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| これまでのショートメッセージ(2000年度) |
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| 2000年12月以前 |
そんな私の気持ちを察したのか、患者さんある日、「こんな歳で、もう楽しいことなんか何もね」
とつぶやいたことがあります。
今でも、この聖書の箇所を読みますと、あの患者さんのことばを思い出します。
若さも青春も一瞬であり、それらは皆過ぎ去ってしまいます。そして、「何の喜び
もない」という年月は確かにやってくるのです。
この「何の喜びもない」歳が近づいても、なお喜びに生きるために、聖書はあなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」と勧めます。そこには、人生が天地をお造りになった神を知るためにあり、また神の栄光を現すためにあり、さらに神の元へ帰る
ための備えの期間としてあるという思想があります。確かに人生は、空騒ぎで終わら
せるには、あまりにも貴重なものではないでしょうか。
けれども人類の歴史において、ただ一人その精神を語り、その精神に生きた方がお
ります。
イエス・キリストです。イエス・キリストはまさに純粋な愛の固まりに生き
たような人でした。
事実イエスは、御自分につばきをひっかけ打ち叩き、茨の冠をかぶせてさんざん痛
めつけ、嘲笑し、最後には十字架にはりつけにするというむごい仕打ちをした者たち
を前にこうお語りになったのです。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」
普通の人間であったら、「この恨みはらさでお くべきか」とでもなるのではないでしょうか。
けれどもイエス・キリストは、全く憎 しみや恨みといった感情から自由なお方でした。
そこに、私たち人間の本来あるべき姿が示されています。悪い考え、貪欲、好色、
ねたみ、憎しみ、高ぶり、そういったものから自由にされる人生。
イエスが示された 究極の人間の姿ではないでしょうか。そしてその実現にこそ、神の救いの力が必要とされるのです。
イエス様のおことばをどのよう に考えたらよいものでしょう。
私は一つの誇張法と考えてみてはどうかと思います。
つまり「手向かってはいけな い」ということを強調するために、あえてどっきりするようなことを言う誇張法であろうと。
ですから、こう語ることで、イエス様が何を言いたかったのか、その精神をつかみ取ることが大切ではないかと思うのです。
で、その精神ですが、それは人間のこころには復讐心があり、それが刺激されるととどまるところを知らないということへの警告ではないかということです。
人間はやられたらやり返す。そしてやられた方は、さらにやり返す。そうやって、どんどん仕返しの泥沼にはまってゆく。
人間社会にはそういう愚かしい現実があります。その仕返しの悪循環は、どこかで断ち切らなければなりません。
となれば断ち切るのは、愛のこころを学んだあなたではないだろうか、「悪い者に手向かってはいけない。愛す
る弟子たちよ!」というわけです。
そこで第一に神の栄光を祈ることが勧められます。「御名があがめられますように」 というフレーズは、原語のギリシャ語を直訳すれば「御名が聖まりますように」です。 つまり、「聖なる御名が聖なるものとして区別されますように」ということです。しかし、これは稀な祈りであると言えないでしょうか。
多くの人は、神を召使のように考えています。拝み倒して神を自分たちの意のままにしようとしています。
聖なる御名を畏れるべきものとして、あがめるのではなく、 聖なる御名を利用し、自分たちの配下にし、汚すことに専念してしまうのです。
人間の本性がそのようなものであるということに、私たちは気づかねばなりません。
そして神を神とすることを学ばなくてはなりません。
そのために、私たちは「御名が 聖まりますように」とこころから神を頌えるところから、祈りを始める必要があるのです。
ヤコブの手紙の著者は、本物の宗教のしるしとして三つのことに触れています。聖書の中では、めずらしく「宗教」という言葉が使われていますが、もし、宗教が本物ならば、それには次の三つの特色があるだろうというわけです。
第一にそれは、舌がコントロールされているかどうかです。二枚舌でなく、心の内側と外側とが違っているまやかしものではない、自分も人もあざむかない偽りのない宗教であるといいます。
第二のしるしは、道徳的にきよい生活を保っているかどうかです。不道徳な罪の誘惑に負け、腐敗をさらしているような宗教は本物ではないとヤコブは言います。
最後のしるしは、口先でない、愛の実践があるかどうかです。孤児ややもめ、困っている人を本当に世話する宗教。自分がほめられるためにとか、自分が得するからと
かいうのではなく、真に混じりけの無い愛を実践している宗教です。
これがヤコブの言う本物の宗教の三つのしるしなのです。
99%の人は、「私はそんなふうには決して考えない」と思っているかもしれません。
しかし、実際に頭では分かってはいても、人間の心や社会はこうした見方でがんじが
らめに縛られているのではないでしょうか。うわべだけでその価値を決めてしまう人
間社会。実に耐えがたいものがあります。
ところで、聖書には、「人はうわべを見るが、神は心を見る」という言葉があります。今日、私たちが覚えたいのは、差別という現実は、人間の社会の中では避けられない事実ですが、心を見ていてくださる神様がおられるということです。聖書が人々 に真剣に語りかけることは、そのような神様が生きておられ、全ての人に深い関心を 持っておられるということです。聖書の神様は、人の命をいつくしみ、人の可能性を大切にし、たとえ今は罪にまみれた罪人であっても、それを宝のように見てくださる 方なのです。
神様を信じるクリスチャンに対してヤコブは、「えこひいきしてはいけません」と勧めているのも、差別せず、心を見られる神様を知り、信じているからこそでもあるのです。
実に、日本人もまた敗戦を経験した国民ですが、かつてのエレミヤたちが味わったような悲惨なものではありませんでした。
彼らは、住み慣れた土地から征服者の首都、バビロンに強制移住させられ、また彼らの町々は、ことごとく破壊尽くされたのです。
こうした悲惨な状況に、エレミヤは、自分たちが神をあがめず、神を無視し、自分たちの欲望の赴くままに生きていた、そのことへの神の裁きを見るのです。
そして、神の御前に打ちのめされた思いで、嘆き悲しむのです。
しかし、そればかりではありません。エレミヤは、主が慈しみ深い方であることを忘れませんでした。
主を待ち望み、主を求める者を決して拒まれず、むしろ、救いの手をさしのべられる、神の変わらない真実な態度を思うのです。
実に、私たちが取り返しのつかない失敗をしてしまい、世間のそしりを受けることがあるかもしれません。
しかし、神は、いつまでも私たちを見放しておられることはありません。神は、待ち望み、求める者に助けを与えられるのです。
そして、どんなに私たちが、神を無視し、神をあがめない者であっても、悔い改める
ならば、神はこれを拒まれません。そんな神様は私たちに甘すぎるでしょうか。
しかし、それが聖書の神様 なのです。
そんなある日、I さんは、とつとつと自分の過去について語り始めました。
親のば くだいな財産を受け継ぎ、結婚もせずに気ままに暮らしてきた日々のこと。
そこには、人間ならばだれしもが経験する失敗や愚かさも語られていました。けれども、I
さんはそのような失敗や愚かさを忘れることができないのです。
I さんは苦しそうに言いました。 「どうしたら僕は、この罪の苦しみから逃れることができるのだろう」イエス様の救いが語られたのは言うまでもありません。
末期がんでまさに死ぬという時に、Iさんが末期がんの苦しみよりも、罪の重荷からの解放を求めたことが、私にはとても印象深く思い出されます。
病のいやしよりも、罪からの解放が求められる。
このような必要は、ただイエス様にのみ満たしていただくことのできる恵みの御業なのです。
問題は,人が自然と切り離された生活をすることで、その真の恩恵を受けそこなっているということなのです。
私たちには,職場の人間関係やら仕事の事、また子供の教育やら、健康のことなど様々に思い煩うものがあります。そんな時、多くの人々は、解決を求めて電話相談やカウ
ンセリングのダイヤルを回します。しかし,イエス様の処方箋は、自然に目を向けなさいということです。
コンクリートで囲まれた空間の外に出て、自然に目を向け、自然の秩序がどのようにして成り立っているのか。
どのようにして維持、回復されているのか、よくよく見てご覧なさいと言います。
というのは、そこに人の心を支える神のメッセージがあるからです。
空の鳥がさえず り、空を自由に飛ぶ様を見る時に、私たちは、彼らを養い、支えられる神が本当にいる
ことを思わずにいられないことでしょう。
自然という優れた説教集を開く時に、私たちは、八方塞がりの状態であれ,思いがけない助けと回復力を与えて下さる神の存在を発
見し、信頼できるに違いないのです。
普通、イスラエルの女性は、涼しい早朝か夕方に水くみをするのです。
けれども、この女性がやってきたのは、日がさんさんと照っている真昼でした。
どうやらあまり人付き合いしたくない事情があったようです。
井戸端会議ということばもある ように、イスラエルでも井戸端は、噂話の格好の場所であったのでしょう。
そんな人目を避けてやってきた女性に、イエス様が声をかけます。
「水をください」いじわるにも、この女性は、「あなたはサマリヤ人とはお付き合いをしないユダヤ人でしょ」、「水くむ
ものももっていないようね」とさりげなく断るのです。
すると、イエスは、不思議な話をなさいました。
「この水を飲む者はまた渇きを覚えるでしょう。けれども、私が与える水は、決して人を渇かさず、その人の内で、永遠のいのちの泉となるでしょう」と。
だれにでも、のどがカラカラに渇いた経験があると思います。
それは人間の体の生理的で自然な 仕組みです。けれども渇くのは、体ばかりではありません。心もそうなのです。
人間の心もまた、カサカサに渇いてしまうことがあります。
それで人は、音楽を聞いたり、おしゃべりをしたり、買い物をしたりして、自分を元気づけますが、その効果は長く続きません。
一時的です。どんなに好きな音楽を聞いても、沈む心をどうすることもできないときがあるものです。
イエス様は、「そんなときにはわたしの元へ来なさい。わたしが、心の奥底からわき出る泉を与えよう」とおっしゃっているのです。
up
| 2000年12月 |
ところで、小林秀夫は、「男は40になったら死に支度をしろ」と言ったそうです。
今私は、その年を前に、自分の人生に回り道や道草をする余裕もないと感じるところがあります。
そこで改めて自分の人生の定款はどうなっていただろうかと考えてみました。
この書の著者は、若いうちに、人生の定款をしっかりと書き上げて歩みなさい、その第一は、「自身の創造者を覚える」にしなさいと勧めているようです。
人生の目的を上げるなら、十人十色、様々なものがあるに違いありません。
けれども、人生をトータルに見ることのない目的など、目的ではありません。「何の喜びもない」という年月を見越し、さらには人間の魂の永遠性を考えた目的が、第一とされるべきだと私は考えます。
小さなキリスト教界(福音派)の中でのこととは言え、正直なところ、とても戸惑いました。
これから先、自分はどうなるんだろうかと、いつも気がつけば考えている始末です。
けれども、あれこれ考え、時間が経つ内に、やはり主イエスが、「あなたは私に従いなさい」とペテロに語りかけたその姿を思い出しました。
言い換えれば、環境がいかに変わり、動こうと、やはり神様が与えてくださった楽しみに自身を投じて生きるということです。
そういう意味では、やはり、牧師として益々みことばに深く教えられたいという気がしています。
「朝早く起きて、教えを聞こう」とした民衆に紛れて、イエス様の足下に座り、耳を傾けようと、新世紀に向けて決心がついたこのごろです。
しかしそんな中、静まって、イエス様がこの地上にお生まれになったことの意味を考え、信仰に立たせられる時を持ちたいものだと思わされます。
イエス・キリストは私たちに何をもたらされたのでしょう。
イエス・キリストを信じクリスチャンになるというのはどういう意味を持つのでしょう。
私はこう考えます。イエス様は、私たちが新しい人生に生きるためにお出でくださったと。様々に人生を生き抜いてきた人ならば、新しい人生に生きるために、いかに新しい力が必要であるかを知っているはずです。
人の励まし以上の力、神の力と祝福が必要であると。
主イエスが、私たちを新しい人生へと導き、サポートしてくださることの祝福を、クリスマスの喜ばしき日に覚えることにしましょう。
新世紀を前に、祈りによって、私たちの人生を、家庭を、仕事を、教会を、そのほかの一切を建てあげてゆく決心をいたしましょう。
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