな時間を過ごす、会社で重視される効率主義的な頭脳からすれば、 それはなんとも無駄な時間かもしれません。しかし、聖書によれば、それは無駄どころか、お互いの心を暖め、お互いの心を生かし、 また神に喜ばれる時間なのだと言えます。
「タマちゃん鶴見川に現る?」鶴見川に行ってたのか、新聞の見出しをみながら、先々週の台風以来行方知れずになっていたタマちゃんの消息を知り、
ひとまず、気持ちが落ち着くところがありました。多摩川の二子玉川岸にアゴヒゲアザアラシのタマちゃんが発見され、大騒ぎになったというのに、
地元の住民の私はしばらく、そんなことも知らずにおりました。人づてにその話を聞き、よし見てこようと思った矢先に台風、茶色に濁った濁流を見ながら、
どうなったのかな、泥水の中もしかしてなんてことはないだろうな、とは思いましたが、少々心配しておりました。
そこに、今度は、鶴見川に現れたというニュース。無事だったのだな、とひとまず安心ですが、考えてみれば、いるはずのないところに、
アゴヒゲアザラシが現れるわけです。カリフォルニアの海岸沿いを車で走った時に、遠くにアザラシの群れを眺め、こういう光景は日本じゃ見られない、
と思ったのが見られるという現象。これをどう考えるか。やはり、生育環境の何かがおかしくなってきているということなのかもしれません。
タマちゃんが来たと喜んでばかりもいられない、環境問題というものがあるのではないでしょうか。
聖書は、神が人間をエデンの園に置き、そこを耕せ、守らせたとあります。
つまり、神は人間に開発(耕す)と管理(守らせる)の二つの使命を負わせたということです。
神がお造りになったよいものを損なわずに、開発しまた管理する、二つのバランスを取りながら、
神の祝福の世界を楽しんでいく、これが人間に期待されていることです。
神が与えられた環境を大切にしたい、そう願わされます。
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| 2002年09月 |
県議会から不信任を突きつけられて失職した田中康夫氏が圧勝、再選、何か暗いニュースが多い中、久々に光を感じる報道でした。 「脱ダム」を皮切りに、これから色々と県政改革をやり遂げていこうとする機運、政策決定過程がクリアーにされていきそうな雰囲気、 特権が廃され、それぞれ企業の真価が問われていきそうな動き、こうした新しい流れが少しずつ力と勢いを増し、支流となり、本流となるまでには、 様々な努力と苦難と時間がかかることでしょう。しかし、その最初の流れを生み出した、という意味では大きなことであったように思います。 田中氏にも田中氏を応援する長野県民にも、色々と頑張って欲しいものだ、と思います。 ところで聖書は、「分別と知識のあるひとりの人によって国は長く安定する」と語ります。 平たくいえば、物事のよくわかるしっかりした指導者がいれば、国は安定していくものだ、ということでしょう。 また別の箇所では、「王は正義によって国を建てる。しかし重税を取り立てる者は国を滅ぼす。(29:4)」とも言われています。 つまり、正しいことをする王は国を栄えさせるが、金で動く王は国を滅ぼすということでしょう。 そういう意味では、国のみならず企業や学校運営、ボランティア活動、教会活動に至るまで、 「物事がよくわかって、しっかりとした考え方でもって、正しいことをしていける」リーダーが大切だ、と言えそうです。 ただ頭がよいだけではない、実際的な知恵を持っている、日和見ではなく、一つの信念と価値に基づいて柔軟な考え方ができる、 正しい選択を実行できる、そういう人こそが求められるのだ、と聖書は教えるのです。
先日、仕事仲間と会食し、旅の話で花が咲きました。網走に遊びに行った時のことを話してくれた友達がいました。 網走駅には、駅名を表示する横書きの看板のほかに、墨字で書かれた縦書きの看板が 残されているそうです。それを見ていた友人に、ある人が、それは網走刑務所を出所する人に「立ち直って欲しい」と いう思いを込めて残されているものなのだ、と説明してくれたというのです。 その話を聴きながら、何か心がジーンとするものがありました。何の変哲もない看板に、そういう心遣いをこめてい る人たちがいる、正面きって口にするのではなく、陰ながら温かく声援を送っている人たちがいる、ということに感じ 入ったのかもしれません。 ともあれ、私たちの人生、何がどこでどう狂ったのか、後で気がついて、狂ってしまった、失敗してしまったという ことがあるものでしょう。程度の差はあっても、皆どこかで、そういう思いを抱えているところがあるかもしれません。 そして、いつまでも過去に拘りそこから抜け出せないでいる、ということもあるものです。 しかし、聖書は、上に召してくださる神がいると語っています。いかなるどん底にあろうとも、上に召してくださる、 祝福に召してくださる神がいると、そういう神を信じればこそ、ひたすら後ろのものを忘れて前に向かって、新しい人生 を作り出すということにもなるのでしょう
教会の基本的な集会は、礼拝と祈祷会、この二つです。教会に足を踏み入れたことのない人にとって、それはどんなものかなかなかイメージがわきにくいものではないでしょうか。最近はイスラム教の礼拝の報道を見る機会が多いので、キリスト教会もああいうことをしているのだろうか、と礼拝や祈祷会を一種私たちの現実世界とはかけ離れた神秘的な儀式として受け止めている人は少なくないはずです。 確かに礼拝や祈祷会にはそういう要素もあることでしょう。しかし、プロテスタントのキリスト教会は、聖書信仰がその特色ですから、聖書のことばを「聴く」ということが中心なのです。 それはある意味で、聖書に学ぶ時であると考えてもよいのでしょう。 もちろん学ぶことと勉強することとは違います。東京大学大学院教育学研究科の佐藤学教授は、「『勉強』が何者とも出会わず何者とも対話しないで遂行されるのに対して、『学び』はモノや人や事柄と出会い対話する営みであり、他者の思考や感情と出会い対話する営みであり、自分自身と出会い対話する営みである(『「学び」から闘争する子どもたち』」と述べていますが、まさに、礼拝にしても祈祷会にしても、重要なのは、神との出会い、また同じ信仰者の思考や感情との出会い、そして自分自身との出会いという部分です。それが聖書のことばを中心にしてなされるということです。 儒教文化を基礎としてきた日本は、戦後、そういう意味では、生き方を学びあう場なり、価値基準なりを失っているようにも思われます。それが今日の価値観や倫理観の混乱につながっているとすれば、プロテスタントキリスト教会の礼拝や祈祷会の意味というのは、大変大きな意義があるもの、といえるのではないでしょうか。
最近写メールのコマーシャルがずいぶんと目につきます。音声だけではなく、画像も遠く離れた相手に伝えることができる、なんとも便利な時代になったものだと思います。コマーシャルでは、10機種揃っているなど、色々と宣伝されていますが、そこに、私たちの外見ではなくて心の内面が映し出されるような、特別機種を加えたとしたら、どうなるものでしょう。 四角い画面に、私たちの奇麗に着飾った外見でもなく、また思い切り演技された姿でもなく、ただ単に、心のあるがままの姿が映し出される、そういう機種です。私たちが話している時の感情や心の動き、裏の考えがあるがままに映し出されるのです。もし、そんな機種があったとしたら、私たちは喜んでそれを手に入れようとするでしょうか。おそらく、相手に持たせることがあっても、自分はもとうとはしないのではないでしょうか。 なぜなら、私たちは自分たちの心にあるものが、どんなものであるか、よくわかっている部分があるからです。人には見せられない心の姿があるということを知っているからです。聖書は、そういう心の姿を罪と呼んでいます。そして具体的に、「人の心から出てくるものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです」と語るのです。 私たちにとって、自分の心の罪と向かい合うことは、非常に勇気のいることです。しかし、聖書はそのような自分の罪と向かい合って、心から聖さと、義しさと、優しさを持った人となるために、キリストの十字架の祝福を受けるようにと語っているのです。聖書は、私たちの心を人間的な成熟へと導く、祝福の書なのです。
| 2002年10月 |
「人知の及ばないところにある神の存在は、この世の悲しみ、苦しみ、すべてのことを飲み込んでおられるのだ。私の悲しい人生も、めぐみの悲しい人生も、人間という小さな者には介入できない問題なのだ。聖書はそう語りかけてくるようでした。」25年前、娘さんを北朝鮮に拉致された事件をきっかけに横田早紀江さんはキリスト教信仰を持った、と言います。 金正日書記が拉致の事実を認め謝罪したことに伴う会見で、早紀江さんは「いずれ人はみな死んでいきます。(めぐみは)犠牲になり、使命を果たした、濃厚な足跡を残した、と思うことで頑張ります。でも、まだ生きていることだけを信じ続けて戦っていきます。恵みを愛してくださった皆様に、心から感謝します(朝日新聞2002.9.18)。」と述べました。 記事を読みながら、何か涙がでるような思いがしました。しかし同時に、早紀江さんの深い気持ちが、私にわかるわけでもない、とも思わされました。早紀江さんの負う悲しみに主が介入し、主の完全な解決が与えられることを願わされます。いのちのことば社では、「横田早紀江さんを囲む祈り会」が月に一度開かれているそうですが、全知全能の主を仰ぎ、その祈りに共に心を合わせていきたいものです。
田中耕一さんのノーベル化学賞受賞について、多くの方が何か明るい光を感じたのではないでしょうか。「無名の人、博士号なし」「白川さんも『どんな人』?」そんな新聞の見出しをみながら、ただこのところ明るいニュースがないということで、多くの人の心が躍ったわけではなくいのだろう、何か自分にもチャンスはある、そんな期待を抱かせるような出来事だったことが、明るいニュースとなったのではないか、と思わされます。 これまで日本の社会はあまりにも画一化された成功路線というものがあったように思います。いい結婚、いい就職をするためには、それなりのコースを歩まねばならないかのような。けれども、実際に、そうやって思い通りに物事が運んでいく人というのはほんの一握りの人たちであって、多くの人は、成功路線の中でつまずいたり、あるいは脱落したり、と夢なき人生を歩んでいるのでしょう。 けれども考えてみれば、成功した人であっても、計算ずくめで上り詰めた、というわけではないはずです。謙遜に考えれば、すべては時と機会に出会う、というのが本当でしょう。そしてもっと人間の存在の小ささを自覚する心からすれば、すべては時と機会を与えられる神の業によるものだ、となるのではないでしょうか。
文部科学相の諮問機関・中央教育審議会が、教育基本法の改正に向け、検討を重ねてきた中間報告の素案が、明らかにされたようです。
それは、六つの視点から教育基本法を見直し、宗教教育については、「異文化理解や宗教に関する知識が必要」という意見が述べられた、ということでした。
90年代の半ば、日本人はカルトと宗教の区別もわからない、といったことが色々と議論されたこともありますし、仏壇の上に神棚がセットになっている家庭、さらにはそのような家庭環境で信仰はキリスト教を持っているという状況も珍しいことではありません。
そのように、あらゆる宗教を受け入れながら、ひとつの信仰に立つことができない、いわゆる「宗教心はあるけれども、信仰心はない」、日本人的な状況というのは、やはり宗教それぞれの特色をよく理解できていない、違いがわからない、ということにあるのかもしれません。
パウロは、エペソを訪れたときに、エペソの町の中に『知られない神に』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。それは、宗教心に篤いエペソの人々が、もしかしたら自分たちの知らない宗教もあるかもしれない、そんな思いから作られたものだったようです。パウロは、そんなエペソの人々に対して、大切なのは信心の態度ではない、何を信じるか中身の問題だと語るわけです。宗教の中身を理解する宗教教育というものが、
これからの国際社会に対応していく人材を育てるためにも、求められていくのではないでしょうか。
先週フィリピンに旅をした時のことです。マニラ空港に降りると、どうやら、ガイドの方に打ち合わせしておいた空港ではない事に気づきました。マニラには二つの空港があり、フィリピン航空が利用する新しい空港とその他の航空会社が利用する古い空港があるわけです。幸い、ガイドの方が携帯を持っていましたから、空港で電話をし、別の空港に向かえに来てもらうことになりました。
ところがいくら待ってもなかなか現れません。再び連絡すると、別の空港に向かう途中、ガイドの方が、スリの被害にあったので、空港の警察署にいるというのです。しばらくして、フィリピン人の刑事さんが、ガイドの方と一緒に迎えに来て、警察署へ。その日は夜の10時過ぎまで、容疑者と一緒に警察の取調室に同行というはめになりました。
フィリピン警察での取り調べの様子を見るなど、めったにない貴重な体験のようにも思いましたが、ガイドの方をなんとも気の毒に感じました。側面を縦に切り裂かれたバッグを見ながら、こういうことのない世の中であって欲しいと思わされました。
私たちの心の中には、さまざまな欲望があるもので、それは認めざるをえない事実です。しかし、そういうさまざまな欲望を、主の前に静かに告白することが大切なのでしょう。きよい主の前に自身の心をさらけ出すことで、人間としてどうあるべきか、本当に必要なものが悟られていく気がします。また不正な手段に訴えることをせずとも、本当に必要なものは、主が備えてくださる、という信仰に立つこともできるものでしょう。信仰こそが、私たちを様々な欲望から解放する道なのではないでしょうか。
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