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| これまでのショートメッセージ(2001年度) |
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| 2001年01月 |
元旦、我が家では今年の目標を家族で分かち合いました。目標と同時にプランを考えることが大切ですから、 それはよいプラン、これは悪いプランと語り合いました。 小さな子供たちは、自分たちの目標を現実的に考えることができたようです。 私たちは、自身の人生を有意義に過ごすために、色々と目標を立て、プランを練り、少しでもその実現に近づこうとします。 そこで二つのことに注意したいものです。一つは、その志を守り、祝し、導いてくださる神様のみこころを覚えるということです。 「主が町を守るのでなければ、守るものの見張りは空しい(詩篇127:1b)」とあるように、神のみこころが全てです。 そして、二つ目には、霊的な事柄を第一の目標として考えることです。 死と共に終わってしまうようなことではなく、永遠に、いつまでも残ることのためにこそ熱心になりたいものです。 世の事柄は神様が楽しみのために与えてくださいました。しかし本当に大事にすべきことは、楽しみを与えてくださる神様です。
五輪マラソンで金に輝いた高橋尚子さんが、朝日新聞のインタビューに答えて、自分が心の支えとしてきた言葉を紹介しています(朝日こども2001.1.9)。
「何も咲かない寒い日は下へ下へと根をのばせ、やがて大きな花が咲く」
高校時代の先生が教えてくれた言葉だと言いますが、なかなかいい言葉です。 よい人生を送っている人はよい言葉をその心の内に住まわせています。 しかしそれは一種信仰のようなものですから、やはり、耳障りがよいばかりではなく、信頼に値するものであることが大切でしょう。 そういう意味で、聖書のことばは、決して私たちを失望させることのない信頼に値するものです。 天地をお造りになり、私たちを十字架の愛をもって愛してくださった神が、約束として語ってくださっていることばだからです。 私たちは、忘れてはならない用件をメモし、目に付きやすいところに張り出すものですが、神様もそうなのです。 私たちの訴えはいつも、神の前にあります。ですから、焦ったり、落胆したりせず、大切な日々を、下へ下へと根を張り、備えられようではありませんか。
私たちの人生には、順風漫歩と思える時ばかりか、逆境に苦しむことなど、様々なことがあります。 そして悪い時には、悪さが重なることも多々あるものです。しかし、それをどう受け止めるか、考え方が大切であるように思います。 今回取り上げたのは、ヨナの改悛の祈りのことばです。神の召しに逆らって出ていったヨナが、嵐に襲われ、荒れ狂う海の真中に放り出されます。 しかし、それは神の御手によるものだとヨナは告白するのです。 ダビデもまた、謀反を起こした息子アブシャロムの手から、命辛々逃げ出す途上、 シムイにのろいのことばを浴びせられながら、それは神が語らせたものだと告白しました。 義人のヨブは、全く身に覚えがないと思われる苦しみの中で、人知には計り知れぬ神のみこころがあり、みこころがなされていることを諭されました。 「物事は考え次第」だとよく言われることですが、大切なのは、常に、神の隠された深いみこころの視野から受け止め考えていくことでしょう。 そして十字架の愛に裏打ちされた神のみこころに信頼することです。
新共同訳聖書では、「恵み」を「忠節」と訳しています。 偶像崇拝者が捨てるのは「自分への恵み」なのか、「(自分の)忠節」なのか、聖書学者たちの見解も分かれています。 いずれにも訳せるからです。そこで私は、文脈から「恵み」として理解することにしました。 つまり、私たちにはヨナのように「神に逆らった」と思わされるようなことがあるでしょう。 しかしそこで、本当に神の救いを理解している者は、失敗をごまかしません。 神が恵み深いお方であることを知っているので、神の赦しの元へと急ぎます。 しかし、偶像崇拝者は、神の十字架にある赦しの価値も意味もわからず、これを捨て去ってしまうのです。 ここでヨナは、赦しの神、恵みの神を仰いでいます。 失敗しやすく、迷いやすい私たちに、絶えず新しい機会を与えようと向かい合っていてくださるお方に感謝の声をあげています。 たとえ私たちに度重なる失敗と神への裏切りがあろうとも、神が恵み深く私たちと共にあることを覚えましょう。そしてその愛に応えていきましょう。
解剖学者の養老猛さんは、「人間は記憶に生きている」と言いました。 喜ばしい記憶、気の滅入る記憶、様々でしょう。ただ多くの人は、過去の失敗とレッテルに拘り、過去の記憶を引きずって生きているように思われます。 そこで神様は、その過去と現実の不幸な足かせにくさびを打ち込まれ、「あなたは自由だ、見よ、あなたを束縛するものは遠く離れていく」とおっしゃるのです。 ピアニストの藤子ヘミングが、30代に舞台再起をかけてステージに上がったことがあります。 不幸にも難聴の病に犯され、当日の結果は散々でした。再び藤子が舞台に上がったのは、60代になってからです。 藤子はインタビューに答えて言いました。「人間、機械じゃないんだから失敗したっていいじゃない」 わかっていれば失敗しなかったと思うものです。しかし、失敗など当たり前のこと。「ダメな人間」もいません。 あるのは、自分を「ダメな人間」と見なし続ける記憶です。神の語りかけにどこまでも主体的に生きてみませんか。その信仰があなたの人生を変えることでしょう。
| 2001年02月 |
古い聖書をめくっておりましたら、このことばが目に留まりました。青線が引いてあり、「結婚決断のことば」とあります。 そういえば、妻との結婚に迷っていた時期がありました。 重要な決断をなすときには、決まってそうしてしまうのですが、私はこの時も、山に籠り断食祈祷をしたのです。 三日間聖書を読み続け、出会ったのがこのことばでした。 妻には失礼な話ですが、あの当時は、妻が「岩」、「堅い石」に思えたようです。 けれども、このみことばを思いめぐらしている内に、結婚の祝福は、神のお働きに支えられ、導かれるものだと確信したのでしょう。 ただ今改めて考えてみますと、私こそが「岩」であり、「堅い石」であったように思います。 ともあれ時過ぎて、改めてこの個所を読みますと、神の御業の見方というものを考えさせられます。 「神は変えられる」と約束してくださいますが、それは必ずしもインスタントな結果ではないのでしょう。 神のお働きを、もっと長い目で、もっと広い視野で見ていくことにしたいものです。
今週のフォローアップクラスで、取り上げたみことばです。ある姉妹が、このみことばを読み「イエス様は大変やさしいなと思う」と言いました。 そこで、私はあまり今まで考えてもいなかったことに気づかされたのです。その姉妹は言います。 「十字架を負って歩くなんてみっともないじゃない。それなのについて来なさいって言うんでしょ。 みじめなかっこうした人たちが後からぞろぞろついてくるのに、イエス様は格好悪いと思わないわけでしょ。やさしいよね。」
そうか!納得しました。
イエス様の私たちに対する心遣いを考えさせられた指摘でした。
そして死と復活を予告する文脈の中でその指摘を改めて考えてみると、イエス様ご自身と私たちの深いつながりというものを思わされました。
イエス様と「私」は言ってみれば運命共同体のようなものです。
私たちの十字架を恥としないイエス様があり、同時に、イエス様の十字架を恥としない私たちもあるということです。
神学塾で取り上げたソニー式のエニアグラム、なかなか面白いものでした。 教会員それぞれの性格特性がよくわかる内容であったように思います。 ただ、こういう質問式の心理テストは願望や年齢的な特徴を反映していることがあります。 絶対的なものではありません。あくまで参考のことですし、メンバーが変化したときには、すぐに気づいて評価する心を持っていたものです。 ところで、この学びを通して、私は改めて教会員それぞれの違いを考えさせられました。 異質な者たちがキリストの名の下に一つとされていることをです。そして、第一次南極越冬体長の西堀栄三郎さんの名言を思い出しました。 「同じ性格のものが三人団結しても、それは「和」にすぎないが、それぞれに違う性格の者が団結した時には、「噴」の形で大きな力となる」 それぞれにユニークさがあり、賜物があります。それらを自ら一層延ばし、主の働きのために団結することにしましょう。 教会が活性化され、自分の居場所がはっきりとする秘訣がそこにあると言えます。
教師会で、生徒の評価について学びました時に、目安として取り上げたみことです。 果たして罪人に、他人の霊的状態を評価しうるのかと考える人もいるでしょうが、やはり教師の立場にある者が、何の尺度も持たずに指導するわけにはいきません。 むしろ、聖書的に信仰生活を建て上げる目的のために、聖書的な視点から生徒を見ていくだけのことです。 そこで、聖書は、四つの領域について、罪のリストをあげています。性、宗教、人間関係、飲酒の四つです。 こうした四つの領域のでこぼこ加減を見ていくのが評価です。 そしてことばで、「あなたはこういう弱さがあるから直しなさい」というのではなく、 聖霊の業がなされ、罪の生活から救われるようにと祈りに専心することが指導に他なりません。 クリスチャンは救われた罪人であり、聖霊の業によって新しくされ続ける者なのです。
| 2001年03月 |
父親が家庭を離れて旅すると、やはり家族のことを思います。牧師が教会を離れて旅すると、やはり教会員のことを思います。 遠く離れたピリピ教会の一人一人を思うパウロの気持ちが、私にもわかるような気がしてまいりました。 しかし、パウロの心遣いは、またいずれピリピに帰る、その間皆どうしているかというものではありません。 もうピリピの教会には、帰ることもないかもしれない、そこに残された主にある兄弟姉妹。 そういう思いの中で、どのように信仰的な歩みをしているだろう、どのような教会生活をしているだろうかという心遣いがあったと思います。 そこでパウロは、手紙に、「私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら」と書き加えます。 それは、「私がいたときと同じように、今もなお」ということにほかなりません。信仰は、個人的なものです。 それぞれが、神の前に歩んでいることを覚えて、みことばによって教えられたとおりに歩み進めることが大切です。
昨年、文部科学省の全国相談研究集会が開かれたが、そこで、国立教育研究所生徒指導研究室長の滝充さんが、 日本でのカウンセリングブームを鑑みて次のようにコメントしていた。
「最近カウンセラーをしたいという人が増えてきた。しかし、自分の指導や力でこの子を変えたいという発想はおかしい。 子どもが育つというのは、一人の力の業ではない。 日本の教育文化には、二十四の瞳から金八先生まで、先生が一生懸命取り組んだことで変わるという発想がある。 しかし、その先生の働きがうまくいっているのは、ほかに誰かが関わっていて、安全弁になっているからだ。自己満足的指導ではいけない」
私は、滝さんの率直なコメントに、共感しながら、牧会も同じであると思わされた。 確かに、一人の人間が霊的に成長していくのは、一人の人間の力の業によるものではない。 それは多くの人が関わる中でなされる、というよりも、神様が様々な人々との巡り合わせを与え、何かを学ばせ、 何かを悟らせるのであり、ご自身の目的に沿って、神様ご自身が人を育てられるのである。
手元にある27種の英語訳聖書を読み比べてみました。すると、おもしろいことに気づきました。 日本語で「神に従って」と訳された部分が、訳されているものと、訳されていないものがあるのです。 なぜだろう。ギリシャ語のテキストを開いてみました。なるほど、写本にバリエーションがあります。 問題のことばが欠落している写本があるのです。翻訳には訳者の考え方が反映されているというわけです。 私は「神に従って」を挿入した写本が原文に最も近い形であると判断しました。実際、このことばは重要なものに感じられます。 それは単に「神のように」とも訳せます。つまり、神に倣って、進んで、まごころを持って、牧しなさいという勧めです。 後の7節とのつながりで言えば、神に倣うことが群の模範となるということです。肩の力が抜けます。 主の奉仕者は、自分で模範になろうとせず、神の足跡に従っていけばよいのです。
| 2001年04月 |
父「あなたがたは」行ってとあります。しかし、このみことばはともすると、 「あなたは行って」と個人に適応されて、語られることが多かったのではないでしょうか。 しかし、このみことばの主語は、どう見ても「あなたがたは」と複数形です。つまりそこでイメージされるのは、チームによるみことばの宣教です。 実のところ、私たちには、それぞれ得手不得手があるものです。誰でも、同じように個人伝道や教えることができるというわけではありません。 どちらかと言えば直接伝道するよりも、人を連れてくるのが得意、教えるよりも、その場の雰囲気を盛り上げ、まとめるのが得意という人もいるはずです。 宣教の使命を果たすためには、それぞれの強みが上手に組み合わされることが大切なのでしょう。 それぞれの強みが生かされ、弱みが補なわれる、チームによる宣教によってこそ、福音は拡大されると言えるでしょう。
このように語るペテロの心には、迫害下にあったクリスチャンへの心遣いがありました。 そこで、ペテロは気休めのことばを語りかけるわけではありません。確信に満ちて、今の苦しみが、「しばらくの苦しみ」であると語るのです。 「しばらく」と訳されたギリシャ語は、オリゴン。それは「ほんのちょっと」という感覚で理解すべきことばです。 しかし、実際問題として、幾多の圧力にさらされると、これが「ほんのちょっと」なのだという思いにはなれないものです。 ただ「ほんのちょっと」という信仰に立てないからこそ、試練に屈してしまうのかもしれません。 まさに「からし種の信仰」が求められているということでしょうか。 悪魔のささやきを跳ね返すには、それがほんのちょっとなのだという約束を信じることです。 勝利によって、私たちは癒され、大理石のように堅固な者とされ、力で満たされ、揺るがない者とされるのです。
「口ずさむ」と訳されたヘブル語のことばは、ハーガーです。文語訳聖書では「おもふ」、 口語訳聖書では「思う」、関根訳聖書では「想う」と訳されています。ハーガーが心の中のこととして、黙想をイメージする意味で訳されています。 しかし、ハーガーは、人間であれば「語る」、鳥であれば「さえずる」を意味することばで、「口ずさむ」が忠実な訳と言えるでしょう。 つまり、ただ単に注意を向ける、心に留める、瞑想すること以上の、積極的な意味が込められているということです。 それは、主のみおしえを文字通り口ずさんで記憶すること、辞書を引き、文法書を紐解いて学ぶこと、 さらには学んだことを、実生活の知恵として「語り」教えることなどを含めていると考えられます。 聖書は開かれた書物であり、人に命を与える書物です。それはまさに「語る」ために与えられたものです。
イギリスの説教家スポルジョンが、「見えない目と聞こえない耳を持て」と、若い牧師たちに勧めたのはまさに知恵あることだったと私は思います。 そつなく要領のよい人間ばかりが得をする、そういうお話は世の中ばかりではありません。 自分にとってプラスかマイナスかで、人を無視したり、重宝にしたり、け落としたりするお話は、世の中に限ったことではありません。 クリスチャンの世界でも、そんな混迷の状況があったりするものです。 私はそこに、イエスによって「救われた」とはいえ、基本的に罪の性質が残っており、罪の縄目に深く絡み取られているが故に、 神の継続的な救いを一層必要とする人間の現実を思います。 そして、このような状況の中で、ある若者は傷つき、ある若者は要領の良さを覚えていく、そんな姿を残念に思うことがあります。 価値有るものが、いつまでも埋もれたままでいることはありません。一方、メッキは必ず剥がされる時が来るものです。 若い時にこそ、悩みの中で、正しい者の道を知っておられる主に、一切を期待する歩みを貫きたいものです。
| 2001年05月 |
人のねたみや人の憎しみを受けることは、非常に残念なことであり、悲しいことです。 まして人のねたみや憎しみによって、自身が取り組んでいる働きを妨げられるとなると、それほど口惜しいこともないでしょう。 崩された関係が修復されることも、失われた過去が取り戻されることも容易なことではないからです。 けれども、たとえ人の悪意によって、そのような事態に陥ったとしても、それは神の目にかなったことだと思えるようになったら、 その人の信仰は大したものだと言えます。 というのは、愛の神は、私たちに最善のものしか備えられないお方であるという神への信頼が、そこに現れているからです。 私たちは、道が閉ざされたと思いがちですが、神が道を閉ざすなら、別の道を開かれるお方であることを覚えなくてはなりません。 神の深きみこころの内に、すべてはなされているのです。 人間的なねたみや憎しみが結果的にはその人の祝福となっていくように、神はその愛する者に最善をなしてくださるお方なのです。 ということはどんなことでも、投げ出してはならないということです。
しばしばクリスチャンは、自分たちの宗教を絶対化し、他の宗教には否定的であると言われることがあります。 なるほど、今日取り上げた聖書箇所も、そのようなクリスチャンの姿勢を物語っているようです。けれども、私はこう考えています。
あらゆる宗教を相対化し、宗教現象の特色を調べてみれば、どの宗教も、似たり寄ったりの部分があるものです。 しかし全く同じというわけでもなく、やはりそれぞれの宗教に独自の部分があるわけです。 キリスト教の場合は、人間の救いについて、あくまでも十字架に拘る部分がそうです。 キリスト教から十字架を取り去ったら、もはやキリスト教ではありません。 そして十字架の要点は、人間の救いがただキリストの苦しみによってもたらされたということです。 人間が神と和解し、神の祝福を得るために必要なことは、全てキリストが成してくださった、救いは恵みとして求める者に与えられのです。 他宗教にはない特色があり、それを明らかに示すことは、絶対化することとは違うはずです。
2000年前のキリストの死が、自分とどんな関係にあるのだろうか。キリスト教を学び始めると、こういう疑問に出会います。
日本人は宗教心豊かな国民です。牧師として見ていましても、神の存在を信じ、受け入れることについてはあまり抵抗感がないようです。 しかしそこで、神と自分の間にキリストが入り込んでくると、とたんにわからなくなる人がいるものです。 聖書は、キリストが罪の赦しを与える犠牲であったと説明します。 それは当時の宗教文化、つまり、罪の赦しと浄めを得、神と和解するために、動物の生け贄を用いたイスラエルの慣習が背景となっています。 キリストは、この先どんな生け贄をも不要とする、最終的で、完全な全人類のための生け贄であったというわけです。 人間である以上、罪意識に悩む人は少なくありません。そこでその罪意識をどのように処理するか。 修行か、禊ぎか、難行苦行か、償いか。聖書はキリストの死に頼む(信仰)方法を語っているのです。 2000年前のキリストの死は、罪の自覚に関わるものです。自身の罪を知ればこそ、受け入れられる死とも言えるでしょう。
キリスト教のバプテスマ(洗礼)には、種々の意味がありますが、最も根本的な意味は、キリストと一つに結び合わされることです。 もちろん、バプテスマという水に浸る外面的な儀式それ自体に神秘的な力があり、人をキリストに結びつけるのではありません。 キリストと生涯を歩もうと決心し、信仰を持ってバプテスマを受けることで、 その信仰の結果として起こった目に見えないキリストとの結びつきが、可視的に表現され、保証されるということです。 またその結びつきは、キリストの死と復活の命との結びつきであることが重要です。 キリストが十字架上で、神の怒りを一身に受けた死と結び合わされるというのは、罪深い歩みを続けてきた自分に対する「葬式」に他なりません。 また墓から甦ったキリストの復活に結ばれるというのは、今の私が、古い生と決別し、新しい生に与っていることに他なりません。 キリスト者が自らの生の成長と完成を求める根拠がここにあるのです。
初めて分厚い聖書を手にしますと、どこからどう読んだらよいものかと迷ってしまうものです。 そこで有る程度、聖書の大まかな仕組みを知っておくことが役立ちます。聖書は旧約聖書と新約聖書と、大きく二つに分かれています。 旧約聖書には、人類の創造と堕落、そして堕落した人類に救いをもたらす救い主の訪れが語られています。 新約聖書は、その救い主、イエス・キリストが現れたと語ります。
そこで、新約聖書を読む時には、人類が自分をも含めて、堕落したものであるという前提で読んでいかなくてはなりません。 そのようにしてこそ、イエスの十字架の生涯が自分にどう関係するのかもわかってまいります。 また新約聖書は、最初に四福音書というものがあります。日本人に一番親しみやすいのはヨハネの福音書だと言われています。 そこでヨハネの福音書を繰り返し読みながら、イエスが罪人である私に何を語っているのか、に注意しつつ読むとよいでしょう。 そのように読んでいきますと、イエスの御名によって命を得るという、ヨハネの福音書の目的もよく理解されるはずです。
| 2001年06月 |
ダビデがこの歌をよんだのは、息子アブシャロムがクーデターを起こした時でした。宮殿から命からがら逃げ出し、洞穴に隠れ潜んでいた時でした。 このときの心境を考えさせられます。風の音、獣の足音に、神経は過敏になり、少しも気の休まらない時が流れていたことでしょう。 身を横たえて、眠る。しかし眠れない、様々な不安や恐怖が押し寄せてくる、そんな状況です。 そこでダビデは神を思い、詩を口ずさむのです。 「私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます」ヘブル語の聖書を読みますと、日本語には訳しきれないニュアンスがあるようです。 つまり自分自身で眠り、目をさますのではなく、神が私を眠りに導き、目を覚ませてくださるそんなニュアンスがあります。 押さえきれない孤独感の中でふと気が付くと、自分は一人ではなく、天地創造の神と共にある。休むべき時に眠らしてくださり、 逃げるべき時に目をさまさせてくださる神が。窮地に追いつめられながらも、ダビデは神への信頼によって心安らかにされていきます。 神を信じるというのは、あらゆる営みの中で、心騒がせず平安の内に生きることに他ならないと言えましょう。
クリスチャンになることは、新しい人生を歩むことだとよく言われます。しかし、新しくされたはずの人生に全く失敗がないわけではありません。 詩篇の記者は、苦しみの時に、神の前でわきまえもなく、獣のようであったと認めています。 それは狂気に満ちた時であったのでしょう。神の道を踏み外し、神から遠く離れたと思わされる時でした。 しかしその時自分は、神と共にあったと思い起こします。 また神に背を向けられたと思わされた時でしたが、神は、こちらを向き、しっかりと自分の右手を取られたと回想します。 神が人の罪を赦されたというのは、その人の過去・現在・未来に渡るすべての罪を赦されたということです。 それはただ単に私たちのあの罪、この罪を赦されたというのではなくて、むしろ、私たちの過ち多き一生を、 そっくりそのまま、何から何まで受け入れてくださったということに他ならないのです。 私たちに対する神の愛は永久に変わることがないのです。
教会には祈りがあります。多くの者が祈りによって支えられることを求め、癒されることを求めます。 ですから、教会ではしばしば「祈りは必ず聞かれる」というような言い方もなされます。 しかし、私は信仰者として、このことばに「然り」と思いつつ、どこか聖書的な精神とは異なるものをも感じます。 それは、「聞かれる」という言い方に、どこか「祈ったとおりのことが実現する」というニュアンスを感じるからです。 祈りは個人的、御利益的な期待を満たす道具とされているのです。これでは、祈りをささげる神と私たちの関係が逆転しています。 神は私たちの願いを聞いてくれる、「便利屋」であり「しもべ」になっているのです。 聖書は、「私たちが願う前に、神が私たちの必要を知っている」と語ります。神は、私たちの心の内の必要をよくご存じである。 ましてや私たちが口にし、ささげる祈りは、ことごとく聞かれていると理解すべきでしょう。 ですから、祈りは、神に願いを聞いていただくためになすものではなく、むしろ、願いに対する神のみこころを知っていくためにこそ、なされるものなのです。
| 2001年07月 |
人間は、目に見える肉体と、目に見えない霊とから成る。 人間の死は、この肉体と霊との分離である、これが聖書の視点です。 聖書が言うまでもなく、人は皆、この死を経験します。 しかし、聖書が私たちに伝える何よりも重要なメッセージは、「霊はこれをくださった神に帰る」ということです。
キリスト教については一種の誤解があります。 キリストを救い主として受け入れ、信じた人は永遠のいのちを持ち、受け入れない人は、永遠のいのちを持つことができないと言われるようにです。 人は霊を持つのですから、皆永遠に生きるのです。ただ、「神の元へと帰っていく霊」と、永遠に神から引き離されたままの霊があるということなのでしょう。 その異なった結果は、一重に生前神と和解しているかどうかによるものです。 聖書は全ての人を、罪人であるとし、神の赦しを得、神と和解することを勧めます。 またその方法をはっきりと示します。お布施や難行苦行によるのではなく、イエスの十字架の死を、和解の生け贄であると信じる方法です。 キリストの十字架の死は、人が神の元へ帰ることを確信させるものなのです。
ルカの福音書の特色は、イエスの祈りの姿が多く描かれていることです。そしてここにも、イエスの祈りの姿を発見します。 これらルカが描くイエスの祈りの姿を思い巡らしますと、本当に、自分の祈りの貧しさを思わされます。 もちろん、この私に世を明かす経験が、これまでの人生に全くなかったというわけではありません。 それこそ若い時分には、色々と世を明かすことがありました。仕事に追われ世を明かす、はしご酒で世を明かす。 なんとも、しゃれにならない夜明かしです。 このときイエスは、12弟子を選ぶために、神のみこころを確かめようとして祈られたのだと言われています。 イエスの宣教の働きを一緒に分かち合う者をお選びになる、それは、確かに重要な決断であり、多くの祈りの時間を必要としたことでしょう。 しかし、イエスの祈りは、そんな人選ばかりか、やはりその先のこと、12弟子と共になそうと志しているビジョンを探る祈りがあったのではないでしょうか。 祈りなきところに、神が明かす人類への壮大なビジョンもないことでしょう。
「礼拝がつまらない」、そのように思えたときはありませんか。子どものころ、私にはそんな時がありました。 説教が長く感じられましたし、祝祷の時になるのが待ち遠しく思われたものです。 今、あの時のことを色々と思い起こしますと、なぜそうだったのか、わかるような気がします。 私の家では、日曜日に教会へ通うのは当たり前のようなところがありました。 母親は熱心に教会に通い、礼拝を喜びとし、子供も同じであると考えていました。 つまらないと思いながらも、礼拝を休めるような雰囲気ではなかったのです。礼拝は、母親とのお付き合いであり、本当に形式的な習慣に過ぎないものでした。 つまり、私はそこで神さまと向かい合っていなかったのです。 会堂に入り、自分の席についたら、そこでまず神様と向かい合うことができていなくてはなりません。 神さまは、私たちの肉眼の目には見えませんが、確かに共におられ、私たちの心の祈りや心のつぶやき、そしてうめきをご覧なっておられます。 また私たちの霊の耳に、ご自身の心のうちをお語りになっているのです。 礼拝において何よりも大切なのは、霊の目を開いていただき、しっかりと神さまに向かうことでしょう。 そうすれば、まごころから礼拝することも自然になされるのです。
先にイエスは、「もしあなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい」とお語りになりました。 文字通り、外科的な処置を施せと言っているのではありません。 むしろつまずきがもたらす結果に、大いに注意し、痛みを持ってよき将来を選択せよと言っているのです。 たとえば癌が放置されれば、それは必ずや肉体を蝕み、死をもたらします。 同様に心の罪は、悪化し、やがて地獄の苦しみもたらすことでしょう。 ですから心の中に、罪深い思いを見つけたらならば、即座に、切り捨てることが後々のためなのです。 それがどんな痛みを感じるものであろうと、思い切ってそうせよ、と言うわけです。 イエスは、塩けのたとえでこれを繰り返し強調します。 当時の塩は不純物が混じっていましたので、容易に塩けを失いました。塩けを回復させるために火を用いました。 クリスチャンは、終身聖人なのではありません。この世の世俗化の影響力は非常に強いもので、容易にその心は堕落しえます。 あるいは、聖人の仮面をつけた偽善者に成り下がってしまうことでしょう。神の聖めの火は、クリスチャンに欠かせないものです。 痛みあってこそ、この世において塩味のきいたクリスチャンとしてあり続けることができるのです。
| 2001年08月 |
イエスのもとに、裕福な青年が走りよって尋ねました。 どうしたら神の国に入ることができるのかというわけです。 イエスは、十戒(旧約聖書にある戒めで、神と人とに対してどうあるべきかを教え、 「神と人を愛する」ということばに要約される)を守るようにと勧められました。 すると青年は、小さなころから、十戒は守っていると答えたのです。 そこで、イエスは、さらにこうお答えになります。「すべての財産を売り払って、貧しい人たちに分け与えなさい」と。 すると青年は、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去ったとあります。 イエスの考えははっきりしています。「十戒を守る」というのは、そんなにやすやす言えるものではないということです。 この青年は、十戒を守っていると明言しました。しかし、ならばどうして、彼の元には有り余る財産が寝転んでいたのでしょう。 イエスが「すべての財産を売り払って」と言ったのは、「無一文になれ」ということではないはずです。 むしろ、与えられているものを神と人のために生かしなさいという程度のことだったはずです。 けれども彼にはそれができませんでした。なぜか。 それは、彼が自分の富を、自らの手で築いたものだと思うところがあったからではないでしょうか。 しかし、人が富むというのは、神の祝福の結果、成功の証ではないのです。それは、神と人を愛するために、神がその人を信頼して与えられた機会なのです。
石井籐吉という人がいました。強盗、強姦、殺人を繰り返した凶悪犯罪者で、投獄されても、全く自分の犯罪について、反省する所のない人でした。 そんな彼が、聖書を読んで、キリストを信じるようになってから全く変わった人となり、看守にも従順になり、よく働く模範囚になったと言います。 今日の箇所で、パウロは、王とすべての高い地位にある人、つまり政府が私たちの平安で静かな一生を保証するものであることを示し、 そういう人たちのために祈るように勧めています。確かに、政府は、様々な国民の利害対立を調整する役割を演じています。 警察権をもって、悪人を拘束し、指導する力も持っています。ですから彼らの働きのために祈らなくてはなりません。 しかし彼らは、そのようにして社会秩序を守る事は出来ますが、人の心を変え、新しい人生に導くことはできないのです。 人を変える力はキリストにのみあるのです。
キリスト教と言えば、多くの人は十字架と聖書をイメージすることでしょう。 しかし、十字架が何を意味し、聖書が何を語っているか、そこまで正確に知っている人は少ないのではと思われます。 また、イエスはキリスト教の教祖として理解されていますが、そこには一つの誤解があるようです。 つまり、多くの新興宗教の教祖は上に立つ者、指導者として振る舞っているので、イエスもそのように理解されがちです。 しかし、イエスは、そうではありませんでした。聖書は、イエスは仕えるために来られたと語られています。 その遜りの極致が、自分のいのちを全ての人のためにささげるという、「十字架」なのです。 しかしながら、その遜りは何を意味するのでしょう。聖書は、それは贖いを目的とするものであったと言います。 つまり、イエスが、罪の奴隷であった私たちを、代価を支払って贖ってくださったというのです。 人は皆罪人と言わねばなりません。犯罪人であるというわけではなく、罪人なのです。 心に汚れを持ち、傷を負っていない人など一人もいないからです。 そしてそのままではだれ一人、神の御もとに行くことができません。 しかし、イエスが私たちの代わりに罪を償って下さった。 イエスが私たちの代わりに神の裁きを受けてくださった。 本来私たちが追うべき十字架の死を、イエスが負って下さり、私たちを神と和解させてくださった。 それが十字架であり、イエスの遜りの目的であったというわけです。イエスは仕えるために、まさに救いをもたらすためにこの世に来られたのです。
| 2001年09月 |
ある人が、農場を買いました。そこに、一つの井戸があって、その井戸には毒があるというのです。 すると、農場を買った人は、驚く様子もなく、「だいじょうぶだ。ちゃんとしてやろう」と言って、 ポンプにペンキを塗ったという話があります。これは笑い話です。 井戸のポンプにペンキを塗って綺麗にしたどころで、井戸の水まで綺麗になるわけがありません。 しかし、しばしば人は、同じようなことをしているようにも思われます。 私たちの心の中にある、様々な汚れた思いや悪い考えには手をつけることがなく、 ただ、化粧をしたり、綺麗な衣服を着たり、立派な肩書きを身につけたりと、体裁をよくして、自分を少しでもよく見えるものにしようとしています。 しかし、めっきは必ずいつかは剥がされるものでしょう。 私たちに必要なことは、源泉へ行くことです。源泉をきよくすること、元を断つことです。そうすれば流れもきよくなります。 心を正しくする。そうすれば生活も正しくなるのです。問題の所在は心であり、人間が必要としているのは、新しい心、新しい創造なのです。 それは、よい決心をすることとは違います。よい意志を持つことでもありません。 まさに、神の力によって、新しい心を与えていただくことにほかならないのです。
しばしば人は、過去や経歴、家柄などに拘ることがあります。 あんな親だから、あんな学校しか卒業できなかったから、自分はこうなってしまったのだ、と自分の将来に希望を持てないでいることがあるのではないでしょうか。 しかし、今日取り上げた箇所は、実に驚くべきことを伝えています。 神が、私たちを選び、愛し、祝されるのは、私たちがどんな家柄に生まれたとか、どんな功績を成し遂げたかとか、 どんな姿、容貌であるとかには一切関係がないというのです。 神が私たちを祝されるのは、私たちがこの世に生まれる前に、神が私たちを選んでいてくださったからです。 今ある、私たちの功績も、あるいは過去の失敗も、皆、私たちが生まれなくては起こり得ないことです。 私たちは、生まれてから、今日まで積み重ねてきたもの、それが悪いものであれ、よいものであれ、それで人間としての価値が決まり、 将来の方向性も決まってしまうように思います。 しかし、神は、そう考えてはおられないのです。神は、私たちの価値を生まれる前に、 つまり私たちが自分自身の人生に何かを積み重ねる前にすでに認めておられます。また、私たちを祝し、あることのためにお用いになろうとすでに定めておられます。 大切なことは、この神を信じ、神のもとへ行き、神とともに歩むことを決心することです。 そうすれば、私たちは、私たちの思いを超えた、神の祝福の道に目が開かれることでしょう。
祈りの大切さは、強調しても、強調しすぎることがありません。私たちの信仰の成長、伝道の成長、教会の成長、一切が祈りにかかっているのです。 なぜなら聖書は、それらが皆、神の働きによって、導かれるものであることを明言しているからです。 となれば、私たちはまず何よりも、神がすでに働いておられることを覚えて、「感謝の祈り」をささげたいものです。 また神の働きを覚えつつ、私たちの最善をなしたという「報告の祈り」もささげたい。 事実、パウロは次のように祈っています。
「私たちは、あなたがたのために欠かさず祈り、神様に感謝しています。 そして、いつも忘れずに、あなたがたの愛にあふれた労苦と、強い信仰、 それに主イエス・キリストのおいでを熱心に待ち望む態度を、父なる神に申し上げているのです(リビングバイブル訳)」
祈りには様々なあり方があることと思われます。一番身に覚えのあるのは、「願いごとの祈り」です。しかし、ここには感謝と報告の祈りがあります。
| 2001年10月 |
イエス様の弟子、ペテロとヨハネが祈りのために、宮に登っていった時のこと、生まれつき足のきかない男が運ばれてきました。 それは、宮参りをする人々から施しを求めるためでした。その男は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見ると、施しを求めました。 今日取り上げた聖句は、その時にペテロが語ったことばです。
以前教会に、浮浪者の人が施しを求めて来たことがあります。 ちょうど東京都庁の前に動く歩道を作るために、段ボール長屋が解体され、浮浪者が退去させられていた時です。 その人は、住む場所がなくなるので、身よりの入る神戸へ行くお金を求めてきたのです。 色々と話しを聴いていく内に、その人は、何度も色々な教会のお世話になっていることがわかりました。 そして、この聖句を何度も聞かされた話しをしてこう言いました。 「これほど嫌なことばはない。だって、わたしが欲しいのは、目に見えない神様なんかじゃなくて、 現実のお金なんだ。お金がなかったら、何もできないじゃないか」 神戸行きの切符を手にしたその人は、再び訪ねて来ることもありませんでした。 目に見える物を頼りにする思いが、だれの心にもあるものです。目に見える物がすべてであるという心が、だれの心にもあるものです。 それは目に見えない神様の力を知らないためなのでしょう。目に見えるものは一時的なものです。 しかし、目に見えない神の力は、私たちの可能性を超えて働くものなのです。
玉川の教会には明確な目標があります。それは、「主を愛し、主に従い、主の栄光を現す」というものです。主とは神のことです。 主を愛するというのは、神の心を自分の心とすることに他なりません。また、主に従ことは、神の心に生きることそのものです。 ですから、聖書を通して神の心を知り、神の心に生きていくというのが、この教会の大切な目標なのです。 しかし、そのような生き方は、実際、大変難しいことであると思われます。 神の心を生きるというのは、十字架の心を生きることだからです。 キリストが全人類をお救いになるために、ご自身の命を犠牲にされた、その道に従うということです。 こう考えますと、やはりキリストの心に生きるためには、神の力と助けが必要であるということになります。 神の力と助けに支えられながら、キリストの心に真実に生きてゆきますときに、人々はやはり神というものは存在するのだということにもなるでしょう。 つまり、そのような生き方を通して、神が本当に生きておられることを、まだ神を知らない人々にわかっていただく、 そしてそのような人々が神の家族である教会に集うようになり、ともに神を礼拝する家族となるならば、それは神の栄光を現すということに他なりません。 主を愛し、主に従うということは、主の栄光を現す結果を生むものなのです。 昔の文語訳聖書は、この箇所を、「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」と訳しました。 キリストの心を心とし、生き、神が確かにおられると人々に証することが、玉川キリスト教会の目標なのです。
聖書は、キリスト教会の最初の殉教者ステパノの死をこのように伝えています。 ステパノは、神を冒涜したという罪のために、裁判をかけられ、石打の刑となって死にました。 ステパノは裁判で弁明いたしましたが、そこで大切なことについて触れています。 それは、神様が、神様を求める者とともにおられるということです。 神様は、教会、礼拝堂、そういった場所に据え付けられているようなお方ではありません。 神様はどこであれ、呼び求める者のすぐ側におられるのです。 たとえそれが、四畳半の小さなアパートの一室であれ、騒がしいオフィスの中であれ、複雑な事情があって、辛くなるような家庭の中であれ、 どこであれ、神様は、呼び求める
またステパノは神様があわれみの方であることを、身を持って示しました。人間は、ひどい仕打ちを受けますと必ず復讐を考えるものです。 しかし、神様はそうではありません。ステパノは、自分を殺す者に向かって、「主よ。この罪を彼らに負わせないでください」と祈りました。 これはイエス・キリストが十字架上で祈った祈りと同じです。 そして神様は、この祈りを聞いてくださいました。ステパノの死は、神様にとっても大変な心の痛む悲しい出来事であったことでしょう。 しかし、神様はそのような仕打ちをする者が、無知蒙昧のゆえにそうしていることを知っておられます。 ですから、自らの過ちを認め、悔い改めるならば、神は赦し、恵みと祝福を拒むことがありません。人知では、理解しがたい、神様の深い愛がそこにあります。
| 2001年11月 |
先日、ある宗教学の本を読んでおりましたら、そこに宗教を求める人たちの三つの態度が書いてありました。 一つは、「誓願態」。平たく言えば、御利益の心から宗教を求める態度です。次に「希求態」。 それは人間の生き方の軸として宗教を求める態度。最後に「諦住態」。 「さとりに住む態度」と書きますが、神との神秘的な合一を求めるあり方です。 さて、日本人の信仰の求め方を考えますと、どうも、一番目の「誓願態」、つまり御利益的なものが多いように思われます。 実際、日本の宗教人口は約30%と言われますが、そのほとんどは、新興宗教の信者というのですから、そうかもしれません。 そして既成のキリスト教を信じる人が少ないのは、いわゆる「ご利益」がないためなのだとも言えそうです。 けれども、キリスト教に本当に御利益はないのでしょうか。 パウロは、言います。確かに金儲けになるような御利益はない。しかし、キリスト教の最大の御利益は、「満ち足りる心を伴う敬虔」にあると。 「満ち足りる心」は、原文のギリシャ語では、「足ることを知る心」となります。実際パウロは、そのような心を与えられた人でした。 パウロは、信仰のために牢獄に押し込められても動揺したりしません。外の様々な状況に煩わされない静かな心を持っていたのです。 またパウロは、欲望を満たそうと、つねにきゅうきゅうとするような人ではありませんでした 現実的に言えば、どんな身分や地位に置かれても、どんな経済状態にあっても、悲観したり、失望したりせず、それなりに満足していることができるということです。 キリスト教を信仰するご利益は、「足ることを知る心」が与えられていくことなのです。
現代は、罪意識の失われた時代と言えるのかもしれません。 自身の心を内省する、そして、自分の弱さ、愚かさ、罪深さと向かい合う、それはなんともうつうつとした暗いお話のようです。 自分の言動の間違いを自覚したり、自分が口で言っていることと実際にやっていることの違いを認識したり、さらには他人を批判しながら、 自分が同じことをしている過ちを自覚したりする、そうした自分の心のからくりと向かいあうことは、大変な勇気とエネルギーを要することでしょう。 けれども、私たちの生活からこういう心の作業が失われていく結果、他人に対する寛容さも失われていくようにも思われます。 現代は不寛容な時代であると言われますが、その背景には、こうした自己認識の甘さもあるように思います。 人間が「人間」であることを知っていく、善ばかりか、悪を秘めた者であり、グレーな現実を持っていることを知っていくことは大切なことのように思います。 そういう認識があれば、私たちは、お互いに聖書が語る「罪人」としての弱さの中から相手の様々な言動を見ることができ、支えあい、 助け合う心を持つこともできるように思うからです。 ただ、そのような自己の現実に直面するには、どのような私たちの現実にも驚くことなく、あるがままに、完全に受け入れてくれる、 私たちの造り主である神の存在が必要なのでしょう。
ヘブル書の著者は、「神に近づこう」と勧めています。目に見えない神に近づきましょうというのです。 それは、「心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられたからだ」と言います。どういうことでしょうか。 その昔ユダヤでは、罪のゆるしのために、動物をいけにえとしてささげていました。人間の犯した罪は、命をもってつぐなわれなければならないというわけです。 しかしながら、多くの人は、罪のつぐないなど、私には関係がないと思うことでしょう。 自分の心がそんなに正しくはないとしても、まあ、人並みに正しくないのだ、という程度ではないでしょうか。 しかし、ユダヤ人はそのようには考えません。神は、全く聖なる存在です。 そのような神の目から見れば、人間の心は、果てしない暗闇であり、「邪悪」そのものなのです。 問題は、「邪悪」な人間が聖い神に近づくことを許されないということです。 そこで昔のユダヤ人は、その邪悪さをきよめるものとして、動物のいけにえを用いました。 自分の代わりに動物を犠牲にして罪の赦しときよめを得ていたわけです。動物の命を犠牲にするところに、彼らがいかに心の罪の深さを感じていたかがわかります。 聖書は言います、あなたはもう心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられている。 イエスキリストの血の注ぎを受けてきよめられていると。私たちは動物を犠牲にしたわけではありません。 しかし、神が私たちのために、ご自身の一人子であるイエス・キリストを犠牲にされました。 私たち一人一人の罪が赦され、神に近づくことができるようになるためです。 あなたはイエス・キリストの血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられている。 きよめられているからきよめられている者らしく、信仰をもって、神に近づきなさいと聖書は言うのです。
詩篇3編には、ダビデがその子アブシャロムから逃れた時の賛歌というタイトルがあります。 ダビデ王の子アブシャロムが謀反を起こし王位を奪われる事件がありました。 ダビデ王は、少数の部下を連れて、命からがら素足で、ケデロン川を渡って逃げるのです。 オリーブ山の斜面を登る時には、マントで顔を覆って泣きました。 ダビデ王の不幸をいい気味であると思った家来が、ダビデを見つけ石を投げつけ、口汚くののしりました。 そんな様子を色々と想像しますと、ダビデという人物にとって、これほど絶望的で、苦渋に満ちた時はなかっただろう、と私は思います。 ところが驚くことに、ダビデの口からは、「しかし主よ」に続く、神への信頼と確信に満ちた祈りが出てくるのです。ダビデに救いはない。 こんどこそはだめだ、終わりだと皆が思っていましたし、ダビデ自身もそう思ったかもしれません。けれども、ダビデは、救いがあると叫ぶのです。 私たちの人生にもダビデほどではなくても、涙顔を隠し、素足で面目もなく退却し、耳には中傷ばかりが響き、皆が誤解し、 皆が攻撃し、自分の立つ瀬がないと思える時があるかもしれません。 自分を思いっきり毒づいて、死んでしまいたいと思うことがあるかもしれません。 しかし、神を信じる者は、「主は私のかしらを高くあげてくださる方」と神に望みを置くことができます。 「救いは主にある」と確信を持つことができます。天地創造の神を信じるというのは、実に力強いことなのです。
| 2001年12月 |
明治32年、東京大学で土木学を講じた広井勇教授は次のように述べています。 「もし工学が唯に人生を繁雑にするのみならば何の意味もない。 これによって数日を要するところを数時間の距離に短縮し、一日の労役を一時間に止め、それによって得られた時間で静かに人生を思惟し、 反省し、神に帰る余裕を与えることにならなければ、われらの工学には全く意味を見出すことはできない」 学問は実生活に余裕をもたらし、その余裕は、「静かに人生を思惟し、反省し、神に帰る」ものである、 そんな指摘が、私にはとても考えさせられることばでした。 広井教授のような人々の努力のおかげで、私たちの生活は、明治時代のそれとは比べ物にならないほど、ゆとりを持ったものになりました。 にもかかわらず、現代の多くの人は、そのゆとりを、さらなる繁雑と変えているように思われるところがあります。 生活が便利になった分、人は、その余裕を「静かに人生を思惟し、反省し、神に帰る」こととは別のこと、 つまりさらに自分の欲求を満たすために使っているのではないでしょうか。 自分の欲求を満足させるためにのみ、日々あくせくして生きるか、 それとも、一つの「時代」と「場所」に置かれた人間として、その神の大目的を考えながら生きていくか、それは大きな違いであるように思われます。
ある人が、「『運』というのは、水の上にある」と語りました。つまりこう言います。 「運が陸の上にあるなら行って拾えばいい。ところがあいにく水の上にある。 水上にある運をつかまえるには、ざぶんと飛び込まなければならない。 だからこわがっていたり、しぶっていたりしたのでは見逃すだけである。 また、飛び込んでつかんだものの、片手で岸に泳ぎ着くまでには、相当の努力がいる。 だから水にざぶんと飛び込む度胸と努力の二つがないとだめだ」 確かに、人生の中には、「棚からぼたもち」とか、「果報は寝て待て」では、なかなか幸せをつかむことができないことがあります。 自ら、熱心に求めなくては「待ちぼうけ」になってしまうことがあります。 イエスも同じ様な話をなさりました。こうです。 「ある夜中、突然友達が食料を求めて訪ねてきました。 あいにく何一つなかったので、お隣の家に事情を話して、何かないだろうかと頼んだのです。 ところが、お隣の友人は、もう遅いから明日にしてくれないかと言います。 しかし、迷惑も承知で立ち寄った友人のために、さらにお願いしました。そこで、その友人は、しつこい求めに、起きあがって、必要なものを与えたのです」 熱心に、求めていく、捜していく、叩いていく、そんな努力を忘れてはいけません。
救い主とあります。何からの救いか、あまりきちんと理解されていない事柄のように思います。 たとえば当時のユダヤ、救い主は、ローマ帝国の支配からユダヤ民族を解放する政治的な指導者である、という理解が多かったようです。 日本ではどうか、色々と救いを語る人の話から察すると、救い主は病から解放してくれる、あるいは人間関係の苦悩から救ってくれる、 成功できない、幸せになれないことから救ってくれる、そういう方だと考える傾向にあるのではないでしょうか。 ユダヤにしても日本にしても、ご利益的な救い主理解です。けれども、聖書が語る救いというのは、そういうものではありません。 まあ、天地をお造りになった神様を信じているわけですから、そういうご利益もあるとは思いますが、 大切な救いの理解というのは、人間の罪の状況を考えずにしては得られないのです。 聖書は、人間は誰一人正しい心を持っていないことを告げています。 ですから人間には、愛と聖と義の塊である神様と一緒に歩む、あるいは死して神のもとに帰る何の望みもないわけです。 そんな人間に神様の元へ帰る道を開いてくださったのがイエスである、つまり救い主であるというわけです。 聖書が語る救い主というのは、神様と一緒に人生を歩むことを可能にする、そういうお方であるという点が大切です。 そんな救いなどいらない、あまり関係がないと思われますか? しかし、「朱に染まれば赤くなる」と諺にありますように、愛と聖と義に満ちた神と10年でも一緒に歩んでみるなら、 その人の人生というのは、普通の人生ではありえないと私は考えます。
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